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残香は、名を呼ばずに夜へ溶ける

作者: 朧月 天音


名を呼べば、終わってしまう。──だからこそ、呼ばずに在り続けた。




沈黙は、まだ咲かぬ蕾のように、胸の奥でひそやかに息づいていた。


声にならなかったもの。記憶に触れずに残ったもの。


それらは土に沁み込む露のように、ひとりの人の輪郭を薄く包み、


時を越えてなお、匂いだけを残す。


咲けば終わる。


だが、咲かぬものは永遠に終わらない。


その永遠は、忘却と祈りの狭間に漂い続ける。


名を呼ばれずに残った“残香”は、


やがて風とまじり、夜の深みへと溶けていく。


忘れるとは、ただ失うことではない。


忘れるとは、別の器に移されること。


目の前から消えても、微かな香りとなり、


耳ではなく皮膚の奥に染み入り、


いつしかその人を形づくる層のひとつへと変わる。


人は名を呼ぶ。


呼ぶことで、形を与え、確かさを刻もうとする。


けれど名を呼んだ瞬間、同時に“終わり”を与えてしまう。


呼ばぬままなら、在り続けることができたものを。


──だから、人は恐れる。


恐れながらも、なお名を求める。


その矛盾が、花を咲かせ、


花を咲かせることで奪われ、


奪われながらもなお咲きを欲する。


夜風の底には、呼ばれなかった名が無数に沈んでいる。


それは声ではなく、響きでもなく、


ただ皮膚の温度や湿りとなって、


人の中を通り抜けていく。


呼ばれぬ名は、夜の奥で眠る蕾に似ている。


まだ咲かぬがゆえに、すでに匂いを放ち、


まだ終わらぬがゆえに、永遠を仄めかす。


人はその仄めきに触れ、立ちすくみ、


そして名を呼ぶか呼ばぬかの瀬戸際で、


自らの記憶と祈りを試される。


咲くとは、終わりであり、始まりである。


名を呼ぶとは、奪われと同時に、移されること。


その往還の中にだけ、人は生きることを許されている。


──呼ばれぬ名は、残香となる。


残香は風に混じり、風は夜を撫で、


夜は沈黙を孕み、沈黙は蕾を支える。


その循環の只中に、人は立っている。


名を呼ぶか、呼ばずに在るか。


咲かせるか、沈黙に委ねるか。


その選択が、ひとつの物語を形づくる。


──だから、ここから語られるのは、


咲かぬ花と、呼ばれぬ名の物語。


忘却と祈りの狭間で、


ひとりの人が風と香の中に歩みを残す記録である。




第一章 咲かぬ花の翳り


──咲く前の祈りだけが、風の届かぬ場所で、なお密やかに漂っていた。



その村では、夜に咲くものの話をしない。


それは恐れからではない。ただ、あまりにも深く沈殿した“黙認”だった。


問う者もなく、語る者もいない。けれど誰もがそれを知っていた。


長く湿り気を含んだ木の香りが、家々の梁や衣の襟にまで沁み込むように──


それは空気の底に溶け、誰もあえて指摘しないまま、日々の身振りにまで馴染んでいた。


名をつければ、咲く。


咲いたものは、必ず何かを奪う。


……そう教わった記憶は、いつの時点で身についたのか、誰の声だったのか、村の誰にも判然としない。


“教え”は伝承ではなく、もっと浅い層──挨拶の調子、灯の消し方、戸口での沈黙の長さ──として、日々の所作に折り込まれていた。


夕餉の鍋蓋が鳴れば、すぐに布巾を被せて音を鎮める。


井戸端で名を呼ぶのは昼だけで、日暮れから先は互いを「おまえ」「あんた」で指す。


寺の鐘は月の朔に一度だけ鳴り、盆灯籠には鈴が結ばれない。


理屈のない慎みが屋根組みのように連なって、村の骨を支えていた。


──夏の終わりが、声もなく訪れていた。


風は一度も羽ばたかず、光は葉の上にこぼれたまま動かない。


世界全体が「まだ来ぬ何か」を待つ態で、湿気を孕んだ青白い空の下、空気の粒は鈍い光を懸けている。


草いきれに混じる腐葉土の甘さ。虫の翅の震えさえ遠くで吸い込まれ、沈黙が地面を目詰まりさせていた。


宵城蓮司は、誰にも知られないように戻ってきた。


駅からの道を選ぶとき、あえて表通りを避け、畦道を継いで歩いた。


背丈の伸びすぎた稲が額に触れるたび、幼い日の手のひらに覚えのあるささくれが疼く。


帰郷という言葉を使わなくても、靴裏はこの土の弾力を覚えていて、彼の歩幅を勝手に合わせた。


祖父の家は、土に還りかけた木の匂いで満ちていた。


湿りを含む柱がかすかに軋むたび、忘れられた声の断片が空気の隙に浮かび、また沈む。


仏間の花立ては空のまま、香炉の灰は水気を含んだように重く沈み、


格子の影は時刻に合わず、少し遅れて畳に伸びている。


襖の紙は薄く剥がれ、その向こうに“呼ばれない時間”の澱がひそかに沈殿していた。


この家では、言葉は塵埃のように重く、沈黙という繭の中では異物だ。


声を発すれば、壁の木目の奥から何かがゆっくり顔を覗かせ、音の在処を確かめるように揺れる気配がある。


蓮司は、喉の奥で言葉が形になる前に、それをほどいて飲み込んだ。


台所の蛇口をひねると、水はかすかな鉄と夏の匂いを連れて流れる。


湯呑をすすぎながら、祖父の癖を真似して縁を指で軽く叩く。


乾いたはずの陶器が、湿りを宿した音を返す。鈍い、しかし遠くへ届く音。


音に触れるたび、村中に散らばった見えない糸がわずかに震え、やがてひとつの方向を指し示す──そんな錯覚があった。


夜、天井の木目を見上げながら、彼はまぶたを閉じた。


畳の匂いは夏の末の匂いで、青さの奥に薄い苦みがある。


柱の軋みが遠い足音のように鳴るたび、呼吸は浅く細くなった。


耳の奥で、細い鈴の緒が引かれては離される。


音と呼ぶには輪郭がなく、しかし確かにこちらの在り方を撫でてくるもの。


そのとき、胸の内側でひとつ、湿った影が身を返した。


──“彼女”という言葉に近い輪郭。だがまだ、名ではない。


朝。裏山は夜露の夢から醒めきらず、空気は濡れているのに葉の縁には雫ひとつ見当たらない。


蝉の声さえ届かぬ静けさの中で、土はゆるやかに呼吸し、草の根が地中の水脈をなぞっているように感じられた。


蓮司は坂を上がる足を途中で止める。


村のはずれ、かつて学校があった場所──木々に囲まれ、中央に残された温室だけが、時を閉じ込めていた。


蔓草は無数の指先のようにガラスを這い、曇りの奥にかすかな光を忍ばせている。


だがその一角は、光すら季節の循環から零れ落ちたように、静かに、ただそこに溶けていた。


彼はまだ近づかない。


けれど夜になると必ず、“その方向から空気が変わってくる”のを感じていた。


それは風ではなく、“咲く前の音”の手前に生まれる気配だった。


思い返せば幼い頃、同じ場所へ向かおうとして、遠くから祖父に名を呼ばれた。


呼ばれた、と確かに記憶しているのに、そのときの自分の名の響きだけが欠けている。


口の形、喉の震え、振り返った足の向きまでは思い出せるのに、いちばん肝心な音が抜け落ちている。


注意の声だったのか、呼び戻す愛情だったのか。


“名”という柄を失った刃だけが、記憶の中で冷たく光っていた。


村の別の風景が視界に入る。


角で立ち話をする二人の老婆──名を呼ばず、顎で方角を指す。


畑で草を引く男──鎌を置く音を布で受けてから地面に下ろす慎重さ。


社の石段を掃く少女──箒の先を石に当てまいと、宙でそっと止める癖。


音を弱める仕草が生活の節々に生きていて、言葉はそこにあるのに、声にならない。


彼らは互いの存在を知りながら、名を保留にする。


保留された名は、空気の底でゆっくり発酵し、その熱が蓮司の皮膚の内側を温めた。


確かにそこには“まだ現れぬ気配の残響”があった。


聞こえない音の影が、空気をゆっくり満たし、遠くで誰かの名を思い出すときの胸のざわめきに似て、彼の内側を撫でていく。


最初は寒気に近い。不吉で、背筋をなぞる冷たさ。


だがそれは次第に微熱へ変わり、恐れの幕の奥で懐かしさが顔を覗かせる。


懐かしさは往路の記憶に宿らない。むしろ、これから向かう場所に対して芽生える。


「知っている」に先回りして付着する微かな熱──それが“恋しさ”の起点だと、彼はまだ言葉にせず受け止めた。 


温室は遠い。だが遠さは距離ではない。


名を呼ぶことをやめた村の舌の奥、言葉を湿らせて重くした夏の終わり。


そこに温室がある。


歩けば応えがある。応えは胎動に似て、胎動は奪いに似る。


彼は歩かない。名の前に佇むことを、いまは祈りと呼ぶほかないからだ。


昼下がり、祖父の家の納戸で古い木箱を開けると、紙束が出てきた。


墨の消えかけた名簿。かつてこの家に出入りした者たちの名前が列をなし、


ところどころが湿気に溶けて、ただの濃淡になっている。


名は残るはずの形で書きつけられ、なお、残らない。


指の熱で滲み、繊維に沈む。


──名は器ではなく、橋なのだろう。此岸と彼岸のあわいに架かる、仮の板。


板が腐れば渡る者は落ちる。だが落ちるという出来事そのものが、渡った証になることもある。


縁側の下から割れた風鈴が見つかった。


鳴らない。鈴口に指を添えると、音のない振動だけが骨に伝わる。


音は鳴らなくても、音の“場”は残る。


昨夜の“耳に届かぬ音”の余韻が、鈴の傷と同じ場所に棲んでいる気がして、蓮司はそっと手を離した。


離した指に、ふいと、誰かの髪の湿りに似た微かな香りがかすめる。


振り向くほどの確かさはない。それでも、一瞬だけ、肩の輪郭が視界の端で立ち上がった気がした。


──彼女、だろうか。


否、と彼はすぐに打ち消す。名は梯子だ。境を示すための細い板。ここで置けば、境が切れすぎてしまう。


夕方、村の路地は影を増やした。


蓮司が歩いても、誰も名を呼ばない。挨拶はある。だが名は呼ばれない。


隣家の戸が開き、すぐに閉じる。日常の所作は少しだけ遅れ、彼を避ける角度に微調整されていく。


それは敵意ではなく、むしろ共同体が自分の沈黙を保つための、やわらかな抑制だった。


沈黙は共同体の皮膚で、皮膚は内側を守る。


だが皮膚は触れるための器官でもある。


守ることと触れること。その矛盾のあいだで、人は暮らす。


彼は、村が自分を“触れないことで守っている”と理解し、そこに静かな愛情を感じた。


家へ戻る途中、空気がふっと変わった。


胸のどこか、数えられない暗がりに別の呼吸が触れる。


肺が増えたわけではない。


ただ、彼の内側にもう一つの呼吸が並び、同じ速度で膨らみ、しずかに引いていく。


──咲かぬ花の呼吸だ、と気づくのに時間はいらなかった。


まだ咲いていない、というだけで、すでに分かち難く結ばれてしまっている。


猶予の薄さが、むしろ絆の深さを告げていた。


縁側に腰を下ろし、掌を見る。


昨夜、温室の近くで触れたガラスの冷えが、皮膚の稜線に薄膜のように残っている。


そこへ指腹を重ねると、見えない波紋が内側から広がり、言葉の前にある感覚だけが、ゆっくり形を持ち始めた。


「咲くとは、他者に自分を渡すことだ」と彼は思う。


渡された先で何が奪われ、何が残るのか──その答えは花だけが知っている。


それでも人は咲きを欲する。


自分の一部を誰かの記憶に刻みたいからだ。


忘れ去られることへの恐怖が、咲きを呼び込むのだ。


恐怖は回避ではなく、点火。名を呼ぶ直前の沈黙が、最も濃い香を放つ。


庭に遅れて蝉の声が降りてくる。


