第二十一話 無有極苦
森の中には、凄まじい戦闘の痕跡が残されていた。
百をゆうに越える数の木々がなぎ倒され、地面に出来たクレーターや裂け目の数はその比ではない。
無惨にも砕け散った樹木が生木のまま散らばっており、破壊の爪痕はそれがどれだけ尋常ではないかを示している。
キズナがダインの背中で焦りを募らせていた間も、離れたところから爆発や破裂音が鳴り響いていた。
そんな夜を越えて発見されたリィナは、全身に切り傷を負って、命の危険を持った状態だった。
それを見つけた時のキズナの内心の慟哭は、例え誰であろうと想像しきるのは難しいだろう。
「言ったでしょ、心配いらないって」
だが、リィナは今、彼の前で平然とそう話している。
待機していたコリンの治療を受けて、どうにか命を繋いで、今はキズナの前でベッドに起き上がっている。
「あの怪物が日の光に溶けて消えたから、疲れて眠ってただけよ。大袈裟に騒ぎすぎなんだから」
そんな言葉は当然彼には信じがたい。
見つかった時の彼女は、いつその命を失ってもおかしくない状態で、それは治療にあたったコリンの焦りようを見ても明らかだった。
「……あの怪物、予想より早く出現したのもあるけど、既に持っている魔力の総量は私を越えてたわ。だから今回は小細工なしで力で押してきた」
キズナは、最早一言も発することが出来なかった。
自分のせいで傷ついた彼女に、どういった声をかければ良いのか、分からなかったからだ。
「……先生との約束は今日だったわね。もう少し休めば動けるから、準備しておいて」
「あ、ああ……分かった」
キズナはその言葉だけをどうにか吐き出して、部屋をあとにする。
後ろ髪を引かれるように一度だけ振り返って、しかし何事を言うわけでもなく、唇を噛みながらうつむいてから。
彼の出ていったあと、リィナはベッドに寝直すと、天井を見上げながら深呼吸をする。
「……私がもっと強ければ。……なんて、あいつもそう思ってるのでしょうけど」
布団の端を掴み、顔の辺りまで埋まる。
ともかく、今は体力を戻さなければならない、少しでも無事な姿で安心させるために。
◇
「話は聞いとる、最早猶予はなさそうじゃの」
キズナたち二人がゲオルクの元へやって来ると、ドアを開けたゲオルクが開口一番にそう口にした。
奇人はそのまま地面に杖を振るって、実験室への入り口を開ける。
「急ごしらえじゃが準備は滞りなく済んどるよ、あの大犬の話もまあわしの見立てと離れとらん」
三人が地下へ降り部屋に入ると、そこは前に訪れた時より少しばかり散らかっていた。
ゲオルクは布の上に並べられた注射器のうちひとつを取ると、キズナに腕をまくるようジェスチャーをして、その腕に注射器を刺す。
「これから……なにをするんだ」
キズナは、恐る恐るといった様子でゲオルクに問う。しかし、その視線は奇人に向けられてもいない。
ゲオルクはその様子を長い髭をさすりながら眺め、厳かに声を発した。
「お主には、一度死んでもらう」
「……は?」
突然何を言われたのか分からなかったキズナに対し、ゲオルクは無言で杖をかざし、なにかを指し示す。
その杖で示された先にあったものは、一つの人形だった。
「なんだ……これ。俺か……?」
人形は、キズナとそっくりの見た目をしている。生気を感じない硬質な肌だが、手足の長さやその顔貌まで寸分違わぬものだった。
どこを見ているか分からない虚ろな眼球が不気味さを醸し出しており、キズナはまるで自分の死体でも眺めている気分になり寒気が走った。
「これは、お主の身体の情報を読み取り作成した、お主と全く同じ形をした依り代じゃ。今からこの人形にお主の魂を一時的に移す」
「な、なんでそんな真似を」
