第三十話 見てるからね
マナカの父は、彼女が十七歳の時に首を吊って死んだ。
きっかけは、漫画の中の些細な描写だった。
ヒロインに男性経験があるかないか、という点で、あることを仄めかすような描写が入ったことが、一部の読者に強烈な批判を浴びたのだ。
マナカの父としては、そのヒロインは神様が転生した存在で単なる人間ではないので、そうした尺度で見るものではないというつもりの描写だった。
だがそんなことを弁明する暇もなく、その部分以外にも様々な点で批判が飛び交うようになった。
この人物の性格が悪い、この台詞が差別的だ、この展開にセンスがない、つまらない、不愉快だ。
そうした罵詈雑言が、漫画のみではなく作者の人格に対してまで、批評という言葉を借りていくらでも出てきた。
もしかしたら、それを発しているのは一部の人だったかもしれないけれど、そうした人々の言葉を見て、マナカの父の漫画には非難をぶつけてもいいのだという雰囲気が醸成された。
マナカも一度、そういった言葉が飛び交う掲示板などを見てしまったことがあったが、そこには人の悪意の粋を集めたかのような酷い言葉が、さも賢しげに数々並んでいた。
中立と平静を装った知恵者気取りたちが、画面の向こうに人間がいることを忘れ、滔々と悪意と否定を出しゃばらせている。その様に、マナカは目眩を覚えるばかりだった。
自分が描いた訳ではないマナカが見ても心臓の動悸が治まらなくなったのだから、元来ナイーブな性格の父本人の心境など、計り知れたものではないだろう。
けれど、世間の人々の悪意は、マナカの父をどれだけ追い詰めても、貶めても、侮辱しても止まることはなかった。
単に炎上しただけなら時間が解決しただろう。
しかし、一部の人間が徒党を組んで嫌がらせを行うようになった。
事務所には千々に刻まれた単行本が送られ、ヒロインが男と行為に及ぶイラストが届いた。
過去の投稿から住所まで割り出され、直接そうしたものや、他にも何かの死骸などを沢山詰めた段ボールが届いたこともあった。
そうしてついに、マナカの父は、ある日限界を迎えて首を吊ってしまった。
その出来事はニュースにもなり連日報道され、心ない炎上により作家の命が絶たれた、作品が続かなくなってしまったと論争が巻き起こった。
だが、そんな話を今更されても、マナカにとっては後の祭りでしかない。
そして、それはマナカ以上に、マナカの母にとってそうだった。
マナカの父を、自分の夫を愛していたマナカの母は、父が亡くなってから壊れてしまった。
心を病み、仕事も行けなくなり、日常生活もままならなくなった。
説得して病院へ連れていき、病名を診断された時の母の顔は、マナカの脳内に焼き付いてしまっている。
経営していた美容院も当然退き、マナカも、そこで美容師になるための勉強はできなくなった。
食事も、風呂すらも放っておけばまともに出来ずに、目を離すと薬を過剰摂取したり、手首を刃物で切ってしまったりと、母の介助で学校も休みがちになった。
それでも、四六時中付きっきりというわけにはいかなかった。
マナカが買い物に出ている隙に、彼女の母は、愛した夫を追って首を吊ってしまった。
たった一人、マナカを置いて。
父が亡くなった時、見つけたのは母だった。
そしてわざわざ父と同じ部屋でぶら下がっている母を見つけた時、マナカは思った。
こんなものを見せられては、確かに心も病んでしまうだろうと。
親戚を頼って葬式や手続きを済ませ、ようやく落ち着いた時、自分の生活に平穏が戻ったことを知った。
誹謗中傷に悩む父も、心を病んだ母も、もういないのだ。
それを知った時、わずかな安堵があったことに、彼女は自らを嫌悪することとなった。
一人には広すぎる家で眠ると、時々ぶら下がった母の姿を夢に見る。
ゆらゆらと揺れる格好の母が、不意にこちらをじろりと睨み付けるところで目を覚ますのだ。
心臓がばくばくと跳ね回り、僅かに息を切らして眺める寝室には、彼女の発する音以外は響いては来なかった。