音は音であって、どこか音ではない。


同じ音色のはずなのに、今日は「別の器」を通って届く。


器が変われば、水の味は変わる。


同じ音は、もう同じではない。


彼はそれを損失と呼ばず、変容と呼ぶことにした。


ふと、敷居の影で何かが微かに揺れた。


風はない。


それでも髪に似た細い線がひとつ、膝の高さでほどける。


蓮司は目を閉じる。名を置けば、咲く。咲けば、奪う。


名を置かずに在るものに、しずかな頷きを返す。


頷きは声より長く残り、家の軋みの節をひとつ移し、夜の手前の色をわずかに濃くした。


──咲いたら終わる。


だが、終わりは常に、次の名の始まりでもある。


彼は立ち上がる。


袖口の糸に昼の光の薄さが絡む。


遠く、かすかな湿りの匂いがして、彼は振り向いた。


風は吹いていない。


それでも、どこかで、咲かぬはずの音が、ゆっくり密度を増している。


その方向の先に、温室がある。


まだ、行かない。


行かないことが、いまは祈りのかたちだと、胸の内側で了解していた。


そして彼は知っている──“彼女”という輪郭の気配が、名の手前でうっすらと息をしていることを。


名はまだ呼ばない。


呼ばないまま、彼は静かに、次の夜の温度を待った。




第二章 咲かぬはずの音


──咲いたら終わる。だが、咲く前がいちばん、恐ろしい。



温室へ続く道は、夜の奥に沈んでいた。


地面に落ちる宵城蓮司の足音は、土に吸い込まれるように消え、歩を進めるたび、周囲の闇がわずかに脈動する。


その感覚は、闇そのものが呼吸を持つ生き物であり、自分を囲む肉の壁をひそやかに広げては縮めているかのようだった。


足元を撫でる空気は、人肌が冷えかけたぬめりを帯び、湿りと共に皮膚を逆なでしながら、毛穴の奥に忍び込んでくる。


それは風ではなかった。風には必ず方向がある。だがこれは、四方八方から同時に染み入り、彼の輪郭を曖昧にする“気配”だった。


蓮司は歩きながら、自分の影がわずかに遅れてついてくる錯覚に囚われた。闇の底で影は二重になり、ひとつは彼自身をなぞり、もうひとつは名もなき誰かの残像を伴っていた。


その「誰か」に心当たりはない。だが、影に揺れる喪失の匂いだけが確かに漂っていた。


虫の声もなく、ただ背に貼りついた“他者の記憶の余熱”だけが、薄い衣のように足首を絡め、膝裏へ忍び寄る。


触覚の幻にすぎないはずなのに、存在の境界をじわじわと侵してくる。


自分はどこまでが自分で、どこからが失われた者の影なのか──その問いが歩を刻むたび喉奥でざらついた。


その道を、彼は知っていた。


知識ではなく、記憶でもなく、皮膚の裏側──言葉にされる前の感覚がそれを憶えていた。


思い出す以前に、人には“忘れる準備”があるとすれば、今の自分は、その準備の内側を歩いているのだろう。


温室は、息をひそめたまま夜気の深みに沈んでいた。


建物というより、夜そのものが古びた形をとって眠っているかのようだ。


崩れかけたガラスの壁には蔓草が無数の指を伸ばして絡み、濡れた和紙のような面は光を吸って返さない。


夜露さえ弾かれ、湿りだけが深く沈殿し、光は差し込んだ痕跡さえ残さず“無かったこと”のように呑み込まれていく。


──ここは、名を持たぬものの居場所だ。


そう気づいた瞬間、背筋に微かな冷えが走った。


扉に指を添えた途端、心臓の裏で何かが“剥がれ落ちる”音がした。実際の音ではない。日常という薄膜が無音で裂ける感覚だった。


空洞になった場所へ、沈黙の視線のようなものがひたひたと染み渡ってくる。熱を持たず、湿った皮膜のように内側に貼りつく。重さはないのに、確かに質量を伴っていた。


──人はどこまでを自分と呼び、どこからを外と呼ぶのだろう。


湿気が衣の内に浸み、体温と混じるにつれ、境界は失われていく。ならば花が“内”に宿るのもまた、必然ではないか。


温室の中は、闇ではなかった。


それは“光の記憶すら食み尽くす胎内”だった。


ここでは光は反射せず、訪れた瞬間に黙殺される。視覚そのものがそっと否定される。


「世界の外縁に立つ」のではなく、「生まれる前の暗がりに還る」錯覚が彼を包んだ。


その中心に──白い花が、咲いていなかった。


咲いていない。


けれど、その花は、夢のなかの目で見つめてくる。


輪郭も瞳も持たぬのに、中心から滲む気配は、言葉を持たぬまなざしとなって、蓮司の奥底を撫でた。


蕾とも呼べぬ、不確かな形。


だが、その沈黙は何かを知る者だけが纏う“重さ”を持っていた。


咲くには静かすぎ、眠るには息苦しいほど濃密な気配。


──欠けているのに完全で、まだ無いのにすでに在るもの。


薄い呼吸の波が目に見えぬ半径で空気を変えていく。耳は何も捉えていないのに、骨の空洞にごく微細な圧が溜まっていった。


それは「まだ来ていない音」が、来る準備だけを濃くしている気圧だった。


喉が微かに動いた。


「……誰だ……」


声帯が震えたというより、感覚が零れ落ちた。問いは最初から答えを求めていない。


ただ、名を与えようとする衝動そのものが、罪のように胸を熱くした。


花は、咲く前にさえ、息をしていた。


その呼吸が、彼の内に封じた記憶の断片に触れた気がして、蓮司は一歩、後ずさる。


心臓が内から皮膚へ沈黙を押し出してくる。だが視線は逸れなかった。


咲けば終わる──そう知りながらも、咲かぬ花の“名づけられぬ気配”に、精神は裂かれるように惹かれていた。


それは恋ではなかった。だが恋と錯覚させるほど、内奥から突き上げる渇望だった。


欲望とは、形なきものに名を与えたい衝動なのか。


だがこの花は名を拒む。与えた瞬間に咲いてしまうから。


だから花は沈黙を選び、その沈黙こそがここでの名となっていた。


足元の土に、湿りを帯びた黒が沁み出していた。露ではない。忘却の濃度のような黒。


ガラスの内壁には、呼気の曇りが薄く広がり、誰かの指がそこに文字をなぞったかのような痕が、一瞬だけ浮かんでは消えた。


──見間違いだ、と彼は思う。


だが、その「消える直前の形」は、音節になり損ねた名の口元に似ていた。


「あの夜、咲いたもの」は、果たして花だったのか。それとも、誰かの名だったのか。


名は花に宿り、花は名を孕む。


どちらが先でも後でもなく、咲くことは呼ぶこと、呼ぶことは奪われること──その律が、絶え間なく循環していた。


蓮司は、知らず指を胸もとに当てていた。


鼓動が、自分のものかどうか一瞬わからない。


音はしていない。だが鼓動は「聴かれるため」ではなく、「内にだけ降り積もる圧」であることを、今さらのように知った。


──祖父の声が、地中からの残響のように蘇る。


「咲いたら音がする。その音を聞いたら、忘れるんだ。忘れるってことは、生きていても戻らないってことだ。だから、誰も行かない。……見に行ってはいけないんだよ」


忘れるとは、ただ消えることではない。


それは、別の在処へそっと移されることに近い。


音は奪うのではなく、運ぶ──名を、記憶の外側へ。


彼は花から目を離せなかった。


見ているのか、見られているのか、その境界が溶ける。


視線の主語が入れ替わる瞬間、人はただ受動の器となる。


受け取ったものは返せない。返すには呼ばねばならず、呼ぶことは咲かせることに等しいからだ。


どれほど時間が経ったのか分からない。


気づけば指先が小刻みに震えていた。触れていないのに、皮膚の内側に咲いた感触。


口の中に鉄の味がにじむ。息を吐けば即座に湿りへ吸われ、音にもならず消えた。


外へ出ると、夜はわずかに薄かった。だが月の輪郭はまだ遠い。


温室のガラスに手を置いた場所に、微かな冷えが残る。


掌を離すと、皮膚にうっすら白い粉が付着していた。


花粉ではない。匂いもしない。


それでも彼はそれを「香の粉」と直感した。


立ち尽くしたまま掌をこすると、粉は音もなく消え、衣の繊維の奥に言葉にならない残り香だけが沈んでいった。


──翌朝、村の空気は静かだった。


静けさはいつもと同じ顔をしている。だがそれを支える器が、わずかに違っていた。


蓮司が何も語らず歩いても、村の視線は“ほんの少しだけ、遠巻き”になっていた。


彼のなかが変わったのではない。村が、彼の“何か”を嗅ぎ取ったのだ。


まだ咲いていない花に“一部”を与えてしまったことを──誰も知らぬはずなのに、知っているように。


畦道で出会った老婆が、すれ違い様、掌を胸に当てて目を伏せた。祈りでも挨拶でもない。名を抜かれた存在へ向けて、人が太古に持っていた仕草だけが蘇った。


隣家の戸が開き、すぐに閉じる。所作が少しだけ遅れ、彼を避ける角度に微調整されていく。


それらは敵意ではなかった。むしろ共同体が沈黙を守るための優しい抑制だった。


沈黙は共同体の皮膚であり、皮膚は内側を守る。だが皮膚は触れるための器官でもある。


守ることと触れること。その矛盾のあいだで人は生きる。


彼は、村が自分を“触れないことで守っている”と理解し、そこに静かな愛情を感じた。


家へ戻る途中、ふいに「呼吸が増えた」と思った。


肺が増えたのではない。胸の暗がりに別の呼吸が触れている。


それは彼のものではないのに、確かに彼の中で息づいていた。


咲かぬ花の呼吸だと気づくのに、時間はいらなかった。


──咲いていない、というだけで、すでに結ばれてしまっている。


猶予の薄さが、むしろ絆の深さを告げていた。


縁側に腰を下ろし、掌を見る。


白い粉は跡形もない。だが皮膚の稜線には昨夜の湿りが膜のように残っていた。


そこに触れると、見えない波紋が内側から広がり、言葉の手前の感覚だけが形を持ちはじめる。


「咲くとは、他者に自分を渡すことだ」と彼は思う。


渡された先で何が奪われ、何が残るのか──その答えは花だけが知っている。


それでも人は咲きを欲する。


自分の一部を誰かの記憶に刻みたいからだ。


忘れ去られることへの恐怖が、咲きを呼び込むのだ。


恐怖は回避ではなく、点火。名を呼ぶ直前の沈黙が、最も濃い香を放つ。


庭に遅れて蝉の声が降りてくる。音は音であって、どこか音ではない。


昨日までと同じはずなのに、今日は「別の器」を通って届く。


器が変われば、水の味は変わる。


同じ音は、もう同じではない。


彼はそれを損失と呼ばず、変容と呼んだ。


ふと敷居の影で何かが揺れた。


風はない。


それでも髪に似た細い線がひとつ、膝の高さでほどけた。


──彼女かもしれない。


名を置けば咲いてしまう。咲けば奪われる。


彼は名を呼ばず、ただ頷いた。


頷きは声より長く残り、家の軋みをひとつ移し、夜の手前の色を濃くした。


──咲いたら終わる。だが、終わりは常に次の名の始まりでもある。


彼は立ち上がる。袖口の糸に昼の光の薄さが絡む。


遠く、かすかな湿りの匂いがして、振り向いた。


風は吹いていない。


それでも、どこかで、咲かぬはずの音が、ゆっくり密度を増していた。




第三章 名を孕む沈黙


──咲かぬ花は、沈黙の内側で“開きかけて”いた。



朝が、酷く静かだった。


山際に浮かぶ雲は絹糸のように薄く、陽光は確かに射しているはずなのに、その温もりは地表に届かぬまま、空のどこかに吸われていくようだった。湿り気を帯びた空気が肌の上をそっと撫で、風は息をひそめたまま葉を揺らすこともなく、鳥の影さえ姿を見せない。村を包むすべてが、言葉を忘れたように沈黙していた。


