エンジニア
夜のレコーディングスタジオは、余計な音が消える。
昼よりも、音の輪郭がはっきりする時間帯だ。
テイクは、すでに悪くなかった。
ミスもないし、崩れてもいない。
正直に言えば、趣味でやっている社会人バンドなら、
このままでも十分に「いい録り」だ。
それでも、ボーカルが首を縦に振らない。
「もう一回、最初からいい?」
その声は落ち着いている。
無理を通す調子でもない。
ただ、納得していないだけだと分かる。
そこまで、気にするか。
心の中で舌を巻き、
モニターの前で小さく息をつく。
ドラムが時計を一度だけ見て、頷く。
ベースは何も言わず、構え直す。
このやり取りに、もう慣れている様子だった。
「問題はない」
ボーカルが言う。
それを前置きにしてから、続ける。
「でも、二拍目の後ろ、ちょっとだけ沈みすぎてる」
ドラムが苦笑する。
「そこ? 分かる人、いないと思うけど」
「うん。でも、そこが残る」
この会話を、黙って聞く。
理屈としては理解できるが、
普通は言語化しない領域だ。
もう一度、音が鳴る。
注意して聴く。
ほんのわずかだが、
確かに、全体が前に進んだ。
気のせいではない。
タイム感が、微妙に変わっている。
「……あ」
ドラムが、思わず声を漏らす。
作業は、そこで終わった。
ファイルをまとめながら、
少しだけ迷ってから、口を開く。
「正直さ」
三人の視線が集まる。
「歌とか曲以前に、音の組み方が独特だよね」
ドラムが笑って返す。
「褒めてます?」
「もちろん」
こちらも笑い返す。
「普通、ボーカルはこんな細かいところまで言わない」
ボーカルの表情が、一瞬だけ止まる。
驚いたというより、戸惑いに近い。
「……俺、変ですか」
そう聞かれて、首を振る。
「いや。作る側の耳だと思う」
特別だとも、才能だとも言わない。
ただ、そういう位置にいる、というだけだ。
その言葉が届いた瞬間、
彼の顔から、わずかな緊張が抜けた。
ああ、と内心で思う。
これは、音楽の話じゃない。
確認したのは、
彼ではなく、
自分のほうだった。
スタジオの電気を落とす。
夜は、もう深かった。




