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プカプカ  作者: 神崎玄
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プカプカ(前編)

 夏の蒸し暑い夜、眠れないままネットブラウズをしていると、知りあいのリカから電話がかかってきた。時計を見るとまさしく丑三つ時。うれしいお誘いならいいのだが、と思いつつ電話に出る。

「和尚さん、助けて! お風呂に変なのがいる!」

「虫、ではなくて?」

「ちゃうねん。何か変なの」

 リカが言うには、ためておいた風呂の湯の蓋を取ったところ、中に変な物が浮いていた、というのだ。それも、真っ黒な毛玉のような物だという。

「写真はとった?」

「撮ったけど、写らなかった」

 パニックして叫び出したので、俺は「すぐ行く」と言って電話を切った。


 リカとは、彼女が高校生くらいに働いていた喫茶店以来のつきあいだ。

 今の言葉で言うとパパ活みたいな関係だった。ただし、肉体関係はない。お芝居や映画に連れて行ったり、河豚(ふぐ)や蟹を食べさせたり、遊園地に行ったり。今勤めているキャバクラにも客として通っている。

 とりあえず、お経と輪袈裟と数珠の三点セットをカバンに入れてタクシーに乗る。これでも、小さな寺で一年間修行した僧侶の端くれ――権律師(ごんのりっし)なのだ。衆生済度の誓願はただの口先だけじゃない。

 マンションにつくと、リカは扉を開けて震えながら立っていた。

 ハグして落ち着かせてから中に入る。

 風呂トイレ別の、一人暮しにしてはけっこう家賃が高そうな部屋だ。キャバ嬢の給料ってそんなにいいんだろうか、と余計なことを考えつつ、奥の寝室をちら見する。女の子らしいピンクの部屋だ。邪気は感じられない。

 輪袈裟と数珠を装備し、光明真言を唱え、右手で刀印を結びながら風呂の扉を開く。

 バスタブには蓋が載っていた。

「えいっ!」

 二分割された蓋をひっぺがす。

 そこには……

 何もなかった。

 ただ、透明なお湯が入っているだけだった。

「ほら、何もないよ」

 俺は、後ろにいるリカを振り返る。

「何も、ない?」

 けげんそうな顔をしている。

 お湯に手をつけてぴちゃぴちゃとかき混ぜて見せる。

(つか)んでる! ヤバいの、掴んでるよ!」

 手には重みもぬめりも感じない。ただのお湯だ。

「ほら」

 手を差し出すと、リカはあとずさって廊下にへたり込んだ。

「和尚さん、髪の毛、見えないの……」

 リカから自分のてのひらに視線を戻す。

 すると、掌と指に長い黒髪がべったりとからみついていた。

 これにはかなりびびった。

 けど、プロとしてはここでへこたるわけにはいかない。

「オン・アボキャー・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン」

 冷静に光明真言を唱える。大日如来への祈り――全ての宿業と罪障を消滅させるマントラだ。怪奇現象にはこの真言を唱えよと師匠からは教わっていた。なぜなら、大日如来は生命の源だからだ。幽霊だって怪異だって、命をいただいている源は太陽だ。太陽がなければ命は存在しない。その神格化が大日如来――マハーヴァイローチャナなのだ。大日如来の前では一切の命は平等。究極のところ、他の命を脅かすのも苦しめられるのも、ただ悠久の宇宙でのささいなさざ波にすぎないのだ。

「……だから脅したって何にもならんよ。いるべき場所にお帰んなさい」

 言葉で心を込めて説得する。

 すると、何かがプカプカと湯の表面に浮かび上がってきた。

 その怪異はザボンほどの大きさをした人の頭の集団だった。

 目や鼻や口はなく、何の感情も感じられない。恨みや憎しみのない、ただそこにあるだけの存在。

「説得が効くのは聞く耳を持つものだけです」

 師僧の言葉が脳裏によみがえってきた。

「そういう時は神仏の助けを祈るしかないのです」

「こりゃ困ったな。準備がいるな」

 リカには近くの知り合いの家に泊まってもらうことにした。

 戦いは翌日に持ち越された。


 朝。俺はホームセンターに向かった。

 石鉢と植木を置く台、そしてハーフサイズの線香を一箱買う。

 一日、肉食を控える。読経も、いつにもまして念入りにする。テレビも見ずゲームもしない。

 夕方には入浴をすませて僧衣に着替える。そして夜半までずっと読経する。

 その夜のリカは、目に見えて弱っていた。仕事先でも会話がはずまず、ミスも多く、カウンターの内側に回されたと言う。自宅に帰ることを思うとさぞかしつらかっただろう。

「お供えは買っておいた?」

「うん」と小さくうなずく。

「今日はリビングの方でご祈祷をするね」

 テーブルに幡の形の観音様の小さな掛け軸をかかげ、その後ろには小さな屏風をめぐらせる。手前には買ってきた台を、その上に石鉢を置く。そこに、自宅の香炉からとってきた灰を入れる。お供えを置いたら祭壇の完成だ。 