その静けさは冷たくはなかった。だが確かに、どこか温度だけが抜け落ちていた。


宵城蓮司は縁側に腰を下ろしていた。朝の光は、まるで呼吸をするように静かに庭の石畳を撫でていた。足元には抜かれた草の青い匂い。その香りは、どこかで記憶と手を取り合っているような懐かしさを孕んでいたが、蓮司にはそれすらも皮膚の表面をかすめていくだけの幻のように思えた。


茶箪笥に並んだ湯呑みには淡い貫入が広がっていた。蚊帳を吊る梁には夏の名残がじっとりと染みつき、誰も開けなくなった奥の部屋の襖は、まるで“向こう側”を孕む膜のように、静かに閉ざされていた。


すべてが変わらずにそこにあるはずなのに、蓮司の視界の奥では、微かに“別の意味”を帯び始めていた。昨夜、咲かぬ花を見たせいかもしれない。けれどそれすらも、もはや確かな理由ではなかった。彼の目の裏に、咲かぬ花の気配がこびりついていた。


思い出そうとしなかった。けれど、思い出さないようにするという行為そのものが、既に何かを変えてしまっている気がした。


彼の中の静けさが、ひとしずく揺れた。それは耳では捉えられない、軋むような“気配”だった。だがその綻びは、深い井戸の水底に投げ込まれた見えない石のように、蓮司の意識の内奥で、ゆるやかに、けれど確実に波紋を広げはじめた。


その中心にあったのは──咲かぬ花の気配。


音もなく、色も持たぬまま、ただ“形になろうとする前の存在”として、彼の内に沈み、息づいていた。


村の小道を歩くと、すれ違う人々が、ほんのわずかに目を逸らした。挨拶がないわけではない。けれど、その声は“届かない”感覚だった。


まるで、蓮司の存在がこの村の空気に、すでに“馴染まなくなっている”ようだった。彼は温室の話をすることはない。それを誰かに告げようとも思わなかった。


──だが、誰にも告げなくても、“あの気配”だけは、蓮司を通して村に浸透していく。


沈黙は、共同体の礼儀であると同時に、結界でもある。外敵を遮るときと同じ仕方で、沈黙は“内なる異物”をもやわらかく隔てる。そして今、蓮司はそのやわらかな壁の、内側でも外側でもない曖昧な筋目に立っていた。


昼下がり、納戸を探ると、古い木箱の底から紙束が出てきた。墨の消えかけた名簿──かつてこの家に出入りした者たちの名前が列をなし、ところどころが湿気に溶けて、ただの濃淡になっている。


名は、残るはずのかたちで書きつけられ、なお、残らない。


ここにあったはずの誰かたちの呼び名は、濡れた和紙の繊維と見分けがつかぬほどに薄くほどけ、指先の熱で滲むように遠のいた。


──名は、器ではなく、橋なのだろう。彼岸と此岸のあわいを渡るための、仮の板。


橋板が腐れば、渡る者は落ちる。けれど、落ちることそれ自体が、渡った証になることもある。そんな考えが、ふと胸を掠めては消えた。


夕景が家の隅々に沈むころ、縁側の下から風鈴が見つかった。割れ、鳴らない。鈴口に指を添えると、音のない振動だけが骨へ伝わる。


──音は鳴らなくても、音の“場”は残る。


昨夜の温室で聞いた“耳には届かぬ音”の余韻が、鈴の傷と同じ場所に棲んでいる気がして、蓮司はそっと手を離した。


その夜、蓮司は再び温室に立っていた。けれど、足取りには、もはや“迷い”という名の揺らぎはなかった。道はすでに身体の奥深くに刻まれ、風景すらも、記憶というより“彼を迎える場所”として整っていた。


ただ──意識のどこかが告げていた。「自分で来たつもりがなかった」と。


歩いたはずのこの道は、もしかすると、咲かぬ花の“内側”だったのではないかと。


温室の扉に手をかけたとき、指先がぬかるむような重さを帯びていた。湿った木の質感。昨日はなかった微かなぬめり。それが、「迎え入れられている」という錯覚にすら思えた。


扉の奥の空気は、前夜よりもわずかに温かく、湿っていた。吐いた息が、すぐに呼吸され返されるような密度。それは、自分が置いてきた何か──呼吸のかけら、記憶の微粒子──を、この空間がゆっくりと吸い込んでいった証だった。


「昨日より近い」と、思った。


咲いていない。けれど──咲きかけている気配が、確かにある。


その気配は、言葉にならぬまま蓮司の内側へと染み込み、静かに境界を侵していく。恐れているのに、足を止められなかった理由が、そこにあるような気がした。


温室の中心、台座の上。白い蕾は、昨日よりわずかに膨らみ、まるで呼吸しているかのように、彼の気配に応じて膨張と収縮を繰り返していた。


「……俺のせいか……?」


ぽつりと漏れた声は、空間に吸い込まれることなく、ただ、土の上に“重さ”として落ちた。


土の床は、うっすらと濡れていた。その湿りは露ではない。蓮司の知らぬ“何かの名残”だった。名前のつかない余熱。誰かの記憶の温度。


ここには、かつて呼ばれた名の残り香が沈殿している──そう言葉にしないまま、彼は皮膚の底で感じ取っていた。


温室の四隅、崩れかけた木枠に沿って、殆ど色を失った札が打ちつけられている。何の印とも読めない線が残り、風化した指紋のようにささやかな溝だけが光を呑んだ。


札は札でありながら、意味を失った札。名は名でありながら、呼ぶ者を失った名。


──この場所は、言葉の墓地ではない。まだ葬られていない名たちの、胎内だ。


花は、まだ咲いていない。けれど、咲く準備だけが、確かに整いつつあった。


その夜、蓮司は夢を見た。


だがそれは、眠りによって訪れたのではなく──温室の空気の延長線上に、“知らぬ間に落ちていた夢”だった。


夢のなかの空は、どこまでも深く、月も星も失せた闇の中に、音のない波紋だけが漂っていた。足元には土の感触。けれど、それは現実のものではなく、踏むたびに記憶の香りが立ちのぼるような、“思い出の地面”だった。


そして、その闇の中で。


誰かが、耳元で、息の温度だけをもって囁いた。


「あなたは、まだ忘れていないから──美しい」


声ではない。それは、皮膚の内側に染みる“誰かの思念の吐息”だった。懐かしいとも、哀しいとも、すぐには判別のつかぬ温度。けれど蓮司は、その響きを知っていた。その声が触れた場所だけ、肌が微かに疼く。


──忘れていないことは、美なのか。それとも、忘却へ向かう途中の一瞬が、美と名づけられるだけなのか。


忘れない者は、痛みを持つ。忘れる者は、空白を持つ。痛みと空白、どちらが生をかたちづくるのか──その秤が、胸の奥で音もなく揺れた。


夢のなかの“咲かぬ花”は、動かなかった。


だが、花弁の奥に隠された“何か”が、彼の心の中で、静かに名もなき熱を宿しはじめていた。


漂う闇には、微かな潮騒のようなざわめきが混じっていた。海はないはずなのに、耳のない耳がそれを聴く。それは、名がまだ名でなかったころ、世界がまだ世界に名を与えられる前の、底音のようだった。


そして、再び囁きが届く。


「けれど、咲くときが来れば、


 あなたはもう──何も思い出せなくなるだろう」


その言葉は、哀しみではなく、予言のような静けさで告げられた。慈しむようでいて、残酷だった。すでに起きてしまったことを、ただ伝えるだけの響きだった。


言葉が消えたあと、長い呼吸の間が訪れ、闇は胎内のように温くなった。


最後に。夢のなかの空気が、少しだけ重くなった。


白い蕾が、その中心をほんのわずかに震わせ──ひとつだけ、音のような“気配”を立てた。


それは“開いた”音ではない。


でも確かに──彼の名前を、どこかで“知っていた”音だった。


呼ばれたわけではない。それでもその蕾から伝わってきた何かが、名を口にせぬまま、“名を知っている存在”の静けさを、彼に教えた。


「名は、呼ぶためだけにあるのではない。戻るためにも、ある」


言葉にならぬ了解が、胸の裏でゆっくりと沈殿した。


目覚める直前、闇の奥に白い梯子が見えた。段は少なすぎて、上にも下にも届かない。どちらへも行けない梯子の縁で、彼はしばらく立ち尽くし、やがて梯子そのものが“名”の形をしていることに気づいた。


昇るためではなく、境を示すための梯子。境を示すだけで、世界は二つになる。その裂け目に、声にならない祈りが棲む。


汗に濡れた額を押さえて目を覚ましたとき、畳の冷たさは確かにここにあるはずなのに、夢の「記憶の土」の方がまだ足の裏に残っていた。


胸の奥で、何かが“咲くまえに膨らんでいく”感覚があった。それは不安ではなく、奇妙な充足に似ていた。だが同時に、恐ろしい。


咲かぬ花を見たのは自分だけではないのではないか──そう思わせるほどに、村の沈黙が彼を取り囲んでいた。


誰も語らない。しかし「知らぬ者はいない」という気配だけが濃くなっていく。沈黙は、共犯のようだった。蓮司もまた、言葉を持たぬまま沈黙の一部となり、村の中に埋め込まれていく。


忘却は死の準備か。それとも、生き延びるための唯一の形式か。


咲かぬ花は、まだ咲かない。けれど、咲かぬ花が孕む沈黙は、すでに彼の中で「問い」となって芽吹いていた。


問いは香に似て、答えより先に、場を満たす。香る場所ができてしまえば、のちに来る名は、その場所へ自然に還る。


──そうして、名は“呼ばれる”のではなく、戻ってくるのだ。


蓮司は、息を整え、ゆっくりと立ち上がった。襖の向こうは相変わらず沈黙している。沈黙は拒絶ではない。むしろ、胎内のような受容だ。そこへ向かうべきときが、やがて来る。


咲くことと奪われることの秤が、どちらへも傾ききらぬまま震えているあいだだけ、彼はまだ、こちら側に立っていられる。


そして、薄明の気配のなかで彼は思った。


──名を失うことは、世界から退くことではない。むしろ、世界のほうが、静かにこちらへ降りてくる。


花がまだ閉じているあいだだけ、その降りてくる静けさの体温を、確かめていられる。


咲かぬ花は、今日も沈黙の内側で“開きかけて”いる。


名のない音が、名のある胸を、ゆっくりと満たし続けていた。




第四章 名を奪う優しさ


──咲かぬはずの花が、静かに“誰かの形”を帯びはじめる。



それは目に見える変化ではなかった。花弁の縁がわずかに脈打つたび、風もないのに茎が震え、その震えの奥で“人ならざる体温”の濡れた残響が、淡く、しかし確かに宿っていた。


宵城蓮司は、それが何に似ているのか、すぐには言語化できなかった。視界の片隅に置かれた影の線が、ふいに誰かの肩の輪郭と重なる瞬間がある。咲いていない蕾の張りつめた沈黙は、かつて知っていたはずの手触りを、言葉にならないまま肌の裏へ滲ませてくるのだった。


