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君 特攻するなかれ

作者: 武田理感
掲載日:2026/03/18

第一章「私らの霊は坂本竜馬らとともに靖国神社に祀られている」



神風の特攻隊に、私は所属していた。


魂は、坂本竜馬、高杉晋作、東條英機、近衛文麿、吉田松陰、大村益次郎、中岡慎太郎、武市半平太と共に、靖国神社に祀られている。靖国神社は、日本国のために殉難した英霊が祀られている神社。


坂本竜馬が祀られているとはいえ、霊は無色透明なため、誰が誰なのか分からない。


山本五十六・連合艦隊司令長官を存じ上げいるけれど、彼は海軍、私は空軍なので、面識ない。


「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」と詠んだ人物。


私の名は、佐々木栄吉。22歳。


沖縄沖にて特攻し亡くなったため、軍神と呼ばれている。海軍中尉。


大正12年生まれ。


東洋大学を卒業し、国鉄に勤めた。


折も折、太平洋戦争が勃発。


桜花おうかという滑空機に乗り、特攻。


特攻なる人間爆弾を考え出したのは、日本海軍の最高指揮官である大西瀧治郎中将。


「特攻の父」と呼ばれた。


特攻を発案した張本人として、責任を取り、割腹自殺。


彼一人が自殺したところで栓ない。若き命を返してほしい。


特攻に反対した軍人は、海軍の飛行部隊部隊の隊長だった美濃部正。


私の日本刀が、弟の佐々木善治の元にある。奇しくも彼もまた東洋大学卒。


特攻というと、ゼロ戦のような戦闘機に載り、敵艦めがけ突っ込むイメージが広まっているが、それはそれで正しいにせよ、私達が乗った桜花は、親機に吊るされ、高度4,000mから目標めがけ分離、時速800kmで体当たりする仕組み。


富士山が3,776mなので、山頂より高いところから滑空するといえば、どれだけ高いかお分かりになるだろう。


時速800kmとは、羽田空港発着の旅客機が飛行する速度。新幹線の2.5倍。速い。


桜花は、白い機体に、桜の花と、日の丸。


エンジン等の動力なく、翼に受ける揚力を利用し飛行する滑空機。


プラスチック製のグライダーといえば分かりやすいかも知れない。


搭乗員の脱出装置や、不時着用の車輪はない。


桜花は、片道切符で、帰還できない。


後継機には、モーターやエンジンが搭載されたらしい。


桜花なる滑空機で55名が特攻し、戦死。


機首に1トン以上の爆弾を搭載。爆薬1トンといえば、軍事施設を破壊できる爆発力に等しい。


桜花以外の神風は、海軍の航空特攻の総称。6,371人が特攻して亡くなった。


桜花以外の特攻機には、


ゼロ戦、紫電改、天山、彗星、白菊、橘花等、飛行能力を有する戦闘機が使われた。


合計6,371人が特攻し、命を散らした。




第二章「英霊たちの遺書」



特攻で散った若者たちの遺書


私たちと同じ特攻で散った英霊たちの遺書をyoutubeより引用。



国吉秀俊少尉 21歳 出撃 戦死


この度、特別攻撃隊を命ぜられました。


武人最高至上の幸福です。


笑って散ってゆきます。


お母さんも泣かずに喜んで下さい。

生前の不幸は幾重にもお詫び申し上げます。

日本男児として誰にも負けない行動を取りますの故


私の事は御心配なき様お願い致します。

ではお母さん

左様なら



特攻隊員の大石清伍長より妹へ宛てた手紙


大石静江ちゃん11歳。

大石伍長17~18歳。


せいちゃん

お便りありがとう。


何べんも何べんも読みました。

お送りしたお金、


こんなに喜んでもらえるとは

おもいませんでした


神棚などに供えなくてもよいから、

必要なものは

何でも買って、つかって下さい。


兄ちゃんに給料は

うんとありますし、隊にいると

お金を使うこともありませんから、

これからも静ちゃんのサイフが

空っぽにならない様、

毎月送ります。


では元気で、

おじさん、おばさんに

よろしく。


なつかしい静ちゃん!