親戚の勧めで、家を引き払った。
大事な思い出も沢山あったし、遺産としての扱いとやらにひと悶着もあった。
だが、母が遺産はすべてマナカに渡るよう遺書を残しており、反対する親族の中で唯一、疎遠だった父方の叔父が協力してくれたことで事なきを得た。
そうして、暮らしには当分困らないだけの金額が彼女のもとに入ることとなる。
しかし、それを使って何かするわけでもない。学校にも行かなくなって久しく、既に退学している。
最初は心配してくれていた友人たちも、介護で忙しく学校にも来ないマナカのことは、少しずつ忘れていってしまったようだった。
マナカ自身も、ぼうっと家の中で過ごすことが増えた。
自分も心を病んでしまったのだと、一度病院へ足を運んだが、単に燃え付き症候群のようなものだろうと言われてしまった。
それを聞いて自分は、母のように優しくはないのかと、両親を愛していなかったのかと、どうにも悲しくなったが、だからと言って涙も出なかった。
試験を受け、元同級生たちより一足早く高校の卒業資格を得たものの、元々行きたかった美容や漫画の専門学校も、興味を失っていた。
そんな毎日が、一年以上続いた。
春が過ぎ、夏が過ぎ、秋も冬も越えて、もう一度春を過ごした。
友人たちは皆、春風の吹くなか卒業の寂しさを分かち合い、新しい生活に胸を躍らせているであろう最中に、彼女は呆然と日々を過ごしていた。
時折、父の残したプロットに沿って漫画を描いていたら、訪ねてきた編集部がそれを出版したいと言ってきたのを断ったりという事もあった。
これ以上父の漫画を非難の対象にしたくもなければ、父を殺した人々に、父の描きたかったはずの結末を教えてやりたくもなかった。
両親を失くしてからの彼女の毎日は、ひたすら灰色で、閉めきったカーテンから差し込む光さえも煩わしい、そういう毎日だった。
そしてある日、彼女は突然、光輝く魔法陣に囲まれる。
それが、彼女が今まで地球で過ごしてきた記憶の全部だ。
そんな彼女にとって、彼の姿は衝撃的だった。
何故か、父の漫画に出てきたような、孤高の英雄に重なったのだ。
自分よりも力の強いものを、技の冴えと度胸で打ち倒して見せる。
そんな鮮烈なまでの強さに、彼女の心には小さな憧れが灯った。
しかし、そんな強さで覆い隠された彼の弱さの方が、本当は心に突き刺さったのかもしれない。
自分が救えなかった両親のように、本当は心が弱ってしまっている部分が、彼女にとって見ていられなかったのだ。
あれだけの強さを持っているのだから、強くあってほしかった。
それが同時に、優しさなのだとしても。
危うさの中に立つ彼のことを、いつの間にか考え続けていた。
実際に、二人だけで話してみると、彼は優しかった。
不器用だけれど、こちらのことを慮るのが見えて、助けてくれた時だって、まず真っ先に身を案じてくれた。
なのに、皆の前では斜に構えて敵を作って、なんて勿体ないんだろうと、歯がゆかった。
だから、彼を励ますと決めたのだ。
前を向いて、周りを見てと言いたかったのだ。
◇
泥の王に向かって、キズナが飛び出した刹那、彼の身体が何かに巻き取られて勢いを失う。
「ぐっ!?」
彼は一瞬、泥の王の触手が自分の身体を巻き取ったのだと考えたが、彼の身体を巻き取ったのは縄であった。
太くしなやかで、自分の身体を傷つけないように、まるで意思を持つかのようにコントロールされた縄だ。
泥の王は自らから離れて行くキズナを追って、回復させた触手を繰り出してくる。
だが、リィナの杖がそれを打ち払い、キズナの身体はある人物の足元に滑り込んで止まる。
「キズナくん、早く足を治して!」
彼の身体を巻き取り引き戻したのは、マナカだ。
キズナは思い出した、彼女の持つ槍は本来槍ではなく、自在棍フルドラという名の、何にでも姿を変えられる魔法武器なのだという。
槍の穂先を地面へ突き刺して固定し、柄の部分の半ばから縄に変化させてキズナを止めたのであった。