朝、目を覚ました瞬間、蓮司は自分の名を口に出そうとして、喉の奥で言葉を飲み込んだ。寝起きの霞の底で「忘れてはいけないものがある」と直感したのに、次の呼吸で、その“何か”は指の隙間から水のように零れた。鏡の前で試みに唇を開く。声帯が震えた気がするのに、音は漏れない。言い淀みではない。音が拒まれている。名が外へ出ることを拒んでいる。湿った拒絶の感触が舌の裏に居座った。


村の空は晴れていた。光も風も昨日と同じ顔をしているのに、すべてがわずかに遅れて届く。蝉の声は、時間の向こう側から滲んできたように聴こえ、濡れた鈴が空気の深部で細く軋むときの遠いきらめきだけが胸に触れる。世界が彼に触れるときだけ、薄い膜を介している──そんな感覚が皮膚に張りついた。


名を喪うとは、世界との接触が膜になることなのか。あるいは、そもそも存在は膜の上でしかやり取りされていないのか。思弁は答えを持たず、小さな泡になっては胸の奥で消えた。


温室の前で立ち止まったとき、蓮司は悟った。花の気配が、昨日とは違う。香りではない。空気の密度が皮膚へ“触感”で伝わってくる。ぬるい湿りのなかに、かつて誰かの髪へ触れたときの手触りが混じっている。刹那の記憶。だが鮮明すぎて、誰のものかは思い出せない。心臓だけが懐かしさに似た鈍い痛みで応えた。


昼、祖父の家の納戸で古い木箱を開けると、紙束が出てきた。墨の消えかけた名簿。かつてこの家に出入りした者たちの名前が列をなし、ところどころが湿気に溶けて、ただの濃淡になっている。名は残るはずの形で書きつけられ、なお、残らない。指の熱で滲み、繊維へ沈む。名は器ではなく、あわいに渡された橋なのだろう。板が腐れば渡る者は落ちる。けれど落ちるという出来事そのものが、渡った証になることもある。そんな考えが胸を掠め、また沈んだ。


縁側の下から割れた風鈴が見つかる。鳴らない。鈴口にそっと指を添えると、音のない振動だけが骨に伝わる。音は鳴らなくても、音の“場”は残る。昨夜の温室で聴いた、耳には届かぬ気配の余韻が、鈴の傷の場所に棲んでいる気がして、蓮司は指を離した。離した指に、誰かの髪の湿りに似た微かな香りがかすめた。振り向くほどの確かさはない。けれど膝の高さで、細い線がほどけるのを見た気がした。


夕刻、角を曲がると幼馴染の水無瀬遼が立っていた。呼び慣れた名を喉まで上げて、遼は結び目をほどくように口を閉じた。


「なあ……最近、おまえの名前、呼んでいいのか分からなくなる」


軽口に似せた声音の底で、名に触れることへの逡巡が沈んでいた。蓮司は笑わず、曖昧に頷く。呼ばれたくない。けれど、呼ばれなくなるのはもっと怖い。矛盾が喉の奥で絡まり、名を押しとどめる。


「……まあ、いいや。また、呼べるときに呼ぶ」


その言い方はやさしさだった。同時に、名を奪う仕草でもあった。呼ばれない名は、呼ばれる以前より速やかに色を失う。優しさこそが、もっとも静かに奪う。蓮司は言い当て、しかし声にはしなかった。やさしさを責める言葉は、いつだってやさしさより乱暴だからだ。


遼と別れ、路地を折れる。軒先の箱に野菜が並ぶ。茄子、胡瓜、手土産の卵。紙片に文字はない。受け取れば返礼が要る。返礼には名が要る。名がなければ循環は起きない。蓮司は会釈だけを置いて通りすぎる。そのやり方は、襖の前に立ち続けることと同じだった。呼ばないやり方、触れ過ぎないやり方。どれも同じくらいむずかしく、同じくらい正しい。


夜、眠りが来る前に夢が降りた。温室の気配の延長線に、落とし込まれた夢だ。空は底なしだが暗黒ではない。空気そのものが脈動し、足元の“思い出の土”から見えない波紋が頭上へ昇っては消える。耳元で、声なき囁きが息の温度だけで触れる。


──まだ忘れていないから、美しい。


声ではない。皮膚の内側へ染みる他者の吐息。背骨が震え、脊髄を遡る微かな震動が、ひとつの音節を探る。


れんじ。


耳ではなく、骨で聴いた。自分の名が“他者の記憶”として呼び覚まされたような感触。喜びでも恐怖でもない。言葉にならない侵蝕が血管の内側で花弁のように開く。振り返ろうとするが、できない。背後で白いものがひとひら、音もなく開いた気配だけがある。あなたの名は、ここにある──花弁の奥からの無言の了解が、蓮司をやわらかく包む。


忘れていないことは、美なのか。あるいは忘却へ向かう途中のわずかな明るみだけが美なのか。忘れない者は痛みを持ち、忘れる者は空白を持つ。どちらが生をかたちづくるのか。秤が胸の奥で音もなく揺れた。闇の底で潮騒に似たざわめき。村に海はないのに、耳のない耳がそれを聴く。世界がまだ世界に名を与えられる以前の、低い底音に聞こえた。


長い呼吸の間ののち、空気が少し重くなる。白い蕾の中心がわずかに震え、ひとつだけ、音のような“気配”を立てた。開いた音ではない。だが確かに、蓮司の名をどこかで知っている音だった。名は呼ぶためだけではない。戻るためにも、ある──言葉にならぬ了解が胸の裏へ沈殿した。


目覚めると、畳の冷たさは確かにここにあるはずなのに、夢の「記憶の土」の方がまだ足の裏に残っていた。胸の奥で、何かが“咲く前に膨らむ”。それは充足に似ていて、同時に恐ろしい。


翌日、蓮司は別のやり方で自分を確かめようとした。紙片に名を書こうとする。筆先を置くと、墨は丸く弾け、線にならない。繊維は吸うのに、名だけが紙を拒む。指先の体温が墨の輪郭を崩し、黒い水滴は名ではない模様へひらいて、じきに乾いた汚れへ変わった。名を声に出す代わりに、筆跡で呼び戻すことさえ、ここでは叶わないのだと知る。


昼過ぎ、路地のむこうで子どもの笑い声がした。振り向くと、小さな手がこちらへ上がる。「おじ──」という音節の手前で、その隣の女がそっと肩へ手を置いた。名前は呼ばれない。代わりに会釈の角度だけが深くなる。その仕草には敵意はない。名を守るための、ごく柔らかな抑制。やさしさが、名を奪う。奪いながら、壊さないための形を用意する。結界は、いつだってやさしさの顔をしている。


夕暮れ、蓮司は遼に会う。川のない川音が遠くで響くような空の下、二人は並んで歩いた。遼は目を細め、ゆっくり口を開く。


「おまえ、いまは呼ばれないほうが、うまく呼吸できるのか?」


「わからない。ただ……呼ばれたら、終わる気がする」


「終わるって、なにが?」


「俺が。俺の“名と結ばれた部分”が」


遼はうなずくでも否定するでもなく、靴の土を払った。沈黙が二人の間をゆっくり満たす。言葉にしない合意のかたちが、夕闇の濃度と同じ速さで整っていく。やがて遼は小さく笑った。


「じゃあ、呼ばない。だけど、いることは忘れない」


それは約束でも誓いでもなかった。ただ、やわらかな決意だった。名を奪いながら、確かさを残すための決意。蓮司は礼を言わなかった。言えば、ここで何かが固まってしまう気がしたからだ。


夜。温室の前に立つ。扉に触れない。触れなければ、入らない時間が育つ。中の空気の温度が外の皮膚を舐めるように伝わり、境が薄くなる。境が薄くなるほど、こちら側は静かに厚みを増していく。扉の隙から、湿りの匂い。金属の薄粉、乾ききらない澱粉、遠い土の鉄分。どれも薄い。だが、薄さは不在ではない。薄さは、長く残るための配分だ。


扉は閉じたまま、室内の気配だけがゆっくり膨らんでいる。台座。蕾。四隅の札。どれも同じ位置にありながら、昨日と同じではない。蕾の周囲に髪のような影。指のような曲線。どれも“そうであるはずの場所”に、“そうであるはずの空白”として生じている。彼女だ、と言えば、梯子は境を切りすぎてしまう。言わない。言わないことが、名に対する最大の忠実となる夜がある。


蓮司は息をひとつ、声帯の手前で止めて、胸の奥に小さな“場”を作った。そこに、ひとひらの香が宿る。髪ではない。思い出ではない。まだ名を持たない許しの匂い。それを吸い、ゆっくり吐く。吐息は即座に室内の湿りに吸われ、音にもならず混ざった。


翌朝の村は、さらに静かだった。挨拶はある。名は呼ばれない。隣家の戸が開き、すぐに閉じる。所作は少し遅れ、彼を避ける角度に微調整されていく。それらは敵意ではない。共同体が自らの沈黙を保つための、やわらかな抑制だ。沈黙は皮膚であり、皮膚は守る。だが皮膚は触れるための器官でもある。守ることと触れること。その矛盾の上で、人は暮らす。蓮司は、村が自分を“触れないことで守っている”と理解し、その静かな愛情を残酷と呼ぶことができなかった。


昼下がり、社の境内で老人が箒を止め、柄の先を宙でひと呼吸浮かせた。石段に当てまいとする慎みの癖。老人は蓮司に気づき、深く頭を下げ、名を呼ばずに口角だけを上げる。名のない挨拶は、名のあるものより長く残る。音がないぶん、場が増えるからだ。


その日の夕刻、蓮司は一度だけ紙片へ指で水を書いた。乾けば消える水の字で、名を書こうとした。指の跡は白く残り、輪郭はやがて紙の繊維へ吸い込まれた。痕跡は残らない。だが、書こうとした“場”だけが、紙の内側に薄く温度として残った。名は呼ばれずに、場へ戻る。戻る場所があれば、名は壊れない。壊れないから、奪ってもよいのではない。そうではない。奪わずに保つために、ひとは奪うふりをする。優しさの仮面を被った抑制。だがその仮面の裏にいる顔は、きっと誰もが似ている。


夜、縁側で割れた風鈴のそばに座る。鈴は動かない。だが鈴の周りにだけ、音の“場”が生きている。聞こえない音が集まり、寄り合い、ほどけていく。耳ではなく皮膚で聴く。咲くことは奪う。けれど、奪われることでしか受け取れないものもある。その矛盾の上に祈りは組まれる。祈りは言葉ではなく、場をつくる。場ができれば、のちに来る名はそこへ自然に還る。名は呼ばれるのではなく、戻ってくる。


三日目の夜、蓮司は温室の扉に手を置いた。開けない。ただ手を置く。木は湿り、内側の呼吸を指へ返す。境を越えるたび、人は少しだけ自分を置いていく。置いていったものが中で育ち、外へ戻るとき、それはもう名の形をしていない。香だけが残る。残香だけが──。


そのとき、背後から誰かの足音がしたように思えた。振り向かない。振り向けば、誰かは居なくなってしまう。居ないことが分かる恐怖と、居ることが確かである恐怖は、同じ重さで胸を押す。蓮司は扉から手を離し、ひとつ後ろへ退く。退くことが祈りである夜がある。祈りはしばしば、触れないことのほうへ傾く。


村の角を曲がると、遼が待っていた。言葉はない。二人はしばらく並んで歩き、やがて足を止めた。


「いつか、呼んでくれって言う日が来るか?」


「その日が来れば、俺が呼ぶ前に、名のほうが戻る」


「そしたら、俺はどうすればいい?」


「そこにいればいい。いることの重さだけが、名の器になる」


遼はうなずき、掌を胸に置いた。宗教の作法ではない、もっと古い、名のない祈りの形。二人のあいだを、風のない風が通った。


家に戻ると、戸口の敷石の上に細い影が落ちていた。髪のようで髪ではない。指のようで指ではない。そうであるはずの場所に、そうであるはずの空白。蓮司は目を閉じる。名を置けば、咲く。咲けば、奪う。名を置かずに在るものへ、静かな頷きを返す。頷きは声より長く残り、家の軋みの節をひとつ移し、夜の手前の色をわずかに濃くした。