おわかれの時がきました。

兄ちゃんはいよいよ出げきします。

この手紙がとどくころは、

沖なわの海に散っています。


思いがけない父、母の死で、

幼い静ちゃんを

一人のこしていくのは、

とてもかなしいのですが、

ゆるして下さい。


兄ちゃんのかたみとして

静ちゃんの名であずけていた

ゆうびん通帳とハンコ、


これは静ちゃんが

女学校に上がるときに

つかって下さい。


時計と軍刀も送ります。

これも

木下のおじさんにたのんで、

売ってお金にかえなさい。


兄ちゃんのかたみなどより、

これからの

静ちゃんの人生のほうが、

大じなのです。


では元気で、

おじさん、おばさんに

よろしく。


もうプロペラが回っています。

さあ、出げきです。

では兄ちゃんは往きます。


泣くなよ、静ちゃん。

がんばれ!


大石静恵ちゃん、

突然、見知らぬ美濃からの手紙で

おどろかれたことと思います。

わたしは大石伍長どのの

飛行機がかりの兵隊です。



伍長どのは今日、

みごとに出げきされました。


そのとき、このお手紙をわたしに

あづけて行かれました。


おとどけします。


伍長どのは、

静恵ちゃんのつくった人形を

大へん大事にしておられました。

いつも、

その小さな人形を飛行機の

背中に吊っておられました。


ほかの飛行兵の人は、

みんな腰や落下傘の縛帯の

胸にぶらさげているのですが、


伍長どのは、突入する時に

人形が怖がると可愛そうにと

言っておんぶでもするように

背中に吊っておられました。


飛行機にのるため

走って行かれる時など、


その人形がゆらゆらと

すがりつくようにゆれて

うしろからでも一目で、

あれが伍長どのと

すぐにわかりました。


伍長どのは、いつも

静恵ちゃんといっしょに居るつもり

だったのでしょう。


同行二人、

仏さまのことばで、そう言います。


苦しいときも、さびしいときも、

ひとりぼっちではない。


いつも仏さまがそばにいて

はげましてくださる。


伍長どのの仏さまは、

きっと静恵ちゃんだったのでしょう。


けれど今日からは伍長どのが

静恵ちゃんの“仏さま”にねって、


いつも見ていてくださいることと

信じます。


伍長どのは勇かんに


敵の空母に体当たりされました。


静恵ちゃんも、

りっぱな兄さんに負けないよう、


元気を出して

勉強してください。

さようなら





山元正巳少尉 19歳 出撃 戦死


父上様、母上様

永い間待ちに待った日がやってきました。


このたび皇国の為、立派に死ぬ機会を得ました。

皇国の安泰を護る為に喜んで死んで行きます。


皆さんは私が死んでも決して泣かないと思います。


それよりもニュースに出る敵空母轟沈を聞いて

私が体当たりしたものと思って喜んで下さい。


何の恩返しも出来ず、親不孝お詫び致します。

末永く幸福に御暮らし下さい。




相花信夫少尉 18歳 出撃 戦死


母上お元気ですか


永い間、本当にありがとうございました

我六歳の時より育ててくだされし母


血は繋がってないとはいえ育ててくだされし母

僕は幸福だった


最後まで「お母さん」とよばざりし俺

母上お許し下さい。


さぞ寂しかったでしょう

今こそ大声で呼ばせて頂きます。

お母さん、お母さん、お母さん と


そして ここから

ある特攻隊員の物語を遺書をご紹介します


法律関係の仕事に進む道を抱きながら

最も戦死率が高いと言われた


陸軍航空兵を志願した

穴沢利夫さん


穴沢さんには

婚約者の伊達智恵子さんがいました


2人の出会いは学生時代の時でした

そこから

いくつものやり取りが手紙で行われるようになりました


交際をスタートさせた2人でしたが

穴沢さんは陸軍航空兵を志願したことを

智恵子さんに伝えました


その時 智恵子さんの心境は…

利夫さんも今の時代に何が必要なのかを真剣に考え

彼なりに出した答えだと思います


はっきりとした恋愛感情はいかずとも

私はこの人に向き合おうと決めました

と ご自身の中で決心したそうです


1943年

「特攻隊」のニースが報じられるようになり、

穴沢さんの手紙の内容にも

おそらく近いうちに、還らざる任務につき自分

と書かれていました


それを受け取った智恵子さんは

利夫さんも特攻隊として

出撃してくのではないかと不安になり手紙で

いつも離れない、あなたのマフラーにならなりたいと思います

と書きました


これは智恵子さんなりのプロポーズの言葉でした


その年の12月

「還らざる任務につく」の言葉の意味を

