曖昧な名前
昼休みの廊下は、思ったより音が少ない。
笑い声は遠く、足音だけが反響している。
前から歩いてくる背中を見て、少し迷った。
名前を、正確に呼べる自信がなかった。
似たような髪型。
似たような立ち位置。
音楽室にいたのは覚えている。
音も、残っている。
だから、呼んだ。
「……アイスブレークス?」
違う、と分かったのは、振り返った顔を見た瞬間だった。
でも、止めるには遅すぎた。
相手は一瞬だけ戸惑ったように目を瞬かせて、
それから、否定も訂正もせずにこちらを見た。
「昨日の音楽室のやつ」
自分でも、雑な言い方だと思った。
曲名も知らない。
正しい名前も、怪しい。
それでも、
「暗かったけど、よかった」
「最後のとこ、なんか残った」
そう言うと、相手は少しだけ頷いた。
それで終わった。
会話と呼ぶほどでもない。
そのまま歩き出す背中を見送りながら、
訂正されなかったことに、ほっとする。
名前を間違えたのに、場は壊れなかった。
むしろ、空気が軽くなった気がした。
放課後、
階段ですれ違うとき、
昇降口で靴を履き替えるとき、
似たような話をしている声を、何度か聞いた。
噂というほどではない。
誰かが大きな声で言い広めるわけでもない。
ただ、
「名前は違うけど、あの曲」
「よく分からないけど、よかった」
そんな断片が、風みたいに流れている。
たぶん、あの人は気にしない。
名前を間違えられることも、
雑な感想も。
拾うところだけ拾って、
残りはそのまま流す。
自分は、間違える側だ。
名前も、順番も、だいたい曖昧だ。
でも、その曖昧さで、
誰かが歩きやすくなるなら、
それはそれで、悪くない。
廊下を抜けるとき、
もう一度だけ、背中が視界に入った。
今度は、呼ばなかった。
名前は知らなくても、
音は、ちゃんと覚えている。




