8.エルミア
「水洗トイレって、清潔でいいわね。これも魔法のおかげなのかしら?」
初めは様々に発展した設備に触れる度に感動していましたが、最近は慣れてきました。それでも、どういう仕組みか、魔法によるものか、それとも人力かなどを考え出しては訳がわからなくなり、やがてどうでも良くなりました。
「まあ、便利ってことは確かだし、有り難く使わせてもらうまでよ」
マヨ国では文化の違いはありましたが、幸い言葉は通じて違いも方言程度でした。ただ、使われている文字がエルミアの以前居た国とは大分違いました。
ほとんどの平民は文字を読めず、または読めても書けないことが多いようです。特別に身分の高い人や、交易商人や、大工など、その他記録する必要がある職業の人は自在に扱えました。
文字は紙に書いたり、石に刻めばほぼ永久的に残りますから、人々は永遠の生命を持つその存在を無意識にも特別なものと感じていました。
父が字を書く仕事をしていましたので、エルミアも見よう見まねで書けるようになりました。
父はベッドに石板とチョークを持ち込み、この国の文字を練習していました。手本はどこから調達したかといいますと、街の広場の中央にある石碑や、神殿の壁の一部分など探せばあちこちに見つけられます。
身体の調子が良い時に杖をついて街へ出て、それらを探すのでした。そこで運良く書ける人に出会って、少し教えてもらうこともあるようです。
「お父さん、そんなに根を詰めると、治りが遅くなるよ。そろそろ、休んだら?」
「ああ、そうだな。そろそろやめにしよう。エルミア、この国の文字は面白いな。あの大神殿と同じように、威圧的でなく、美しさを求めている。さらには、合理的だ」
「大神殿まで見に行ったの?」
「早朝はこの小神殿と同じように民間人に開かれているから、お祈りとついでに字を探してきた」
「それは良いけど、随分遠いのに。よく、帰って来られたわね」
「はっはっは……! ごほごほ……いやはや、今回は少し無理をしすぎたようだ。眩暈が酷くてね」
「ほらー、やっぱり。お父さんたら、危なっかしくてしょうがないわ。途中で倒れなくてよかったわよ、本当に」
「今度行く時は私もつれていってね」
「ああ、もちろんさ。今回は少々無理をしたが、その甲斐はあったぞ」
「もしかして、この石板の文字が」
「そう、これだ。美しい書体を見つけた。真似をして思い付いた言葉を書いてみたよ」
「すい……なんて書いてあるの?」
「『水洗トイレ』と書いたよ」
何でそれを選んだのだろう。
「……確かに字は綺麗ね。それに、あのトイレの素晴らしさも分からなくもないわ」
「だろ?」
それから、父が眠るまでたわいもない話をして、隣のベッドで眠る母の様子を見てから部屋を出ました。
◆◇◆◇◆◇
その日、お供えのお菓子をローズに教わりながら作っていると、下働きの人が血相を変えて呼びにきて、そのままローズを慌ただしく連れて行きました。
「急患なんです、手が足りないので呼んできてと神官さまに言われまして。さあ、お早く」
「エルミア、お菓子はそのままにしておいて。生地は寝かせておいて大丈夫だから。焼くのはまた後でね」
振り向きざま、早口でそれだけ伝えると、ローズは手を引かれるままに小神殿の方へ小走りに駆けて行きます。
エルミアも気になって、エプロンを椅子に脱ぎ捨てると後を追いました。
その時、神殿の入り口から新たにやって来た患者が運び込まれるところを見たのです。
その人は大怪我をしていて、すぐさま治療しないと命に関わるので優先されたようでした。
治療室に運ばれて扉が閉じられた後も、血の赤が目に焼き付いて離れません。
エルミアは、扉を前にして立ち尽くしました。
何があったんだろう?
傷は生々しく、ほんの少し前に怪我をしたように思えます。
事故でもあったのかな?
そこへ、ユーシアが来ました。
「魔物の気配がする」
「え?」
丁度治療が終わったようで、扉が開きます。
エルミアは、患者だった人が起き上がり、一瞬、目をぎらりと光らせたのを見ました。
ゾクリと背筋に悪寒が走り、嫌な予感がして咄嗟にユーシアの手を掴みます。目が見えないユーシアを連れて走ることは出来ないので、ゆっくり歩くしかありませんが、それでも出来るだけ早くここから離れようとしました。
嫌な予感がする。
しかし、疲労困憊の神官と巫女は違和感に気づいていないようです。
ユーシアを柱の陰に隠れさせると、大通りの方へ走り出ました。
――誰か、誰か。魔法の出来る人!
辺りを見渡しながら、とにかく目に入った大神殿の方へ向かって走ります。
勘違いだったら、それでもいい。でも、嫌な予感がして仕方がないんだ。
母が、発作を起こして倒れたときのことが頭を過りました。あの時も、嫌な予感がしていたから、ずっと側にいたのです。だから、すぐに薬を飲ませてあげられました。もし、あの予感を無視していたら、助からなかったかもしれません。
それ以来、どんな些細な変化や予感も見逃さないようにしてきました。だから、今も気づいたのです。気づいてしまったのです。
あの元気になった患者が何かをしでかそうとしたなら、魔力切れ寸前の神官や巫女じゃ手に負えない。
魔力のある人を探さなきゃ。それか、兵士か、取り押さえられる力自慢の人を!
