第十七話 月下の語らい
「やあキズナ、きたね」
柔らかな風が吹く夜の丘、月と星の光を背負うようなその場所で、ラクは穏やかな笑顔でキズナを振り返った。
「見てよ、月がまん丸、綺麗だよ」
「お前な、それ男同士でやってもしょうがないだろ」
「ふふ、違う違う、漱石とかじゃないって」
ラクはおかしそうに笑っていた。
彼のこうした表情を見るのは久しぶりだったので、キズナは思わず安心してしまう。
「不思議だよね、この国には日本と同じで街灯もあるのに、星の光は向こうの世界よりずっと入るんだから」
「言われてみればそうだな。こっちの夜がそんなに暗く感じないのはそれか」
夜を暗く感じない、そんな風に口にして彼は、ふとその意味を考えてしまった。
それをまるで見透かしたかのように、ラクの方が彼の目を見る。
「多分それは、キズナにとっての夜の意味が変わったのもあるんじゃないかい……今日はそれを聞きにきたんだから」
ラクが手招きをして、キズナは誘われた通りに彼のとなりに座る。
夜露に濡れた草原は瑞々しく、その感触に不快を感じさせない。
ラクとキズナは、二人で並んで月を見上げた。
「なにから、話せばいいのか」
キズナは、少しだけ難しい顔をしてから、ぽつぽつと語り出した。
それは、彼がこちらの世界にくる前の、壮絶で、苦痛に満ちた毎日のダイジェストだ。
キズナは、あまり詳細には語ることもなかったが、それでも真摯に語る。
ラクはそれを、時に目を見張って、時に悲しげに、黙ってただ聞いていた。
そして、キズナが一通り語り終えたのち、こんな一言を発した。
「そっか、頑張ったね」
簡潔に、ただそれだけの一言。
気を遣うのでもなく、同情するのでもなく、たったそれだけの一言だった。
「はは、あっさりしてるな」
「うん、頑張ったなって、それが全部だもん」
「頑張ったつもりもないんだけどな、ただ生きるのに必死だった」
「ぼくも、それは同じだよ」
ラクはそれまでの体育座りのような姿勢から後ろへ倒れ込み、草原に寝転ぶ。
キズナもそれにならって、あぐらをかいた姿勢から後ろに手をつき、ぼんやりと月を見上げた。
暗い空に浮かぶ月光は優しく、どこか切なく、ありもしない郷愁を呼び起こす。
薄雲のかかった先からさえ、月の光は淡く届く。
その優しさに、彼は胸の内側をじんわりと温かく感じて、同時に冷たさも湛えた。
「ぼくはね、ずっと、病院のベッドの上だった」
今度は、ラクが自分のことを語り始める。
キズナは月を見上げた姿勢のまま、彼の声に耳を傾けた。
「この世界にくるまで、ある年の頃から自分の足で歩いたことは殆どなかったんだ。ずっと、病院のベッドの上で、時によっては呼吸すら自分で出来ずに、機械に痰を吸い取ってもらわなければ窒息してしまうような病気だった」
空は暗く、けれども星は輝いている。
空っぽの世界を包み込むように、天上の星は空一杯に散りばめられている。
自分たちには届かないそれを思うと、どこか空虚で、それでもやっぱり、彼は見上げていたかった。
「君とぼくとで、正反対だね。君は、生き残るためにあらゆる可能性を模索しなければ、動き続けなければいけなかった。ぼくは、何も出来ずに決まりきった毎日を繰り返して、ひとつの可能性も求めずに延命を図るしかなかった」
キズナは、言ってしまえば自分よりも不幸な人間など、そうは居ないんじゃないかと考えていた。
考えないようにしていながらも、どうしたって考えていた。
事実それも否定はできないだろう。
彼のような壮絶な人生を歩んでいる人間などあまり多くはいない。
普通の人生を歩んでいる誰かのことが、羨ましくてたまらないなんてことは、彼だって当然に考えていた。
けれど、彼にだって分かっている。
別のある人物の視点で見れば、自分の人生にだって羨むべき点があることを。
別段、不可思議な呪いなどなくとも、辛い境遇にいる人間など世界には数えきれないのだから。
「こっちにきて、まず驚いたのは自分の身体のことさ。どこも曲がってない、ちゃんと動くんだよ。呼吸が苦しくない、普通に息が吸えて、普通に動くんだ」
召喚者は、元の世界での病や怪我を召喚された瞬間に治していることがあるという。
魔力によって身体が再構成された際に、その魔力に適合した身体に変化していることがあるというのだ。
彼の場合も、きっとそうなのだろうと、キズナはぼんやり考える。