その夜は、扉を開けなかった。開けないまま、内側の呼吸に耳を澄ます。耳ではなく、皮膚で。皮膚ではなく、名の手前で。やがて空気は低く沈み、暗さの密度が一段階だけ変わる。終わりではない。幕も降りない。ただ、場の器が深くなる。


翌朝、村はまた静かだった。静けさはいつも同じ顔で現れる。だが、その静けさを受ける器が、少しずつ違っていく。蓮司が何も語らず歩いていても、視線は遠巻きになる。彼のなかが変わったのではない。村が、彼の“何か”を嗅ぎ取ったのだ。まだ咲いていない花に、自分の一部を与えてしまったことを──誰も知らぬはずなのに、知っているように。


蓮司は縁側に座り、掌を見つめる。白い粉はどこにもない。けれど皮膚の稜線には、あの夜の湿りが薄膜のように張りついている。触れると、見えない波紋が内側から広がり、言葉の前の感覚だけが形を持ちはじめる。名は呼ばれずに、戻ってくる。戻ってくるとき、呼ぶのは口ではない。戻るのは名のほうだ。


優しさは名を奪いながら、名の還る場所を用意する。奪うことと守ること。そのやわらかな暴力の只中で、人は生き延びる。蓮司は、今日も温室へ行かないことを選ぶ。行かないままで場を育てる。育った場へ、やがて名が戻る。戻った名は、花と等価になる。咲くとは、戻り、奪い、なお残ること──そんな矛盾の形をしている。


遠くで、鈍い音がひとつだけした。音というより、音が来る前の膨らみ。咲かぬはずの音の密度が、またほんのわずかに増している。風は吹いていない。それでも、どこかで、誰かが、名のない呼吸を整えている。


蓮司は立ち上がる。歩かない。歩かないことが、いまの返事だ。返事は言葉より長く残る。残るものの方へ、ゆっくり身を傾ける。昼の光の薄さが袖口の糸に絡み、糸の微かな反射が彼の脈と歩調を合わせた。


──咲かぬ花は、まだ咲かない。けれど、沈黙の内側で確かに“人の形”を孕みつつある。


名のない音が、名のある胸を、今日も静かに満たしていく。


そして、彼は知っている。呼ぶべきときが来たとき、呼ぶのは自分の口ではなく、戻るのは名の方だということを。戻ってしまえば、誰も呼ばずに済むのだということを。


そうして夜は、まだ終わらないまま、次の夜のために薄く明るみ、彼はその明るみの縁で、やさしさという名の結界に身を預けて立っていた。




第五章 香と名のあわい


──香は名の手前で生まれ、名は香の余白へ戻っていく。



朝は、硝子越しのように遅れてきた。陽は差すのに温度が届かない。庭石の上だけが乾いて、土はまだ夜の湿りを手放さない。軒の糸蜻蛉は羽を閉じ、鳴くはずのものは鳴かず、鳴かぬはずの沈黙だけがかすかな振動となって空気を満たしていた。宵城蓮司は縁側に腰をおろし、掌を返して、その振動を測った。指の腹へ、世界の薄い鼓動が移ってくる。昨日までの朝はもっと素朴に過ぎていった。今日は、何かが剥がれ落ちた後の表面ばかりが、やけに明瞭だった。


湯を沸かす。茶の香は立ちのぼるが、香りになる前の気配が先に鼻腔の奥へしみた。温室の奥に沈む白、開かぬ襖の向こうにたまる湿り。互いに離れた二つの場所が、地下の目に見えない導管でつながっている──そんな感覚が皮膚の内側で育っている。蓮司は湯呑を置いた。置いた音だけが乾いて、喉は渇くのに唾は少しも湧かない。胸の奥で、心臓がひとつ大きく脈を打つ。


廊下に足を踏み入れると、温度が一段沈む。祖父の家の廊下は長く、角を曲がるたびに季節がずれる。畳の縁と縁は幅の違う時間を縫合する縫い目のようで、踏むごとにかすかに鳴るのは木の声か、空気の歯擦か、あるいは名を擦って生き延びてきた家の呼吸か。問題の襖は、いつもと同じ位置に、いつもと同じ沈黙をたたえていた。紙は薄く黄変し、ところどころに走る繊維の筋が光を吸う。指を近づけると、触れていないのに冷たさが伝わる。冷たいのに湿っている──その矛盾が、見えない皮膜の存在を先に知らせた。


襖と畳の境。わずかな隙間にだけ、朝が届かない。蓮司はしゃがみ、目の高さをその隙間に合わせる。溝の奥は見えない。見えないのに、そこから意識の重さのようなものが漏れてくる。目で捉えられぬものが皮膚を先に撫でることがある。今がそれだ。鼻先に、ごく淡い糊の匂い。古い澱粉が湿りで起こす匂い。それに微かな黴の気配が混ざる。だが、一瞬だけ別の層が鼻腔をかすめた。香りと呼ぶには早すぎ、無視するには遅すぎる、あの手前の兆し。──名のない香。


手を伸ばせば触れられる。だが触れたものは、たぶん襖ではない。触れていないのに指は触れ終えた疲れを先取りしている。そんな錯覚が肘の内側まで沁みる。蓮司は手を戻し、片膝を立てた。膝に載せた掌の重みで、自分の位置を確かめる。ここは外側。あちらは内側。境は薄い。だが薄いからといって、境でなくなるわけではない。


名というものは、きっとこういう薄さなのだろう。名は内容の器ではない。こちらとあちらを分かつ板であり、行き来のためだけに仮に架けられた梯子だ。梯子は昇る像を与えるが、梯子そのものはどこにも属さない。名もまた呼ぶためにあるが、呼ばれた瞬間にはもうその場所にいない。それでも梯子がそこにあるという事実が、人と世界のあいだに渡れるという感覚を与える。──それが名の慈悲であり、残酷だ。


立ち上がる。木口がわずかに軋み、背に見送られる気配が貼りつく。見送られるということは、ここが門である証だ。開かなくても門は門。開くことだけが門の本質ではない。境を示し続けることも、門の役割だ。


戸外に出ると、村はいつもどおりに見えた。見えることは信用できない。今日の村は、見ることを信じる者から順に、何かを失っていく日だ。汲み場の桶の水は澄んでいる。しかし澄んでいるということは、何も映らないということでもあった。影は桶の縁で欠け、底まで届かない。


すれ違う老婆は手甲の上から指を一本だけ立て、胸の前で押さえた。祈りではない。声を飲み込むための古い躾だ。畑へ向かう若者はあえて靴音を立て、音が名の代わりになるとでも言うように視線を地面に落とした。子どもは顔を上げ、口を開きかけ、自分の掌で塞ぐ。その仕草を見た瞬間、蓮司の背筋に汗が滲む。幼いころ、名を呼ばれた誰かが崩れ落ち、村人たちが血相を変えてその口を塞いだ光景が一閃する。呼ばれたのは自分ではない。けれど、その時の冷たさだけは、いまも掌の内側に残っている。


店先の女は小さく会釈をした。呼びかける語を選ぶ、そのわずかな躊躇の間に蓮司は通り過ぎる。挨拶はある。けれど名は呼ばれない。呼ばれない名は、呼ばれる以前より速く褪せる。やさしさの仮面を被った抹消。そう言いたくなる気配が村中に染みる。だが彼らは悪意を持たない。ただ境を守る。沈黙は礼儀であり結界であり、共同の祈りのかたちでもある。沈黙は誰かを外へ追い出すためより先に、誰かを中で壊さないために用いられる。


名を呼べば、名は来る。来れば、咲く。咲けば、奪う。だから呼ばない。だからこそ名は共同体の外でひとりで成熟し、遠いところから戻る準備ばかりが整っていく。守る手つきは、いつだって奪う手つきに酷似する。その二重の動作のあいだで、軽い眩暈が起きた。


路地の角に水無瀬遼がいた。いつもどおりの顔つきで、いつもより長くためらってから、「よう」とだけ言う。声は軽い響きを帯びていたが、その軽さの裏で喉がかすかに掠れる。無理に取り繕う声色だと分かった。「風鈴、直したのか」顎で家の方を示す。「直さない」と蓮司は答える。驚くほど静かな声で。「鳴らないものは、鳴らないままでいい」言葉を返す間、掌には汗が滲んだ。夏のせいではない。遼は視線を逸らし、うなずくのか、うなずかないのか曖昧に背を向けた。去り際、ほんの一瞬だけ、蓮司の肩に視線が置かれた。──また、呼べるときに呼ぶ。言葉にならなかった言葉が背中に貼りついた。


遼の気配が角に消えてからも、蓮司はしばらく立ち止まっていた。肩に貼りついた温度が遅れて滲み出してくる。人の気配は、去ったあとに残る時間のほうが長い。川縁に腰かけ、互いに名を呼び合いながら石を投げた昔の夕暮れがよみがえる。水音は軽く跳ね、呼び声は水に吸われて消えた。呼ぶことと消えることが同時だった。あのときの声は澄んでいて、名を呼ぶことに躊躇はなかった。──なぜ、人は名を恐れるようになったのだろう。答えのない問いが胸に積もる。


石垣の影に古い井戸がある。覗き込むと水面は暗く、まるで名を呑み込んだ跡のように静まっている。映った顔が揺がずに留まる。その静けさに耐えられず、蓮司は喉を鳴らした。小さな音でも水面は揺れる。自分の名を呼ばないまま、それでも生きている証を示すには、これくらいしかない。


路地の終わりに置かれた籠。形のよい茄子がいくつか。紙切れには何も書かれていない。名のない施しは善意と呪いの中間に置かれる。受け取れば返礼が生まれ、返礼には名が要る。名がなければ循環しない。蓮司は籠の前で立ち止まり、会釈をした。受け取らず、退けず、置きっぱなしにする。それが今日のまっとうな返礼だと直感した。


昼、風は立たない。祖父の家に戻ると、廊下の影が朝より濃い。襖までの直線に埃が一本の川のように流れている。粒子はそれぞれ別の速度で落ち、遅れ、追いつき、また離れる。光は水分に触れると重くなる。重くなった光は音に似る。蓮司はその重さで家の体温を測った。体温はわずかに上がっている。たぶん外よりも、ここが深いからだ。深いところは、昼の盛りにしばしば温かい。


襖の前に立つ。今朝より近い。それだけがはっきりしている。皮膚の内側にこちらの重みが増すのと同じだけ、向こうからの重みも増していた。二つの重みが薄膜の両面に貼りつき、静かに押し合う。押し合っているのに破れない。だから境だ。桟に指を沿わせる。木は水を吸った記憶を持つ。手に当たる感触は、乾いたものの皮をかぶった湿りだった。紙の表面近くに、糊の薄い湖がまだ残っている。そこに触れれば、名の粒子が浮かぶかもしれない。


触れないまま、触れる前の感覚だけを長く持続させる。持続は祈りの一形式だ。祈りは宛先がなくても成立する。宛先が到来する前の空席を空席のまま抱える技術だ。空席の時間が長いほど、その席は席として濃くなる。濃くなった席に、名は自然に帰ってくる。名は呼ばれるのではなく、戻る。──胸の裏で、その実感が重みを増す。


ふ、と。襖の向こうに微かな湿度の揺れ。香りではない。だが香りの前駆。喉奥にじんとした渇きが走り、息を呑むと胸が熱い。彼女の髪に顔を埋めたとき、最初に感じたのは香りではなかった。匂いに転ずる前の温度の配列。その並び替えが、いま、襖の向こうでちいさく組み替わった。彼女──とは言い切らない。言い切らないことで、かろうじて守れる境がある。言い切ることは、ときに真実へ近づくが、同時に世界を終わらせる種にもなる。終わらせるには、まだ早い。