彼女は襲いくるスライムの群れを、両足を折って動けないキズナを庇いながら槍の炎で焼き払う。
「マナカ、くそ、なんで止めた!?」
「だってキズナくん、死ぬつもりだったでしょ!?」
「これ以上の犠牲が俺一人か、お前ら六人かなら俺が一人の方がいいに決まってるだろ! なんで止めたんだよ!!」
「そんなの……そんなの、死んで欲しくないからだよ!」
「だからなんでだよ!!」
死んで欲しくない、それだけが理由なら、彼女にとって自分の友人たちだって同じな筈だ。
むしろそちらの方が優先されるべきだろう。
だというのに、何故自分が死のうとすることは許さないのか。
キズナは混乱する頭でいながら、両足に対して再生魔法を行使しようとする。
「な……くそ、どうして治らねえ……!?」
彼の持つ再生魔法は、たとえ両足が折れても、それどころか足首程度なら欠損したとしても、相応の魔力を使えば再生を行うことが出来る。
だが、少し集中すれば治せる筈の両足は、どれだけ魔力を込めても治る気配がなかった。
理由は、彼が先程行使しようとした自決弾頭にある。
彼は自らの持つ魔力の全てを一度に扱った経験がない、それを自決弾頭を発動するために全ての魔力を総動員しようとしたのだ。
それは、今まで使ったことのない回路に急激に過大な電力を流したのと同じであり、彼の魔力経路がショートしてしまうのは当然と言えた。
「マナカ、おい、俺のことなんていいから早く下がれ!」
「いいわけないでしょ、馬鹿言わないでよ!」
何故、彼女は、彼女たちは自分のためにこうも力を尽くそうとしてしまうのか、彼には分からなかった。
自分にとって、自分が何より忌むべきだと考えている自分という人間を、何故こうも助けようとしてくれるのか。
だがマナカはキズナのそんな胸中には目もくれず、スライムの群れをひたすら撃退する。
リィナの杖も総動員で殲滅に力を貸すが、彼女たちに群がるスライムの数は百を越えようとしていた。
そして更に、そのスライムたちの中に、黒い色をした強個体まで混じり始める。
たったの数体ずつですら、キズナを含む候補生全員で苦戦した黒個体だ。
それが、その数を数十体にまで増やして、マナカたちに襲いかかってきた。
それでも、マナカはそれらを焼き払い続ける。
とっくに限界を迎えていた筈の彼女の魔力は、ここに来て急速に膨れ上がってきていた。
勇者候補生たちが異世界に来て三ヶ月、その間に、最も強くなったと言える人物は誰か。
莫大な魔力を手にしたキズナは、そもそも自身一人での戦闘技術においては地球にいる時点でほぼ完成していた。
魔力を手にして、その強度は飛躍的に高まったが、戦うという行為について本質的には成長してはいない。
リュウヤについても同じだ、魔力を手にしたことで肉体の強度は高くなったが、彼は魔法については全くの無頓着であった。
キズナと違いいくつかの適正はあるものの、肉弾戦にこだわる彼は魔法の技術は磨いていなかった。
それで言えば、ラクは最も成長したと言えるだろう。
そもそも運動行為自体が殆ど行えない障害を持っていた彼は、戦闘技術というものどころか身体の動かし方ですら、凄まじい成長を見せている。
魔法に関しても、治癒系統を主として、複数の適正があり、四腕を用いた武器の扱いとともに習熟を日々見せていた。
なら、候補生たちの中で最も成長したのはラクであるか。
確かにそうだったのだろう、このダンジョンで、泥の王と遭遇するまでは。
マナカは、襲いくる黒個体を、キズナですら最初は苦戦して、一体ずつを倒していくのが精一杯だったそれらを、まるで全てを見通しているかのごとく次々と焼き払っていく。
彼女は今、キズナですら上回るほどの戦いを見せていた。
彼女は、彼のことを誰よりよく見ていた。
身体の動かし方、武器の扱い方、敵の動きの読み方、その全てを自分のものにするかの如く。