知りたいと思った智恵子さんは

東京から大阪まで向かい

穴沢さんに会うことが出来ました


しかし

それを聞くことも出来ずにいた智恵子さんに

穴沢さんが

智恵子さんがしていたマフラーを自分の首に巻きました


それは穴沢さんなりの千恵子さんに対しての

プロポーズの返事でした

しかし

1945年3月

穴沢さんの元にも特攻命令が下りました


出撃前日


知覧で書かれた穴沢さんの日記には

四月十一日 明日十二日出撃と決定す


幸いにも天候も回復せりと書かれていました

1945年4月12日

穴沢さんの出撃を見送った人がいました


「なでしこ隊」の

永崎笙子(旧姓:前田)さんでした


笙子さんは

当時の様子をこのように語ってくれました


穴沢さんは午後三時頃に出撃されました

穴沢さんが一番機として出発線にいらした時

すぐ分かったので声をかけたら

こちらを見て、にっこりと笑ってくださいました

この写真は女学生に見送られて

飛び立つ穴沢さんの最期の姿です


この写真にも写っている穴沢さん

首元が膨らんでいます


白いスカーフの下には

智恵子さんのマフラーを巻いて往かれました


そして こちらが

智恵子さんに宛てた穴沢さんの遺書となります


二人で力を合わせて来たが、

ついに実を結ばず終わった。

そして今、晴れの出撃の日を迎えたのである。

便りを書きたい。

書くことはうんとある。


あなたのご両親様。兄様。妹様。弟さま。

みんな、いい人たちでした。


婚約をしてあった男性として散っていく男子として

女性であるあなたの少し言って征きたい。


「あなたの幸せを願う以外に何もない」

「勇気をもって、過去を忘れ、将来に新しい生活を見出すこと

あなたは、現実の中に生きるのだ。

穴沢は現実の世界にはもう存在しない。


今更、何を言うか、と自分でも考えるが。

ちょっぴり欲を言ってみたい。


読みたい本

「万葉」「句集」「道程」「一点鐘」「故郷」

見たい画

「ラファエル」「聖母子像」「芳崖」「悲母観音」


智恵子 会いたい、話したい、無性に

今後は明るく朗らかに

自分も負けずに、朗らかに笑って往く


皆さん一人一人に夢や希望がありました

それを投げ捨てて国のため

愛する人を守るために散っていかれました

上津一紀少尉 20歳 出撃 戦死


天皇陛下万歳


大君の為何か憎まん若桜

散ってかひある命なりせば

御両親様


私の幼少よりの念願今果たし、

南の空に笑って征きます。

何時何時迄も御壮健にて。


弟、妹よ。

兄としてなんらなすとこのなく散ってゆく

兄を恨むなかれ。


喜んでやって下さい。

兄の分も父上母上に孝行し給え

兄は安心して大君の御盾と散りにゆきます。


御健康を祈る。

祖父母様御体を大切に。


植村眞久大尉

愛する我が子へ残した手紙


植村眞久大尉は、内地を出発する前夜に

東京の自宅に電話をかけました。


生後三ヶ月の娘、「素子」の声を聞くため

妻に「お尻をつねって泣かせてくれと」

頼みましたが、

笑っている娘には出来ず

乳を飲ませたことろで離したら泣き出しました。


それが最後に聞いた娘の声です。


素子、素子じゃ私の顔をよく見て笑いましたよ・


私の腕の中で眠りもしたし、

またお風呂に入ったこともありました。


素子が大きなって私のことが知りたい時は、

お前のお母さん、佳代伯母様に

私の事をよく聴きなさい。


私の写真帳もお前のために家に残してあります。


素子をいう名前は私がつけたのです。


貴重な、心の優しい、思いやりの深い人に

なるやろうにと思って、お父様が考えたのです。


私は、お前が大きなって、立派な花嫁さんになって

仕合わせになったのを見届けたいのですが、

若し悲しんではなりません。


お前が大きなって、父に会いたい時は

九段へいらっしゃい。


そして心に深く念ずれば、必ずお父様のお顔が

お前の心の中に浮かびますよ。


父はお前は幸福ものと思ひます。


生まれながらにして父に生き写しだし、

他の人々も素子ちゃんを見ると

眞久さんに会ってゐる様な気がすると

よく申されていた。


またお前の伯父様、伯母様は、

お前を唯一つの希望にして

お前を可愛がって下さるし、お母さんも亦、

御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福のみ念じて

生き抜いて下さるのです。


必ず私に万一のことがあっても

親なし見などと思ってはなりません。


父は常に素子の身辺を護って居ります。


優しくて人に可愛がられる人になって下さい。


お前が大きなって私の事を考へ始めた時に、