「お主の身体には一度死を迎えて貰うからじゃよ。そうすれば、その身体を奪いたがる怨霊は空になった身体に乗り移るじゃろう。そうして蘇生された身体に、お主の魂を戻し入れる」
ゲオルクの語る荒唐無稽すぎる内容にキズナは狼狽する。そんなことが可能なのかどうかも分からなければ、その手段に問題がないのかも分からない。
「魂って、本当にそんなこと出来るのか……? 失敗したらどうなるんだよ」
「まあ、普通にそのまま死ぬじゃろうて。無論失敗などせんつもりじゃがの」
「んな……無茶苦茶すぎる」
あっけらかんと言ってのけるゲオルクに、キズナは思わず言葉を失う。自分の生き死にをこうも簡単に扱われれば、さしものキズナも唖然とするのは当然と言えた。
「肉体に結び付いた魂を切り離し移動させる術式。これはわしの生涯で最も偉大な功績のひとつじゃからな、そこまで心配することもない。それよりも、お主はその後のことを考えなさい」
「その後って……」
ゲオルクの語るその後とはつまり、肉体に戻された魂がどうなるかということだ。
奇人の言葉通りになるなら、身体には侵入した怨霊と自分の魂の二つが同時に存在することとなる。
「つまり……主導権争いか」
キズナの言葉にゲオルクが頷く。
怨霊と自分とで、一つの身体を奪い合うことが、この儀式の目的なのだろう。
「並大抵の事ではない。成否はお主の気の持ちよう、わしからすれば殆ど博打じゃの。そう思えばあまり気は進まんが、他に方法もなければ仕方あるまい」
「……そう、だな。やるしかないってんなら、そうする。それだけだろ」
ゲオルクはその言葉を聞き、珍しく神妙な顔をする。
先ほどから、キズナの傍らで二人の会話を聞いているリィナは、それまで何事かを考えながらも会話に入っては来なかった。
しかし、何か意を決したように、一つ深呼吸をしてキズナに向き直る。
「大丈夫、わたしがついてるから」
「あ、ああ……」
リィナはキズナを安心させるようなことを言うが、彼はその言葉にも少し頬を固くして僅かに目を見張ったのち、俯きがちに返事をするのみだ。
「人形にはお主から採血した血液を流してはいるが、それ以外はただの人形でしかない。そこに魂を定着させるわけにはいかんからの。少しばかりきついと思うが、耐えることじゃよ」
「……耐える? きついのはその後なんだろ」
「それもそうじゃが、そこであまり揺さぶられてはそれこそその後に影響しかねん。心構えをしておきなさい」
ゲオルクの言うことはキズナには今一つ理解が及ばず、一応心に留めておく程度に覚えておく。
「それでは、準備が出来れば始めるぞい。……何か言っておく事はあるかの?」
「……? 別に、ないよ。ともかく気張ってみるさ」
やはりキズナにはゲオルクの言葉の意図するところは分からず、適当に返事をする。
その、まるで遺言でも求めるような口振りに、気がつかないふりをして。
「では始めるぞい。気を強く持って、自己という存在を強く認識するんじゃ」
キズナが連れられてきているのは、地下研究所の奥にある何もない部屋だ。無機質な壁と天井だけで、それ以外の唯一は隣の部屋から観察するための窓のみという部屋。
キズナはその広い部屋の中央、床に描かれた魔法陣の中心に寝かされ、側に立つゲオルクが杖を持ってそれを見下ろしている。
「魂は肉体に付随するのではなく、それそのものがひとつの形を持っている。そのことを強くイメージしなさい」
ゲオルクはキズナにそう言ったのち、何事かをぶつぶつと念じ始める。
するとキズナの置かれた魔法陣が淡く光を放ち始め、わずかに熱を帯びていく。
彼は心を落ち着かせて、言われた通りに自らの魂と呼ぶべきものを探り始めた。
「わしには似合わぬ言葉じゃがの」
キズナは、ぼんやりとし始めた意識の中で、ゲオルクのひとりごちるような言葉を聞く。
「幸運を祈っとるよ」
そうして、彼の意識は闇に落ちた。