そして、キズナ以上に視野を広く全体を見ることに長けていた彼女は、彼に及ばない戦闘力でも巧みに候補生たちに指示を出し、後方の戦線維持に誰よりも貢献していた。
そうして今、研ぎ澄まされた感覚は彼女の裡に眠る魔力を呼び起こし、究極的な状況下でリィナにすら迫るほどの魔力を持ち始めたのだ。
強い魔法は、強い魔力を喚起する。
いつだったか、リィナがキズナに話した魔力の法則。
彼女の放つ紫の炎は、彼女が持っている願阿魔法の先触れだった。
父の描いた漫画の中の主人公が使った、槍から放つ紫の炎、その憧れの結晶。
「もう、これ以上、私の前で絶望に命を投げ出す人間を見過ごすことなんて出来ない!」
リィナの杖ですら処理の追い付かない黒個体を、マナカは数えきれないほどに倒していく。
そんな最中もキズナはどうにか、自分の足を再生しようと苦心していた。
自分が足を治せば、彼女はこの場から離れることが出来る、少なくとも共に戦って負担を減らせる。
その一心で、どうにか、一刻も早く治ってくれと全神経を両足に集中した。
一念が通じたのか、ようやく彼の足が再生を始める。
そして、その刹那、彼の視界に黄金色の物体が映る。
それは、ほんの一瞬の間にマナカの武器を跳ね上げ、彼女の胴体を触手で貫いた。
「マナカ!!」
両足を治したキズナが立ち上がり、身体の中心を貫かれたマナカを抱えてどうにかスライムの群れから後方へと飛び出す。
金色のスライムはリィナの杖が二十本がかりで囲み、どうにか捉えられ魔法により消し飛ばされた。
泥の王はマナカが致命傷を負ったことを確認したが故か、それ以上配下を送りつけることを止め、候補生にも襲いかかってきていたスライムたちもリィナの杖によって殲滅される。
キズナはマナカを連れて後退し、土壁の後ろ、他の面々がいる場所へと滑り込む。
「マナカ、おい、マナカ!」
胴体を貫かれた彼女は、キズナの腕の中で、傷口の風穴と、口元から夥しい量の血を溢していた。
呼吸は絶え絶えで、次第に弱々しくなっていく、命が溢れるのが目に見える。
「リィナ、おい、早く治してくれ!」
リィナは返答はせず、しかし全力を用いて彼女の出血を止めようと治癒魔法を行使する。
しかし、その引き結んだ口元と、きつく細められた表情は、それが及ばない行動であることを暗に示していた。
マナカが、自らに跪いて差し出されるリィナの両手を制して止める。
「リィナちゃん、いいの……ダメ、だと思う。壊れちゃいけないところが壊れたの、分かるの」
「やめろ、そんな、そんなこと言うなよ……!」
キズナは、自分でも気付かずにマナカの肩に回している手に力を込めて食い込ませる。
本来なら痛みを訴える筈のその行為すらも、マナカの命を繋ぎ止めるには至らない。
マナカが、キズナの顔を見つめた。
キズナは、自らの荒くなっている呼吸を必死に鎮め、焦燥のなかで彼女の顔を見つめ返した。
「キズ、な……くん」
マナカはキズナの腕の中で、弱々しくも穏やかに笑う。
それがまるで、彼女がいつもそうしていたのをなぞるようで、キズナは歯を食い縛った。
「髪の、お手入れ……ちゃんと、やってね」
マナカはキズナの髪に手を絡ませ、弄ぶ。
それはそのまま彼の頬に添えられ、キズナはその掌の熱を感じ取ろうとするかのように、左手でその手を自らの頬に押し付ける。
「自分を……好きに、なること。もっと、分かりやすく、人に……優しくすること。素直になること────」
ひとつひとつ、諭すように大事に口にしながら、彼女は彼の顔を自らに寄せた。
唇が重なり、離れる。
マナカはそれまで彼に見せたなかで、出来る限り一番の笑顔で、嬉しそうに笑った。
「あなたの事が……好きな人がいるって…………忘れ、ないこと」
堪えきれず顔を歪めて涙を流すキズナに、マナカは、最後の力を振り絞って伝えた。
自分の想いを、その本懐を。
「大好き、でした。見てる……からね……」
弱々しく掠れて行く声で、彼女は笑って、そう言った。
こうしてスザキマナカは、その命を落とした。