目を閉じても襖はそこにある。その事実だけが世界の密度を支える柱になる。胸骨の奥で不規則な鼓動が続く。恐れに近いが、恐れだけではない。懐かしさの手前、恋しさの手前、ただ戻るという運動の予感。重みは甘い。甘さは腐食の兆しであり、成熟の最後の手触りでもある。境を越えれば片方に決まる。境の上に立つことは、甘さを甘さのまま保持することだ。保持できる時間は長くない。長くないのに、長くしなければならない。だから祈りはむずかしい。


夕餉の支度の音が隣家から漏れてきた。菜箸が鍋の縁を叩き、蓋がわずかに狂う。音が名の代わりに挨拶を運ぶ。犬が一度だけ吠え、あとは静かだ。縁側に戻ると、夕光は低く、草の先端だけを淡く照らす。昼に見た籠を思い出す。茄子はまだ路地の角にあるだろうか。受け取りもしない、退けもしない、あいだの在りかた。あいだは境の親戚だ。どちらにも傾かないことは優柔不断ではない。秤を平行に保つ腕の筋肉は、見えないところでこそ疲れる。その疲れが今、胸骨の裏でじわりと滲む。


夜が落ちる直前、蓮司は温室へ向かった。道は覚えているのではない。道のほうが蓮司を覚えている。足音は土に吸われ、影は体からわずかに遅れ、別の意志に導かれるように進む。温室は、夜そのものが古い形をとって眠っているかのようだった。月光は差し込んだはずなのに痕跡を残さず、無かったことのように呑み込まれる。


扉に触れる指先がぬかるむ。昨日はなかった微かなぬめり。迎え入れられている錯覚。中の空気は前より温かく湿り、吐いた息がすぐ呼吸され返されるような密度だった。四隅の木枠には、色を失った札。何の印とも読めない線が、風化した指紋のように溝だけを光らせる。札は札でありながら意味を失い、名は名でありながら呼ぶ者を失う。名札は沈黙のほうへ傾き、沈黙は名札の空白を抱きこんで場そのものを成している。──ここは言葉の墓地ではない。まだ葬られていない名たちの胎内だ。


台座の上、白い蕾はわずかに膨らみ、呼吸するもののように、蓮司の気配に応じて膨張と収縮を繰り返す。触れていない。ただ見ているだけ。にもかかわらず、花は育つ。


「俺のせいか」


ぽつりと落ちた声は空間に吸い込まれず、土の上に重さとして沈んだ。床はうっすら濡れている。露ではない。名前のつかない余熱。誰かの記憶の温度。ここには、かつて呼ばれた名の残り香が沈殿している。言葉にしないまま皮膚の底でそれを感じ取る。


そのとき、蕾の周囲に髪のような影が見えた。風はない。影は風のない水面に差した指のようにわずかに揺れ、揺れながら、在るはずの場所に在るはずの空白をつくった。似ている、と思いかけ、言葉を切る。似ていると言えば、似てしまう。似てしまえば戻れない。蓮司は口を噤み、視線のまま蕾に手を伸ばし、指を止めた。触れれば終わる。身体が先に知っている。


咲いていないのに、もう知っている。咲いていないのに、もう許している。咲いていないのに、もう、名前を呼んでいる。呼び声は声ではない。胸腔の内で滲んだ情動が音になり損ねたまま蕾の方へ置かれる。それは祈りに似ていた。──香のない名。名のない香。どちらも、まだ、こちらへもどらない。


帰り道、校庭跡の鉄棒に指をかけ、ぶら下がらずに離す。掌に残った鉄の匂いが温室の湿りと混ざって変質する。匂いは名に似て、混じりながら境を示す。村の角では、誰かが籠を片づけていた。会釈だけが交わされ、言葉は置かれない。置かれない言葉は、置かれたものより長く残る。


夜更け、縁側に坐る。割れた風鈴は動かない。だが動かない鈴の周囲にだけ音の場が生きている。そこにだけ聞こえない音が寄り合っている。耳を閉じ、皮膚で聴く。咲くことは奪うこと。けれど、奪われることでしか受け取れないものもある。その矛盾の上に、人間の祈りは立つ。祈りは言葉ではなく場をつくる。場ができてしまえば、のちに来る名はその場所へ自然に還る。だから名は呼ばれるのではなく、戻ってくる。


翌朝、静けさはさらに薄く透明になった。透明さは無関心ではない。むしろ濃い注意のかたちだ。蓮司は裏山の社へ向かう。祭はないのに、境内には古い紙垂が吊られ、拝殿の奥に木箱が積まれている。箱の蓋は半ば開き、札が束になって眠っている。墨の線はほとんど消え、触れれば崩れそうだ。ひとつを持ち上げず、ただ覗きこむ。名は残るはずの形で書きつけられ、なお残らない。名は器ではなく橋。此岸と彼岸のあわいに架かる仮の板。板が腐れば渡る者は落ちる。落ちるという出来事そのものが、渡った証になることもある。そんな考えが胸を掠めて、ほどけた。


鈴緒は結ばれたまま動かない。掌で結び目に触れると、音のない振動だけが骨に伝わる。音は鳴らなくても、音の場は残る。温室で聴いた耳に届かぬ音の余韻が、この結び目と同じ場所に棲んでいる気がして、そっと手を離した。


石段を下りると、水無瀬遼が鳥居の外で待っていた。呼ばない視線が交わる。遼は何か言いかけて口を閉じ、代わりに小さな包みを差し出す。開けば、古い布に包まれた風鈴の欠片。縁に走るひびの光が淡い。「直すな」と蓮司が言う前に、遼はうなずいた。「分かってる。音がないほうが、いまは合う」それ以上の会話はない。ふたりの間を、風のない風が通り抜けた。


昼過ぎ、祖父の家の納戸で木箱を開ける。紙束は湿り、名は濃淡にほどけている。指でなぞらず、ただ目を近づける。目が紙に近いほど、名は遠くへ退く。遠くへ退くほど、香の気配は近くなる。紙の繊維に澱粉の匂い、その奥から、彼女の髪のはじめの温度に似た、名の前駆。──名のない香。


夕方、村の路地は影を増す。挨拶はある。けれど名は呼ばれない。隣家の戸は開き、すぐ閉じる。所作は遅れ、角度は微調整される。敵意はない。むしろ共同体が自分の沈黙を保つためのやわらかな抑制。沈黙は皮膚で、皮膚は内側を守る。だが皮膚は触れるための器官でもある。守ることと触れること。その矛盾のあいだで暮らす。村は、蓮司を触れないことで守っている。やさしさは、名を奪う。けれど、それがなければ名はもっと粗雑なやり方で壊れてしまうだろう。奪いながら守り、守りながら奪う。ふたつの動作が胸の内で重なり、ほどけない結び目になった。


夜、蓮司は襖の前に立ち、すぐには手をかけない。昼の湿りが夜の湿りに置き換わる。夜の湿りは静けさに香を混ぜる。だが今夜の香は香の形を取らない。香のない名──そう呼ぶしかない痕跡が襖の向こうで育ち、名のない香──そう呼ぶしかない気配がこちらの胸で濃くなる。二つは呼応するが、混じらない。混じる直前で止まっている。止まっているから、ここはまだこちら側だ。


畳と襖の境に、ひとすじ濃い影が差し、すぐに退く。かわりに、吐息にも似た暖かさが足首を撫でた。風ではない。誰かの呼吸の名残。あるいは呼吸になる前の、名だけの起伏。蓮司は名を呼ばない。呼べば来る。来れば咲く。咲けば奪う。その連鎖を、彼はもう知っている。


それでも立つ。立っているあいだだけ、境は境であり続ける。境が在るかぎり、あちらもこちらも、まだ失われない。名は呼ぶためだけにあるのではない。戻るためにも、ある。戻る場所を空けておくこと。それが今の彼にできる、ただひとつの祈りだった。


家のどこかで板が鳴った。誰かが歩いたのではない。小さな揺れが収まるまで、秒針のない時計の前に立つように、ただ立つ。呼ぶな。まだ呼ぶな。胸の奥に置いた言葉は命令ではない。祈りの形をした猶予の願いだ。猶予は、愛の古い名。愛は、奪う前に長く待つ。


闇が深くなる。山の稜線は見えなくなる。見えないことで、逆に輪郭は確かになる。見えないから、在る。呼ばないから、戻る。咲かないから、孕む。香のない名は今夜も襖の向こうで眠り、名のない香は今夜も胸で震え、どちらもまだ終わらない。


やがて、微かな気配が遠のく。遠のくのに、確かさは減らない。確かさは強さとは別の場所で保たれる。別の場所が今夜はうまく合っていた。合っているから、終われる。終わるといっても幕は降りない。暗さの密度が一段だけ変わる。蓮司はゆっくり背を向ける。背に貼りつく見送られる気配はやわらかい。やわらかさは赦しではない。けれど、赦しの手前で長く続く温度だった。


縁側へ戻り、白くならない息をひとつ吐く。胸の内側で小さな霧になり、名を欲しがらない。名も霧を欲しがらない。互いに欲しがらない二つが、互いの輪郭をやわらかく撫で合い、ほどけ合わずに離れていく。明日も来る。来なくても、来る。理由はいらない。季節が巡れば、ただ、またここに在る。


香のない名。名のない香。ふたつのあわいに、今夜も、彼は立ち続けた。




第六章 情動の胞衣えな


──咲くものは、名か、祈りか、それとも、まだ呼ばれぬまなざしか。



家が、ふと小さく軋んだ。


夜の湿りを吸いこんだ木材が、身じろぎをするように。


その音は、耳で聴く前に皮膚の裏側で先に震えた。蓮司は足を止め、暗がりの中で呼吸の数をひとつ数え損ねる。廊下の隅には、昼の埃の粒がまだ宙に漂っていて、夜の濃度に溶け切れずにいる。家は、建物というより生き物だった。老いた獣の眠りの合間に、骨の方から鳴るような軋みが、低く、湿って、絶え間なく流れている。


歩を進める。


板の継ぎ目が、足裏の重みに合わせてわずかに撓み、畳の縁が夜の水を吸った紙のようにやわらかく沈む。ここを何度歩いたか、数え切れない。けれど今夜は、見慣れた距離が異様に長い。角をひとつ曲がるたび、空気の粘度が増し、光の手触りが鈍る。昼に触れたものが、同じ形のまま温度だけを変え、別の世界に置き換えられていく。


最奥。


襖はそこに在った。昼と同じ位置に、昼とは違う沈黙を張って。蓮司は立ち止まり、胸骨の奥に右手を重ねるような気持ちで、息を整える。深く吸えば吸うほど、吸ったはずの空気が胸に届かない。代わりに、誰かの吐息を借りているような錯覚が、彼の内側を静かに満たす。怖いのか、と自問する。違う、と否定する前に、怖いだけではないやわらかい温度が混ざる。恋しさ、という単語を選べば脆くなりすぎる何かが、うっすらと喉に滲む。


襖の前に立ったとき、意識の輪郭がほどけた。


いや、ほどけたのではない。──剝がされたのだ。目に見えぬ“何か”が、襖の縁に沿って這い、蓮司の表面を薄く薄く削り取っていく。皮膚の内と外の境界が曖昧になり、呼吸が自分の所有物ではないものに変わる。耳の奥に、遠い心音に似た濁りが流れ、舌の裏では古い糊の匂いが起き上がる。世界が彼に触れるのではない。世界は、彼から離れていく。


そのとき──


畳と襖の狭間から、ひとすじの“吐息”が滲んだ。


風ではない。湿り、ぬるみ、懐かしさ。皮膚の裏をたどるように忍び込み、膝の内側に小さな鳥肌の線を生む。まるで誰かが、こちら側を覗き込み、喉奥にためた長い息を、慎ましく、けれど確信をもって吐いたかのようだった。