 持参の燭台に蝋燭を立て、灯明をともす。

「オン・アボキャー・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン……」

 光明真言を何度か唱え、願意(がんい)表白(ひょうびゃく)をし、懺悔文と開経偈を唱える。リカはおとなしく後ろで正座している。正座はしなくていいと言ったのだが、そういう所は律儀な子なのだ。

 今日持ってきたのは『高王白衣(びゃくえ)観音経』だ。

 石鉢の中に線香を組んで護摩をはじめる。

 なかなか火がつかない。煙は出るのだが炎が昇らないのだ。

 念のため持ってきていた線香護摩用の灰色の太い線香をばらして蝋燭にかざす。

 ようやく火がのぼった。これを井桁に組んだ線香にかぶせる。どうやら、ホームセンターで売っている「煙のすくない線香」は火の着きもよくないらしい。

 読経がすすむ。

 マントラの部分になった。

「リホリホテイ、キュホキュホテイ、ドラニテイ、ニホラテイ、ビリニテイ、モコキャテイ、チンリンケンテイ、ソワカー」

 後ろで正座していたリカが、くっくっくっ、と笑い出した。笑いのツボに入ってしまったらしい。

……こいつの同僚にリホって子がいたっけ。それもビリヤニ大好きっ子が。

 俺もつられて笑いそうになる。だめだ。腹の底に笑いをとどめなくては。

 なんとかまじめな顔つきで読経を終える。

 線香護摩はきれいに燃え尽きて、儀式自体はうまくいった。

 続いて掛け軸を荼枳尼天にかえ『稲荷心経』を唱える。これは短いお経だ。この家に安寧をもたらし、所縁の方々を守りたまえと祈る。

 さらに『理趣経』にとりかかる。もうこうなったら使える手段は何でもつくす構えだ。

 理趣経には、笑いを招く一節がある。「ほーさんばーかーさー」という言葉が何回も出てくるのだ。「坊さんバカさ」に聞えてしまうので、師僧は「ほーさんまーかーさー」に読み替えていた。この難関は師匠の智慧でなんとかなった。

 そこで、ガンガンガン、と扉が激しく叩かれた。

 思わず読経を中断する。

 外にいる何かが声を張り上げる。

「誰かいますかー。大丈夫ですかー」

 リカが慌てて玄関に向かった。

 チェーンをかけたまま扉を開けて、何やら押し問答しているようだ。

「和尚さん、消防の人が……」

 読経に集中していた時は気づかなかったが、廊下からマンション全体で鳴っているらしい警報音が聞えてくる。

「火元がここになっているんです。確認させて下さい」

 銀色の服を着た消防士が玄関に入ってくる。

「ちょっとお待ちを。祈祷をしていたところなのです。ご覧の通り、火の手はあがっていません」

 僧形の俺と線香の煙が充満した室内を見て、消防士はなっとくした様子だった。

「失礼しました!」

「ご苦労様です」

 消防士は帰っていった。

「あー、気が削がれたな。今日の所はこれでおしまいにしよう」

 栞を経本に挟むと、回向文(えこうもん)願以此功徳(がんにしくどく) 普及於一切(ふぎゅうおいっさい) 我等与衆生(がとうよしゅじょう) 皆共成仏道(かいぐじょうぶつどう)」で儀式を締めくくった。

 そして、風呂桶の水に護摩の灰を入れとかき混ぜて流す。

 これで何とかなればいいのだが……

 リカは怖がって風呂場を覗こうともしない。

 俺にはまだ漠然とした不安が残っていた。

「悪意の不在」

 今回の怪異には、何の情念も感じられなかったのだ。

 普通、悪霊とか祟りとか言われる現象は体の芯にこたえる。しみ込むような不快さが骨の髄まで締めつけるものなのだ。今回は、ただ淡々と現れては消える、ただの現象っぽさがあった。

 これはひょっとしたら別の論理が働いているのかもしれない。

 怪奇現象よ、うまく消えてくれ。

 改めて心の中で祈る俺だった。


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