この便りを読んで貰いなさい。


植村素子へ


追伸、素子が生まれた時おもちゃにしてゐた人形は、

お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。


だから素子はお父さんと一緒にゐたわけです。


素子が知らずにゐると困りますから教えて上げます。


佐藤新平少尉


日本男子として誰にも負けない行動を取ります故

私の事は御心配なき様お願い致します。


ではお母さん

左様なら


こちらが

智恵子さんに宛てた穴沢さんの遺書となります


二人でちからをあわせてきたが

ついに実を結ばずに終わった


そして今、晴れの出撃の日を迎えたのである。

便りを書きたい。


書くことはうんとある。

あなたのご両親様。兄様。妹様。弟様。


みんな、いい人たちでした


婚約をしてあった男性として散っていく男子として、

女性であるあなたに少し言って征きたい。

「あなたの幸せを願う以外に何物もない」

「勇気を持って、過去を忘れ、将来に新しい生活を見出すこと





山元正巳少尉 19歳 出撃 戦死


父上様、母上様

永い間待ちに待った日がやって参りました。

このたび皇国の為、立派に死ぬ機会を得ました。

皇国の安泰を護る為に喜んで死んで行きます

皆さんは私が死んでも決して泣かないと思います。

それよりもニュースに出る敵空母撃沈を聞いて

私が体当たりしたものと思って喜んで下さい。

何の恩返しも出来ず、親不幸をお詫び致します。

末永く幸せに御暮らし下さい。



國吉英俊少尉 21歳 出撃 戦死


この度、特攻攻撃隊を命ぜられました。

武人最高至極の幸福です。

笑って散ってゆきます。

お母さんも泣かずに喜んで下さい。

生前の不幸は幾重にもお詫び申し上げます。

日本男児として誰にも負けない行動をとります故

私の事は御心配なき様お願い致します。

では、お母さん

左様なら






第三章「戦時中の記録」



私こと佐々木栄吉には四人の兄弟がいた。


私が長男で、次男が他一、三男が善治、節子の4人兄弟だった。


私の上に一人いたそうだが、乳幼児のうちに亡くなったらしい。


岩手県の盛岡市で私たちは生まれ、育った。



第二次世界大戦のさなか、日本軍は、若者を殺す兵器を考え出した。


それが、桜花。


航空機より、動力のないグライダーといったほうが分かりやすいかも知れない。


親機から切り離され、敵艦めがけ突っ込んでゆく。


桜花には、1.2トンの爆弾が積んである。敵地を粉砕するには充分な爆薬の量。


親機に吊り下げられた状態で、敵艦の近くまで運ばれ、切り離される。


そうして、若者の命と引き換えに攻撃、爆死する。


「死ね」


と言われて喜ぶ者などいようか?


下は17歳から。


「まだ死にたくない」


というのが本音であったろう。


知り合いではないが、15歳で志願し、軍人となり、特攻要員として訓練を受けた武井敏雄さんは「まだ死にたくない」と言っていたらしい。



本稿は、めいの裕見子が書き起こした。


裕見子とは、面識ないまま死に別れたが、妹の節子のご主人である三浦さんからの依頼を受け、私ら特攻で散った者のことを調べ、埋もれている記録を、後世に広めたく、調べ、書いた。


裕見子の父が、弟の善治である。


笑って飛んでゆかねば非国民と呼ばれた時代である。


喜ばなければ、半殺しの目にあう、そんな時代の物語である。


戦争が終わってからは、掌を返したような世の中が変化し、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などと侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっていた。


そんな中、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、「生き残ってすまない」と涙した。


ある者は子供を遺し、ある者は結婚せず、女性を知らず、最年少17歳にして敵艦へ体当たり。


その瞬間、ものすごい重力がかかり、気絶するため、死の瞬間は記憶にない。


オーバイや自動車で、正面衝突した方なら分かるかもしれない。


死ぬと思った瞬間、気絶する。


この物語りは、英雄譚ではない。


後世に記録しておきたいと節子のご主人が願い、娘の裕美子が書き起こした戦時中の現実である。


日本には資源がない。あるのは人材である。


人材を失う戦争なる政策を、とるものではないと、後世に願う。


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