蓮司の足は、意思より先に半歩、前へ出た。


刹那、襖が“内側へ向かって”吸い込まれるように開いた気がした。音はない。だが、動きの中心には意志があった……ように感じられた。次の瞬間、蓮司は気づく。襖は微動だにしていない。開いたのは扉ではなく、こちら側の厚みだったのだ。


向こうは“部屋”ではない。


色も奥行きもない。輪郭の約束すらない。あるのはただ、どこかの“内側”に触れたときの、しっとりとした膜。呼吸が空気ではなく、水でもない、もう少し原始的な液体──胞衣に似た何か──に触れている錯覚。額の皮膚で感じるもののほうが、目よりも速く届く。


一歩、踏み入れたつもりになる。


背後で襖が静かに閉じた気がする。二度と開かない静けさが、家全体の呼吸からひとつ分だけ剝がれて、ここだけの空白になる。だが足元の畳は確かにここにある。呑み込まれたのは空間ではなく、彼の知覚の順序だ。


時間は流れず、方向は消え、光は用途を失う。残るのは、“戻ってくるもの”の気配だけ──


──名のない沈黙。


──記憶になる前の、まばたき。


──花になる前の、彼女の気配。


それらが、蓮司という器の底へ、ゆっくり降りていく。沈むのに、重くならない。重くならないのに、満ちていく。


闇の中で、ひとひらの花弁が揺れたように思えた。


濡れた光の縁をまとった曲線が、名を呼ぼうとした“口元”に見える。視線が追い、喉が乾く。見たことがある。否、知っていた。知っていながら、長く忘れたふりをしてきただけだ。あの唇から、自分の名が零れ落ちる直前の気配。その一瞬を「視た」という感覚が、骨の内側に古い折り目のように残っている。だが、それが現実だったのか、夢の残光だったのか、輪郭は触れようとするたび水気を吸った紙のように波打ち、端からはがれていく。


これは自分の記憶か。


それとも、彼女が夢の中で見た“彼”の記憶か。


問いは答えに触れず、胸の裏に薄い痛みをつくる。痛みでないところが、かえって痛む。視線と皮膚感覚が同じ高さで混ざりはじめ、境界は両側から湿って消える。どこまでが自分で、どこからが“彼女のなかの彼”なのか、判じるための線がほどけ、濃度だけが残る。


名を呼べば、確かめられる──はずだ。


だが確かめるとは、終わりに手を添えることでもある。


呼べば、来る。


来れば、人に戻る。


人に戻れば、彼岸へ行く。


この連鎖は、理ではなく体で知っている。呼びたい。呼びたくない。還ってほしい。終わらせたくない。矛盾が喉の奥で擦れ合い、甘い熱を生む。甘さは腐朽の最初であり、成熟の最後でもある。どちらへ傾いても、越えれば片方に決まる。だから越えたくない。だからこそ越えたい。相反が、胸の中で静かに軋む。


胸の奥に胎児のように丸まった“何か”を感じた。


脈を打ち、わずかに呼吸する。熱は、彼女の想いなのか。自分の想いなのか。どちらにせよ、境界をほどき、ふたつの祈りは臍帯を切られぬまま、同じ暗さの中で絡み合う。


幼い日の午後、雨上がりの匂い。


濡れた縁側に、湯呑がふたつ。


名を呼ばずに笑った横顔。


指先に残る茶の縁の温かみ。


台所の隅で湯気に曇った小窓。


その背後に、濡れた庭の土の色。


忘れていたのではない。


彼女が“気配のかたち”で残していった記憶を、蓮司が空席のように抱えていただけだ。空席は、長く空席であり続けるほど席として濃くなる。濃くなった席に、名は自然に帰る──そのことわりを、胸はゆっくりと思い出す。


別の層で、祭りの夜の光景がちらつく。


屋台の明かりが紙の灯を透かし、風鈴よりも軽い鈴の音が、胸の中だけで鳴った。彼女の髪に触れた指先の温度が、いつから自分のものだったか分からない。あれは自分が見た背中か。彼女が見た自分の横顔か。見た者の位置が、匂いの層で入れ替わる。焼きトウモロコシの焦げの甘さ、石畳に落ちた蜜のべたつき。誰かが手を引いた感触がある。誰の手かは、どちらの記憶かは、選べばほどける。


夢の中で、たしかに彼女は名を呼んだ。


しかし今の蓮司には、音としては届かない。残っているのは、呼ばれたあとに沈んだ熱だけ。熱は言葉の代わりに彼を満たし、言葉は熱の代わりに彼を空にする。空と満ち、両方が同時に起きる。


喉に触れる。冷たい。


だが指の腹は、触れた場所から遅れて温度を帯びる。吸うと満ちず、吐くと空になり切らない。呼吸の手順は、意味を失っても動作であることをやめない。


名を呼ばなければ──。


だが唇や舌で生む音の手順は、今夜に限って信じられない。必要なのは、音ではなく沈降だ。魂のひだの底に沈んだ重みを、すこし持ち上げ、置き換え、解き放つ。儀式というより、ゆっくりとした位置のやり直し。指先の神経が、形にならない震えの輪郭を手探りする。胸腔で滲んだ情動が、声帯の近くで微かに振動し、振動のまま音に変わり損ねる。変わり損ねていることが、今夜は正しい。


闇の芯に“小さな静寂のふくらみ”が生まれた。


音のようでいて音でない膨張。こちらの息に合わせ、世界が一拍だけ息を潜める。彼女の気配は、待っている。待っているのは、言葉ではなく、還る道。


蓮司は、喉ではなくもっと奥──自分と他者の区別が古くなる地点から、名を呼んだ。


声にはならなかった。


けれど、声よりも深く届いた。


世界の外側ではなく、“彼女”の内側へ。そこで名は咲いた。咲いたのに、花は見えない。見えないのに、確かに咲いた。名は放たれたのではない。沈んだ。還った。彼女の奥へ、同時に彼の奥へ。臍の緒のような一本の温度が、二つの深みのあいだをゆっくり渡る。したたりは血肉に混じり、骨のきしみをなぞり、皮膚の裏を濡らす。忘れていた古い旋律が、肉体の奥でゆっくり調律され、爪の白い三日月にさえ微かな重みが戻る。


──ああ、これが“還る”ということなのか。


名は、声を欲していなかった。


忘れられることを恐れてもいなかった。


ただ、戻る場所を探していた。戻る場所は、彼女の胸の奥に、そして彼の胸の奥に、同時に在る。そうわかった瞬間、涙というより“震え”に近いものが体の内側で広がり、音にならないまま彼を揺らした。


世界は沈黙に満ちた。


音が消えたのではない。音という概念そのものが、はじめからここにはなかったのだ。ただ温度だけがある。皮膚の裏で、名前になり損ねた鼓動が小さく余韻となって滲む。余韻は消えない。形にもならない。ただ濃度だけを変えて漂う。


返礼の代わりに、湿った光がぽう、と灯る。


琥珀色の小さな微光。返礼でも赦しでもない。ただ、名を介さず、魂と魂がうなずき合う“合意”に似た沈黙。合意は約束ではない。約束でないのに、約束より強く長く残る。


家の奥が、別の調子で軋んだ。


今度の軋みは、さっきよりも軽く、少し乾いている。夜が深まり、湿りの配分が変わったのだろう。遠くで、誰かが寝返りを打ったような、板と板の擦れ。家という体も、疲れ、眠り、祈るのだ。柱の節目に祖父の咳払いの気配がかすかに差し、井戸端で交わされた昔日の挨拶が、名を欠いたまま壁の繊維に沈んでいく。家は、記憶の容器ではなく、記憶の皮膚だった。


ふいに、外の濃度が呼ぶ。


蓮司は襖から半歩退き、戸口を抜けて庭に出た。夜気が頬へ遅れて触れ、その遅れの縁に、彼女の微かな体温が潜む。石の面は露を集め、草は背丈ほどの暗さをまとい、井戸の鎖は音を立てずに金の匂いだけを放っている。村は眠っている。眠っているのに、聴こえる。鳴くはずのものは鳴かず、鳴かぬはずの沈黙だけが、名の代わりに響いている。


路地をひと筋だけ歩く。


角の籠には、相変わらず名のない施し。茄子が三つ、形のよさを失わないまま、夜の湿りの上に静まっている。紙片には何も書かれない。受け取れば循環が始まる。循環には名が要る。名がなければ起きない。蓮司は会釈だけを置き、通り過ぎる。やさしさは、名を奪いもする。だが、名を粗雑に壊す手つきからは遠ざけてもくれる。守りと抹消のあいだに、今夜は立つ。


川の音が遠い。


聞こえるのは、水そのものではない。水が“場”に触れたときの、名づけ前の擦過。耳ではなく胸で震える。胸で震えたあと、ようやく耳へ届く。順序は逆でも、音は音だ。川面を渡る風があれば、誰かの名は軽く攫われただろう。風はない。ないことで、かえって在る。


家へ戻ると、廊下の影は朝より濃い。


襖までの直線に、埃が一本の川のように流れ、その粒子はそれぞれ別の速度で落ち、遅れ、追いつき、また離れる。光は水分に触れると重くなる。重くなった光は音に似る。蓮司は、その重さで家の体温を測る。体温はわずかに上がっている。深いところは、昼の盛りに、しばしば温かい。家の呼吸に合わせ、彼の足裏の痛みもまた、秒針のない時計のように刻まれていく。


襖の前に再び立つ。


今朝より、近い。それだけが、はっきりしている。皮膚の内側に“こちら”の重みが増すのと同じだけ、“あちら”からの重みも増していた。二つの重みが、薄膜の両面に貼りつき、静かに押し合う。押し合っているのに、破れない。──だから、境だ。襖の桟に指を沿わせる。木は水を吸った記憶を持っている。乾いた皮をかぶった湿りが、指へ、手首へ、肘の内側へ、静かに移っていく。指は嗅ぐ器官でもあったのだと、今夜ようやく知る。目より先に、触れてしまっている。触れたのに、触れていない。その中間で、なお立っている。


ふ、と。


襖の向こうに、微かな湿度の揺れ。香りではない。だが、香りの前駆。喉奥にじんとした渇きが走り、息を呑むと胸がひどく熱い。“彼女”の髪に顔を埋めたとき、いつも最初に感じたのは、匂いではなかった。匂いに転ずる前の、温度の配列。その並び替えのようなものが、今、向こうでちいさく組み替わった。彼女──と言い切らない。言い切らないことで、かろうじて守れる境がある。言い切ることは、時に真実へ近づくが、同時に世界を“終わらせる”種になる。終わらせるには、まだ、はやい。


暗さは柔らかく、柔らかさの表面で香がひらく。


ひらくのに、咲かない。咲かないのに、満ちる。


──呼べば、還る。


──呼べば、終わる。


──呼ばなくても、還る。


──呼ばないから、残る。


反復は矛盾を告げるのではなく、矛盾の居場所を整える。整えられた居場所で、香は姿勢を少しだけ変え、楽そうに息をした。胸骨の裏の疲れが、いくぶん和らぐ。和らぎは赦しではない。赦しではないのに、赦しよりも深く、長い。


どれくらい立っていたのだろう。


時間は意味をなくし、しかし体は秒針のない時計の前にいるみたいに疲れていく。足裏に畳の目の跡が少し痛む。膝の裏に湿りが寄り、肩甲骨のあいだに丸い重みが沈殿する。倒れないこと、呼ばないこと、呼び過ぎないこと、触れないこと、触れ過ぎないこと──どれも同じくらいむずかしい。むずかしさは、丁寧さの古い名だ。


「ありがとう」と言う。


声にはしない。音にしてしまうと、表面だけが先に減ってしまうから。名を使わない「ありがとう」は、香の層にそっと滑り込み、しばらくのあいだ、そこに留まる。留まっているかどうか、確かめる術はない。確かめられないという事実が、平らで、やさしい。


