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プカプカ  作者: 神崎玄
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プカプカ(後編)

 翌日はリカのところで昼から『理趣経』の続きを詠んだ。これは継ぎ読みといって、別に手を抜いたわけではない。そして、今回は線香護摩はなしだ。

「キベイテイレイ・ダイヒヒロシャダフ、キベイテイレイ・ダイヒヒロシャダフ、キベイテイレイ・ダイヒヒロシャダフ」

 読経を終える。

 リカは安堵の表情を浮かべていた。方便究竟(きゅうけい)とはよく言ったもので、俺たちの仕事は儀式をすることで安堵を与えることなのだ。

 冷えた麦茶を出してくれる。

「ねえ、和尚さん、安楽エッチとか言ってなかった?」

「はは。そこ、ひっかかるよね」

 経文を示して説明する。

「安楽悦意」と書いて「あんらくえっち」と読むのだ。経文にふりがながふってあるので説明しやすい。

「え? じょうらいって如来(にょらい)ってことだったの?」

「うん、昔からこう読みならわしている。これが宗派によってちょこちょこ違ってたりする」

 雑談をしてからお布施を受け取り、自宅へと戻った。


 その日、カレンダーには満月のマークがついていた。「布薩(ふさつ)」の日なのだ。

 新月と満月の夜には、僧侶が本山に集まって戒律を確認する。これを布薩という。うちの宗派はゆるいので、位階が上の者は年に一回集まればそれでいい。下っ端も、絶対に毎回集まらなくてはならない、という規則があるわけではない。

 開会にあたって、維那(いな)という役職の僧が背丈ほどもある大きな杖をついてあらわれる。そして、道場の床を叩いて静謐を求める。

「ここに不浄の比丘ありや」ドン。

「ここに不浄の比丘ありや」ドン。

「ここに不浄の比丘ありや」ドン。

 ひとわたり見回してから満足げに「ここにいるのは清浄の比丘のみにてそうろう」と管長に報告する。

 これ、不浄の比丘(酔っ払っている人や淫志盛んな人)はそもそも本堂に入ってはならないことになっているし、ここで「自分は不浄の比丘です」などと言い出すトンチキが出れば「あとで話聞こかー」と表へ引きずり出す、という仕組になっている。まあ、一度も見たことないけど。

 続いて『菩薩戒経』の読経が始まる。一回に一から二ページといったところだ。読経の後に大僧正からの解説があり、ありがたくうけたまわる。大体が他のお経からの引用や過去の経験談だ。

 そのあと雑談になる。一人ずつ、近況を短く話していく。自分語りがあまり長いと維那の杖の「ドン」が鳴り響く。

 俺の番になったので、久しぶりに線香護摩を焚いたことを報告した。リカの家で起きた怪奇現象についてもかいつまんで話した。

 さすがにざわついた。

「においはしたかね。死臭とか何か」

 師兄の一人がたずねた。

「いえ、特には」

「思い出してみたまえ。風呂場で感じたことの全てを」

 そういえば、シャンプーの匂いやボディーソープの匂いはした。異常な音はしていなかった。むしろ静かなくらいだった。肌に感じられたのは普通の湿気で、いやな感じはなかった。むしろ肌がうるおうようないい湿気だ。風呂桶の中に現れた、毛の生えた何かだけが異様だった。

「それは、人頭柑(じんとうかん)だな」

 腕を組んでいた管長が口を開いた。

 長老たちがそれは何かとたずねる。

「若い頃にこんな話を読んだことがある。『合壁故事』だったか『合壁集』だったか、そんな題の奇談集だ。おそらくはグレープフルーツの訛伝(かでん)だろう、と注記にあった。そんな感じだったかね」

「いえ、それが、最初は自分の目には見えず、手でもつかめず、ただ髪の毛みたいな物が引っかかっていただけなんですよ」

「うーむ」

 管長もうなる。

 その晩の布薩は、俺がかかわった謎の怪異――誰ともなく名前はプカプカに決まった――でもちきりになった。


 その数日後。俺はリカに同伴してキャバクラに出かけた。

 お坊さんがキャバクラに行くのはいかがなものか、という意見もあるだろう。が、うちの宗派はそういうことは言わない。むしろ、この世の全ては清浄であるから執着するな、と説く。戒は自分がどうするかの心がけにすぎない、という見解(けんげ)をとっているのだ。このことは得度前にしつこいくらい説明された。

 というわけで、俺はちょくちょく酒を飲みに出かけている。これも、世俗の収入源を持ちつつ兼業坊主をしているからできることだ。ただ、どこに行っても帽子はとらない。剃った頭をさらすと「縁起が悪い」と言われるからだ。「もう毛がない=儲けがない」「ボウズ=客が来ない」「髪がない=神がない=商売の神に嫌われる」といった縁起かつぎから、もっと深刻な死穢への忌避まで、坊さんが差別される要因は、いまだに残っている。