前から黒い人影が歩いて来るのが見えました。近づくに連れて、黒いのは神官服だと分かるが早いか、エルミアはその人に向かって突進したのです。
「神官さま! 来て! 魔物かもしれないの」
その人はギョッとして立ち止まりましたが、少女の真剣な声と表情に、ひとつ小さく頷きました。
「行こう」
「こっち!」
先導して走る後ろから、確かに神官は着いてきていました。そのことに勇気を得て、エルミアは元の場所に戻ります。
そこでは、すでに恐ろしい事が起きていました。神官と巫女は床に力なく倒れており、その横で白目を向きながら狂気的に笑う元患者。腕を振り回す度に、手が触れてもいないのに壁や柱が傷付き、うち壊されていくのです。
「魔界の扉……魔界の扉はどこだ……」
まるで地の底から響くような、低くざらざらした声音で繰り返し呟きながら。およそ、人が出来ようもない動きをしています。
ぞっとして足がすくみ、動けなくなっていたところ、すぐ後ろから声がしました。
「君は、離れていなさい」
連れてきた神官がエルミアの肩に手をやって後ろに庇ったとき、ようやくその人が以前に会ったことのある人で、オニキスという名前だと思い出しました。
オニキスは、袖を捲って腰のベルトに刺さっていた木の枝を取り出し、ぴしっと先端を前に向けました。
そしてなにやらぶつぶつと呟きますが、外国語なのか内容は聞き取れません。
そのとたん、暴れていた人は苦しみだして、ギロリとこちらを睨みました。
「邪魔をするな……! ただの人間風情が!」
「ただの人間風情だと思うのなら、関わらずに魔界へ帰ればよかろう。わざと怪我をして神殿に入り込み、治ったとたんに本性を現すとは。余計な悪知恵の働くやつだ。取り憑かれているそいつは、魔物に心を売り渡してしまったようだな。先程から魔界の扉を探していたようだが、目的はそれか? だとしたら、見当違いも甚だしい。ここは、神聖な場所。魔界とはおよそ遠き所だ」
「ふははは……! だから、お前らはバカだというのだ。真実を知りもしないで、地表の小さな世界を治めたくらいで驕り高ぶり、正義感を振りかざす! 魔法がどんなものかなど、ろくに知りもしないくせに」
エルミアは緊迫した空気の中、二人の気がこちらから逸れているうちに砕けて落ちた柱の欠片をこっそり拾います。
「だったらどうした。魔物の讒言など、聞く価値もない。おとなしくそいつから離れて魔界へ帰れ」
「神殿を明け渡せ……! さもないと――」
魔物は、力を込めて跳びかかってきました。
オニキスが浄化魔法から攻撃魔法に転じようとしたとき、脇の下から石塊が飛んでいき、魔物の額にうち当たりました。
大した痛手でもなさそうでしたが、一瞬怯んだその隙に練り上げた攻撃魔法を放ちます。魔物は衝撃で吹き飛び、廊下の奥の壁にめり込みました。
「壊す気か? この美しい建物を。人々の憩いの場を。人々をも巻き込んで? ならば、見逃すことなどできまい」
「今、壊したのはお前だ……」
「不可抗力だ」
再び浄化の魔法をかけ、魔物は悲鳴を上げて消えて行きました。
その後、曲者は通報を受けて駆けつけた城の兵士と魔法使いに引き渡され、倒れていた神官や巫女の無事も確認されました。魔力を吸い取られて気絶していただけのようです。
オニキスは柱の向こうで抱きしめ合っている少女たちに気づき、その内一人に視線が吸い寄せられました。
見れば見るほど姫君にそっくりだ。赤の姫にも、青の姫にも。似ている双子だから当たり前だが。
姫君たちと同じくらいの背丈、年頃、体格。
質素な服を纒い、何度も洗って着回しているせいか、染めてある色が薄れ、元は濃い青だったであろう生地が薄い青に、赤かったであろう花の刺繍が桃色になっています。履いている革靴は表面が擦れて毛羽立っていました。
それらの服装は優美な姫君のドレスとは異なりますが、それ以外は違いを見つける方が難しいほど。
白い額に掛かる漆黒のヴェールのような髪。夜明け前の黒い瞳の中に金色の星が散りばめられているような不思議な色合いの眼差し。渡り鳥の翼ような優美な眉、すっと通った鼻筋、木苺を薄めた色合いの唇は小振りで薄いけれどふっくらとしています。
先程石を投げた時に垣間見た小生意気に上がった広角は、悪戯が成功したときの姫君たちを彷彿とさせ。
今、盲目の少女を抱きしめている表情と眼差しは優しさがあり、偶然町で見かけたどちらかの姫君の、泣いている子供を抱きしめて撫でていた光景が一瞬重なって見えました。
それくらいに似ていたのです。もしかしたら、本当に血縁ではないかと思うくらいに。
まるで、三つ子のようだ。
世の中には似ている人が三人はいるというが、今この国に三人揃ったのは、何かの導きか、はたまた運命の悪戯か、それとも――?
顎に手を当て、何かを考えるオニキス。
エルミアは未だ怯えて震えるユーシアを慰めるのに手一杯でしたが、ふと視線を感じてそちらを向きました。
オニキスの黒い瞳と目が会いました。
「先程は手助けをしてくれて助かりました。君は、察する力があるようだ。
けれど、これからは気を付けた方がいい。なるべく外へは出ずに、早めに祖国へ帰るのが懸命だ。今のような、おかしな輩に目を付けられたくなければ」
そうして、返事を待たずに彼は裾を翻して立ち去りました。