背を向ける。


背中に貼りつく“見送られる気配”が、初めてここに立った夜よりも、やわらかい。やわらかさは、赦しではない。けれど、赦しの手前で長く続く温度だ。廊下を戻る。板はさっきよりも軽い音で答える。角を曲がるたび、世界の粘度は少しずつ薄まり、耳の形が現実に馴染んでいく。柱の節を指先で撫でると、ささくれの位相がわずかに変わっている。家の皮膚が、わずかに若返ったのかもしれない。あるいは、こちらが古くなったのだ。


戸口の手前で、もう一度だけ振り返る。


振り返っても、何も見えない。見えないから、在る。見えないものだけが、たしかに在る。蓮司は、唇の内側で名を整え直す。呼ばないために、名前の席を温め直す。席が温かいかぎり、名は遠くへ流れ切らない。


外気に触れる。


夜の湿りが、頬の皮膚に少し遅れて届く。庭の土が冷え、石の面がごく弱い露を集め、草は背丈ほどの暗さを纏っている。虫の声は、耳で聴く前に胸で震え、胸で震えたあとにやっと耳へ届く。順序が逆でも、音は音だ。


立ち止まる。


香は、まだある。


濃くはない。


強くもない。


けれど確かに、いる。


いるという事実だけが、今夜の終わりになった。


息をひとつ、ゆっくり吐く。白くならない息が胸の内側で小さな霧になり、名を欲しがらない。名も霧を欲しがらない。互いに欲しがらない二つが、互いの輪郭をやわらかく撫で合い、ほどけ合わずに離れていく。


家の奥が、最後にもう一度だけ、細く軋む。


その音は、呼ぶでも見送るでもなかった。


ただ、夜という皮膜の内と外が、同じ温度でつながっていることを確かめる、小さな身じろぎにすぎない。


蓮司は、その音を背で受けながら、庭の暗さに目を澄ます。


風はない。けれど草いきれの奥で、目に見えない導管がひそやかに息づいている気がする。温室の方向に、濃度のわずかな偏り。耳朶の裏に集まった熱が、またたくように散っては戻る。何も触れず、何も呼ばず、ただ、席を温めることだけを続ける。名は、席を見つけて戻る。祈りは、席を空けて待つ。


香りは、風に混じって遠のき、また近づいた。




終章 誰もいない襖の前で


──香は、記憶の中でしか還れない風を帯びていた。



夜が、山裾に落ちきっていた。濃紺の空には星もなく、草むらの奥で鳴く虫の声だけが、宙に薄い光の縞を立てている。濡れた土の匂いは低く、空気は長い溜め息のように梁へ滲み、木口がときどき、小さく身じろぎをした。


蓮司は、今夜も襖の前に立っていた。かつて“彼女”が在ったはずの奥──もう何もないはずの、闇の向こう。襖紙は薄暗がりに馴染み、繊維の筋が灯りもないのにほの白く浮いて見える。畳との境に、夜だけが細く溜まっている。その細さを、足首の皮膚が確かに知っていた。


昼に見たものと、夜に触れるものは、同じ形のまま温度だけすり替わる。柱も桟も畳縁も、覚えのある位置にあるのに、夜になるとわずかに遅れて触れてくる。その遅れの厚みが、今夜はやけに深い。呼吸が胸に届く前に、どこか別の場所で誰かの息と擦れ合っている気がした。


何も起こらないはずだった。


──なのに。


畳と襖の境、ほんの一筋のあわいから、ひとすじの風が忍び込んだ。風と呼ぶにはぬるすぎて、吐息と呼ぶには気配がありすぎる、湿ったさざ波のようなもの。足先を掠め、脛を撫で、膝裏に細い鳥肌の線を残す。まるで誰かがこちら側を覗き込み、喉奥にためた息を慎ましく、けれど迷いなく吐いたかのように。


胸の奥に、“名を呼ばれたときの記憶”が蘇った。骨より深いところに沈んでいた感覚が、皮膚を伝ってもう一度脈打つ。夢ではなかった。幻でもない。そこに、確かに“彼女”がいた。


香りがあった。雨に濡れた髪に顔を埋めたときの最初の息。古い襦袢に残った糊の薄さ、台所の湯気に溶けた茶葉の甘さ、庭土の鉄分、井戸の鎖に移った金の匂い、乾ききらない障子紙の澱粉。幾層もの小さな残り香が折り重なり、胸の内側に目に見えないきざはしをつくる。その階は登るためではなく、ただ温度を保つために敷かれている。


風はすぐに遠のいた。去り際に、声にはならない震えを皮膚の奥へ置き土産のように残し、まるで「またね」と唇の影だけを渡したかのように。


蓮司は身じろぎもせず、それを見送った。桟に添えた指は、乾いた皮をかぶった湿りを遅れて受け取り、触れていないのに触れ終えた疲れだけが、手の甲へ広がった。家の奥で、骨が鳴るような細い軋み。呼ぶでもなく、見送るでもない。夜という皮膜が呼吸を整える音だった。


「ありがとう」と、胸の奥でひとつだけ言う。音にしてしまうと、表面だけが先に擦り切れる気がした。言葉は香の層にまぎれ、ゆっくり沈み、沈みながら残る。


廊下を戻り、戸口から外へ出る。草は露を含んで背丈ほどの暗さを纏い、石畳は細かな滴でざらついている。虫の声は、耳より先に胸で震え、胸で震え終えてから耳へ届く。順序は逆でも、音は音だ。夜気はひやりとして頬へ遅れて届き、その遅れの縁に、彼女がひそんでいる。


今夜だけではない。秋、柿の甘さが庭先で熟す頃も。冬、霜柱が土を押し上げ、板間に冷えが刺さる朝も。春、杉の粉が光を曇らせ、鼻腔の奥を薄く痺れさせる午後も。季節が変わっても、襖の前の夜は在った。香の層は配分を変えるだけで、なくなりはしなかった。


冬のある夜、井戸の鎖が凍てた金の匂いを強く放っていた。揺れていないはずなのに、揺れた音だけが遅れて届く気がした。音は無い。けれど、音の手前の膨らみは確かにある。別の晩には、降っていないのに雨の匂いだけが先に胸へ届いた。まだ落ちない雨粒の気配が、襖紙の繊維の端をととのえる。近い──そう思っても、呼ばなかった。呼ばなくても香は来る。来るから呼ばない。呼ばないから、残る。


村の角には、時折、名前のない施しが置かれていた。茄子や胡瓜、新聞紙に包んだ卵、古い瓶に挿した薄い色の草花。紙片には何も書かれない。受け取れば返礼が要る。返礼には名が要る。名がなければ循環は起きない。蓮司は会釈だけを置いて通りすぎた。そのやり方は、襖の前で立ち続けることとどこか似ていた。呼ばないやり方、触れ過ぎないやり方。どれも同じくらいむずかしく、同じくらい正しかった。


呼ばないという選択は、敗北でも逃走でもなかった。名が来る道を塞がず、同時に出口に触れないための、ぎりぎりの姿勢だった。人は、確かめることでしか安心できないときがある。けれど確かめることが、終わりの合図になると知ってしまった後は、別の仕方で生き延びるほうが、やさしい夜もある。


蓮司は、襖から半歩退き、縁側に腰を下ろす。暗さの層が幾重にも重なり、その最下層で露の粒が小さく灯る。灯りではないのに、灯りと呼びたくなる一瞬の明滅。手のひらを上にして膝に置くと、皮膚に夜の微かな重さが沈んできた。幼い日の記憶がひとつだけ浮かぶ。雨上がりの午後、濡れた縁側に腰をかけ、湯気が揺らしていた空気。名を呼ばずに笑った気配。笑い声は忘れても、鼻に抜ける息の温度だけが残っている。指は嗅ぐ器官でもあった、と、あの夜に初めて知った。今夜も、その知り方のまま、ここにいる。


家の中で、板が細く軋む。すぐにやむ。やんでから、耳がやんだことに気づく。小さく笑っても、香は薄れない。むしろ笑いの形に合うように輪郭をやわらかく変える。香は、彼の些細な動作に合わせて力を抜いたり、ほんの少しだけ力を入れたりした。生き物のようで、もののようで、どちらでもない在り方で。


やがて空気は少し冷たくなった。夜の底が、ゆっくり動いている。蓮司は再び立ち上がり、襖の前へ戻る。畳の目が足裏に等間隔の列を押しつけ、同じ列が胸の内側にも揃う。列があると、呼吸は楽になる。楽になると、感傷は薄くなる。薄くなったところへ、風がもう一度、細く通り過ぎた。


今度の風は、さっきより乾いていた。夏の湿りに秋の澄みが少し混じる。井戸の金の匂いは影を潜め、代わりに枯れかけた草の芯が、低い音を持たない匂いで近づく。香りはひとつの場所に定着せず、胸骨の裏、肋骨の弓の内側、喉の奥の失声の手前、耳の軟骨の影、舌の裏の薄い膜へと散り、どこも浅く、どこも深い。


名は、もう要らなかった。要らない、と言い切る力も要らなかった。要らないままで在ることが、すでに返事だった。返事は言葉より長く残り、虫の声の切れ目の位置を少しずらし、露の光る順序を変え、家の軋みの節を移した。移り変わるそのわずかが、今夜の出来事のすべてだった。


どれくらい立っていたのだろう。数えるのをやめた後の時間は、数える前より正確に体に残る。畳の目の列が足裏に細い影を刻み、膝裏には微かな湿りが寄り添い、肩甲骨のあいだには、鈍い疲れが静かに沈殿していた。疲れは不快ではなく、座席が温かいことを告げる合図に似ている。席が温かいかぎり、名は遠くへ流れきらない。戻るときの場所は、先に在る。場所が先に在り、名があとからそこへ還る。


「ありがとう」


再び、声にはしない。胸の奥で整え、声帯の前で止める。止めて、息だけを通す。息は音にならず、香と混じり、風と混じり、夜の外側へ薄く拡がる。拡がったものは、また薄く戻ってくる。戻ってくるときには、誰かの石鹸や材木の地肌、小川の苔、遠い畑の土の蒸気──世界の端から端までの微かな混色を少しだけ連れて。幾重もの微かな香が折り重なり、胸の内側に見えない階を築く。  


風が止む。香りは消えない。消えないまま、薄くなる。薄くなるのに、確かさは減らない。確かさは強さとは別の場所で保たれる。別の場所が、今夜はうまく合っていた。合っているから、終われる。終わるといっても、幕が降りるわけではない。幕はなく、ただ暗さの密度が一段階だけ変わる。


蓮司は、ゆっくり背を向けた。背に貼りつく“見送られる気配”はやわらかい。やわらかさは赦しではない。けれど、赦しの手前で長く続く温度だった。角を曲がるたび、世界の粘度は少しずつ薄まり、板は軽い音で応え、壁は何も言わず、天井は沈黙の高さを保つ。


外へ出る。庭の暗さは深いが、底に温度が残る。露の匂いが立ち、草は背丈ほどの影を持ち、土は夜を抱えて冷えていた。見上げても星はない。星がないから、虫の声が仮に空を担っている。仮の役目は、ときに本物より長く続く。


立ち止まる。香りは、まだある。濃くはない。強くもない。けれど確かに、いる。いるという事実だけが、今夜の終わりになった。白くならない息をひとつ吐く。胸の内側で小さな霧になり、名を欲しがらない。名も霧を欲しがらない。互いに欲しがらない二つが、互いの輪郭をやわらかく撫で合い、ほどけ合わずに離れていく。


明日も来る。来なくても、来る。理由は要らない。季節が巡れば──ただ、またここに在る。


声ではなく、名でもなく、


ただ──残香だけが。


蓮司の胸を、静かに、そして深く満たしていた。


それは終わりではなかった。


終わらずに漂い続けるものとして、夜の底にひそやかに残り、


明日もまた、同じように──彼を待っている。



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