 (リン)ママが暖かく出迎えてくれた。台湾生れのオーナーママだ。寿司屋で晩飯を食ったあとの同伴出勤なので、俺はしたたかに酔っていた。

「あらあら、和尚さん飲みすぎよ。同じ呑むならうちで呑んでくれなくちゃ」

 ケラケラと笑う。

「だって珍しい酒がたくさんあったんだよ。飲まないなんて失礼じゃないか」

 ひとしきり日本酒談義が続く。

 俺は、ウィスキーのロックをガバっと飲む。一休さんではないが「極楽をいずくのほどと思いしに杉葉立てたる又六(またろく)が門」である。

「仕方ないわねえ。これ、飲んで」

 ママが小瓶に入ったドリンクを差し出した。

薑黄耶(きょうおうや)美柑(みかん)? 台湾のドリンク?」

「ウコンエキスよ。肝臓をいたわってあげなきゃ」

 キャップをねじって開けると、柑橘類の強い香りがした。味はウコンのせいかちょっと苦い。

「これ、ミカンジュースなの?」

「ううん。薑黄はウコン。耶美柑は…… よくわからないけどミカンの一種」

「社長さん、ザボンとかジャバラって言ってたわよね」と他の子が助け船を出す。

「そうそう。どこかアフリカの国名みたいなミカンだったわ」

 ママさんは、またケラケラと笑う。

 日本の柑橘類はちょっと聞いただけではわからない不思議な名前をしている。文旦なんて古代中国の皇帝が愛した果実だ、と言われたら納得してしまいそうだし、バンペイユはフランス料理の名店と言われたらだまされてしまいそうだ。

「社長さん、て?」

「台湾の食品メーカーの社長さん。日本に売り込みに来たんだって。これはその試供品」

 鼻につんと来るこの香りはどこかで嗅いだことがあったような気がする。それもすごく最近……

 記憶が甦ってきた。

 リカの家の風呂で嗅いだ匂いだ。てっきりシャンプーだと思い込んでいた。

 ドアチャイムがカランカランと鳴った。

「噂をすれば影、説曹操(シュオツァオツァオ)曹操到(ツァオツァオタオ)。こちらがその社長さんよ」

 ママさんはにこにこしながら新しい客を迎えた。


「そのドリンク、いかがですか。お気に召しましたか」

 社長さん――李さんは、俺の目の前の空き瓶に気づき、横に坐ってきた。人当たりのいい感じだ。

「なんと言いますか、不思議な味わいです。漢方薬っぽさもありますね」

 決しておいしくはない。が、まずくもない。いわく言いがたいシトラス系ドリンクなのだ。

「これって、ウコンとザボンか何かのミックスなんですよね」

「はい、そうです。肝臓が元気になって、肌もつやつや、疲れにくくなります」

「この耶美柑というのは……」

「台湾原住民のシャーマンが代々育ててきた秘薬です。元々は邪美柑と書いていたのですが、『ジャ』というのはイメージが悪いので字を変えました」

 指でテーブルに文字を描き、ラベルの「耶」の字を指さす。

 俺は本丸に切り込んだ。

「李さん。あなたは、これを飲めますか?」

「えっ?」

 社長さんは困惑した様子だった。

「もちろんです。いつも飲んでいます」

「邪美柑というのは、ひょっとして髪の毛が生えたみたいな外見をしているのではありませんか?」

「なんでそんなことを知っているのですか。ひょっとしてあなた、同業者?」

 林ママが、険悪な雰囲気を感じて介入する。

「こちらは日本の和尚(ホーション)先生(シエンション)。いわば同業者ね」

「ああっ、それで見抜いたのか。凄い、神通力だ!」

 李さんは自らの額を叩く。

 ママは、社長の前にそっとサンプルのドリンクを置く。

「私、食品会社の社長です。けど、道士でもある。毎日、読経しています」

 そして、サンプルのふたをはずすと、ぐい、と飲み干す。

「うん、苦い。でも、大丈夫」

 どうやら、苦いという弱点も突かれたと思ったようだ。

「確か、かつては人頭柑と呼ばれていたのですよね」

「まったく、驚くほどよくご存じだ。ええ、邪美柑は台湾原産の、悪霊よけの果物です。ただ、あまりにも見た目が悪い。シャーマンしか育てない。絶滅しかかっていました。うちの会社で保護して、現在、接ぎ木をして増やしているところです」

 社長さんも、俺と同じくウィスキーのロックを頼む。

「私、それを飲んでひどい目にあったんですからね」とリカが憤慨する。

 俺たちは、リカの家で起きた怪奇現象について李さんに説明する。

「まさか、そんなことが……」

 社長は困りきった様子だ。

「元となった樹には、辟邪の薬という以上に何かいわれがあったんじゃないですか」

「ええ。女神の樹と言われてきました。女系のシャーマンの家で祀っていたのです。が、後を継ぐ者がいなくて私がその土地を寄進されました」

「その際に、祭祀の継承は?」

「していません。最後のシャーマン、というか尼さんが亡くなって、儀式を継ぐ者がもういないのです」

「商品化は少し待った方がいいですね。しっかり対処しないと、あなたの会社が呪われるかもしれない」

「はい。さっそく対処します」

 社長さんはしゅんとなって、酒もそこそこに帰ってしまった。お店には悪いことをしたが、これ以上被害を広められても困るというもの。

 リカがたずねた。

「どうして私だけ(たた)られたのかなあ。ママも他の子たちも同じドリンクを飲んだのに……」

「うーん、祟られたと言うより、ただおどかされたんじゃないかなあ」

「というと?」

「この女神、そんなに気は強くないんだ。ただ、神木としての自分を忘れてほしくないという思いを子孫に託した。それが果実にあらわれ、リカには強く感じ取れた。そういう事なのだと思う」

 これは出まかせではない。薑黄耶美柑(きょうおうやみかん)のドリンクを飲んだ時に舌から感じられた事なのだ。そして、この女神は、男に対してはからっきしと言っていいほど無力だ。「免疫がない」と言っても過言ではない。尼さんが世話していたというから、そのせいもあるのだろう。

「さてと。他のお客さんも来る頃だし、そろそろおいとましようか」

 林ママがにっこりしながら伝票の控えを渡す。

「おっと、今日は安いな」

「うちの子と、大切なお客さんの将来を守ってくれたお礼の気持ちです」

 こうして俺は、リカからもらったお布施をすっくり使い果たしたのだった。


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