4.ユーフラシア
小さな口で噛った跡。
鼠……じゃないよね、多分。
どきどきしながら考えます。
「これって、精霊が食べたのかな?」
それとも、妖精? 精霊と妖精って、どう違うんだっけ?
――どこにもいない、どこにでもいる――
結局どっちなのよ。とんち話の一種? 私、そういうの苦手なのよね。詩人って、何でも意味深に言わないと気が済まないのかしら……もうちょっと詳しく知りたかったわ。
いるけどいない。うーん、かくれんぼしてるってこと? だめだ、わからない。
そもそも、精霊ってどんな姿をしているのかも知らないのに、探しようがないじゃない。仲良くなって魔法を教えてもらうどころか、それ以前の問題だわ。
「精霊の姿――そうだわ、神殿。あの壁画の中に描かれているかもしれない。もう一度見に行こう」
思い立つと、足の裏に翼が生えたかのように駆け出しました。スカートや袖をひらめかせながら宿舎を飛び出し、そよ風を巻き起こしてハーブの茂みを柔らかくそよがせつつ。
そうして足音もなく軽やかに走る様子を誰かが目撃していたら、きっと目を丸くして驚かれていたかもしれません。
エルミアにとって運の良かったことに、この時は霧も晴れていて見通しがよく、すれ違う人もいなかったので、注意されることもありませんでした。
早朝の爽やかな光溢れる畑を走り抜けようとしたところ、東屋の近くに佇む少女の姿を見かけました。
その子はユーフラシアという名で、エルミアたちと同じように国外から魔法の治療を受けに来ていました。
以前にひどい風邪をひいて、高熱のせいで目がよく見えなくなってしまったそうです。
「お早う、ユーシア。早起きね。散歩?」
「エルミア? お早う。私は今、魔物の言葉を解読しようとしているのよ」
「なんて?!」
どうしよう、まさか、近くに魔物が? でも、こんなに明るくて、良い朝なのに。
こちらの動揺が伝わったのか、彼女は僅かに首を左右に振ります。
「ここにはいないわ、すぐ近くにはね。それらは、ずっと地面の下にいるのよ。蠢いているの」
「蠢いている……なんか、ぞっとする」
「誰かに聞いた訳じゃないから、本当に魔物かはわからない。でも、魔物の国は地下にあるらしいから、そうかなって」
「そもそも、ユーシアは魔物の声が聞こえるの? 解読しようとしてるって」
「私、目が見えないせいか、以前よりも世界がよく見えるの」
「見えないのに、見えるの?」
詩人と同じようなことを言うなあ。ユーシアは、詩人になる才能があるかも。
「見えるというより、感じられるの。光とか、音とか、暑さ、寒さ、そして、見えるときには気がつかなかった、不思議な気配に」
「それってまさか、精霊、とか?」
「何なのかは分からないけれど、この国へ来てから、その気配は一段と増えたわ。風に紛れて囁き声のようなものも聞こえるけれど、なんて言っているのかわからない。それから、足の裏からも。地の底から伝わってくる、まるで、呻いているような振動が」
エルミアは、ぞっとして震えました。
「そそ、そんなのの声を解読するっていうの? 度胸があるわね」
「度胸は無いわよ。むしろ、怖いからこそ真実を知って安心したいの。ほら、幽霊かと思っていたものが、よく見たら枯れ草だったって話、よく聞くじゃない。そういう感じよ」
「ふーん」
耳を傾けて、より怖い真実に辿り着いてしまったら、どうするんだろう? 私だったら、耳を塞いで聞こえなかったことにするかも。
でも、彼女は立ち向かう方を選んだ。それが、良いか悪いかは別として。
「私はきっと、精霊と魔物が、ただおしくらまんじゅうをしているだけなんじゃないかと思っているの。魔物は地下で、押されて泣いているんだわ」
「へ、へえ~。そうすると、ちょっと面白いっていうか、可哀想に思えてくるね」
真実が分かっても、魔物ということには変わりがないのね。
「ただの予想だけれどね。それを確かめようとしているの」
「じゃあ、おじゃましたら悪いから、そろそろ行くね」
「別に、じゃまじゃないよ。もう少し話そうよ」
「いいの? それじゃ」
エルミアは、東屋の柱に背を預けて寄りかかり、目を閉じてぼんやりと佇んでいるように見えるユーシアの様子を横目で眺めました。
「ねえ、ユーシアは、精霊のことをどれくらい知っている? 私、どこにいるのか知りたくて、これから神殿に行くところだったの。なにか、ヒントがあるんじゃないかと思って」
「精霊について……。私もほとんど知らないわ。魂みたいなもので、全てに宿るって聞いたことがあるけれど。それ以外は姿形も、どんなふうに生きているのかもわからない」
「『全てに宿る』のか……」
エルミアは自分の手のひらを目の前に翳しました。光が輪郭となり、手は影になりよく見えません。
もし、ここに精霊がいるとしたら、エルミアの言葉が届くでしょうか。