「それがどれだけ、望み続けて、願い続けたことなのかを、真に理解できる他者はいないと思う。だから、それが叶った瞬間、ぼくは誰より幸福だと思ったんだよ」
キズナは、何も言わなかった。
言えなかったのではない、言わなかった。
彼にとって何より欲したその権利は、自分にとっては当たり前で、むしろ人より余程優れてすらいたのだから。
そこでなにかを言えるほど、彼は傲慢ではなかった。
「キズナは、誰かを恨んだことはあるかい?」
「唐突だな。恨みか…………どうだろうな」
ラクは、ふと力の抜けたように微笑む。
そして、うつむきがちに言った。
「ぼくはね、あるよ。むしろ人よりあったかもしれない」
ラクの言葉に、キズナは思わず少しだけ目を見張る。
「意外……って言ったら悪いか?」
「ううん、そんなことないけど。でも、確かにそう思われるかもね。何も考えてなさそうに見えるだろうしさ」
「そんなことは言ってねえよ」
ラクは、超がつくほどのお人好しだ。
それがキズナにとっての彼への印象で、覆ることのないと思う彼の善性への信頼だった。
「苦しみや、望みのない状況に置かれ続けて、誰一人をも妬まず、恨まずにいられる人間なんて、殆ど存在しないよ。けれどね、だからこそ分かるんだ…………誰だって、何かのきっかけでそうなりうるってことをさ」
キズナはその殆どに含まれない例外こそ彼のような人物だと、そう思っていたが、しかし彼が言いたいだろうことを、キズナは察した。
ラクは言葉を続ける。
「だからね、ぼくは……ぼくをいじめて楽しんでいた彼らだったとしても、だからといって死んでいいとは思えなかった…………ほかならないキズナに、それを選択してほしくなかった」
ラクの言っていることは、それこそ到底、簡単に言えることではない。
悪意に粘着して自分を苛む人間など、許せる人間の方がずっとずっと少ない。
それこそ、殆ど存在しないだろう。
「俺は……あいつらの事を許せなかった」
キズナにとって、この言葉は例えようがなく真実だ。
自分の友人の顔が歪む様を眺めて楽しむために、嫌がらせを行い、暴力まで振るった彼らを、許すことは彼には出来なかった。
「けれど、あいつらを見捨てた日からさ……もう、ずーーっと飯が不味いんだよな」
ラクは、彼の言葉に少し驚いて見せ、そして少し笑ってしまう。
「飯が不味い、か。キズナらしいね」
つられてキズナもわずかに笑いがこぼれてしまって、けれど、遠くの村落の景色を見ながら、ひとりごちるかのように言った。
「許すってことは、簡単じゃない。ましてや、許される側にそのつもりがなければ尚更だ、フェアじゃないしな。けどそれは、許す側にもそのつもりがなければ成立しない。贖罪と許しはセットなんだよ、やつらにもその機会があるべきだった」
それが、キズナの出した結論だった。
悩みに悩んで、自分に出した答えだった。
ラクはそれを聞いて、憑き物が落ちたかのように、ふと笑った。
「彼らが謝ったからって、ぼくが許すとは限らなかったけどね」
「はは、それはそれでいいんじゃないか? 別に聖人になるべきって話じゃないし」
ラクとキズナは笑いあって、もう一度月を見上げる。
「リュウヤくんは、許してくれたのかい?」
「ああ、あいつは……多分な。すごいやつだよ」
事故とはいえ、実の兄の命を奪われ、それを許すことが出来るだろうか。
自分にはそんなこと出来ないのではないかと、キズナは素直にリュウヤへ尊敬の念を持つ。
乱暴な男だが、彼には彼なりの義や筋があった。
「ともかくキズナも、リィナちゃんのおかげでその呪いは解けたんだろう? そしてぼくも、普通に動けて、むしろ人より強くすらある身体も手に入れた。だからぼくらがやるべきはさ、手にした幸運の分だけ、人を助けていくことなんだ」
「お前は……お前も、すごいな」
思わず笑ってしまいながら、キズナはラクにも称賛を述べた。
自分は、呪いが解けた、魔法による弊害がなくなったことに対して、ただ燃え尽きたようにぼんやりと過ごすばかりだったのにと、彼はラクの考え方にある種の衝撃すら感じる。
「だからぼくも、次にああした機会があったなら、迷わず助ける方を選ぶ。そのためにもっと強くなる」
「そうか、頑張れよ」
「何言ってるんだい、君もそうするんだよ、当たり前だろ?」
ラクは、キズナに拳を突き出してみせる。
キズナは一瞬なにかと思ったが、すぐにその意味を理解する。
「しょうがねえな」
拳をあわせて、笑いあう。
自分たちの行く末を、ここで誓い合うように。