闇だ、そうとしか言いようがなかった。
何も見えない、それどころか、何も聞こえない。
否、それすらもまだ彼の感覚を言い表すには足りないだろう。
何しろ今、彼には何一つの感覚すらも、すべてが残されていなかった。或いは、用意されていなかったのだ。
視覚も、聴覚も、嗅覚も、味覚も、触覚も、五感のすべてが遮断されている。
何も見えない、目蓋の裏ですら思い返せば明るいと思う。
何も聞こえない、自身の呼吸や脈動さえ今の静けさと比べれば賑やかしい。
呼吸がなければ、当然匂いも分からず、舌に乗った唾液さえも感じない。
そして、手足のどこにも、地面にも空気すらにも、触れていることを感じない。
上下左右、前後の感覚もすべてが立ち消え、一次元的な点の概念でのみ自分を認識している。
つまり、全てが無であった。
なにも、なにひとつを感じないのに、自分という意識だけがそこにあり続けている。
世界に変化がなく、自身に変化がなく、情報に変化がない。
それは、魂というものがそこにあるには、到底耐えることが出来ない苦痛だった。
現実世界に存在し生きている人間が、仮にどれほど意識を無にしようとも、そこには外界からもたらされる変化がある、情報がある。
空気の冷たさも、暑さも、自らの呼吸も、地面に触れている部位にかかる重ささえも、そこには常に情報が存在しているはずなのだ。
今の彼には、それがなかった。
何しろ、用意された人形には、ゲオルクの言う通り感覚器官と呼ぶべきものが一つたりとも搭載されていなかったのだから。
それは、ただただ恐ろしく、自己というものを見失う感覚だった。
当然だ、世界とは即ち己の鏡であり、自己を認識する術とは、ほかのすべてとを比較することなのだから。
気がおかしくなる思いだった。しかし、そうであってもそれを表現する術がない。
喚きたくても、手足を振り乱したくても、息を荒げたくても、なにひとつが叶わなかった。
そうしてどれほどの時間が経ったのか、最早彼には分からなくなった。
どこまでいっても、無のみがここにはあり続ける。
一秒に満たないのか、それとも数千年こうしているのか、そこにどれだけの差があるのか、彼にはもう分からなかった。
しかし、そんな彼の世界にようやく変化が訪れる。
自分という点が、何かに向けて強烈に引っ張られる感覚が生まれたのだ。
もはやいつぶりかも分からない情報の変化に、彼の魂は歓喜に震える。
この感覚を永遠に忘れたくない、ずっと感じていたいとさえ思うほどの、虚しさからの脱却への喜び。
しかし、それは彼の苦痛の始まりでしかなかった。
目の前に、何かがいる。
それは、決まった形を持たず、うねうねと次々輪郭を変えながら、喜びの感情を表している。
「ハイレタ、ハイレタ、ハイレタ、ハイレタ、ハイレタ!」
何かがこちらを認識した、キズナは瞬間的に、それをマズイと悟った。
「モウオレノダ! クルナ!!」
魂がそれに引き寄せられ、そしてぶつかり、混ざり入った。
「──はぁッ! ……ハァ、ハア…………う────ぐぅッ!?」
絶対的な空虚から世界に戻ってきた時、訪れたのは凄絶なまでの苦痛だ。
甦った視界や音の情報に喜ぶ刹那もなく、身体にもたらされる凄まじい苦痛が彼の魂を襲った。
全身に、虚脱感がある。力を入れたくても入らない、身体の中身がすっぽりと抜けたような感覚。
そして、それを感じたあとすぐさま訪れたのは、今までに経験したことのないほどの全身に至る痛みだった。
身体中を貫かれ続けるような激痛が走りながら、数千匹の虫がその内側を這い回っているかのような不快感に、全霊で拒否反応を起こす。
「あ……ぐっ、あが、あああああああっ……がああああああああ!!」
痛い、苦しい、辛い、苦しい、どこをどう動かしても、呼吸や瞬きひとつすらも苦痛に繋がってゆく。
さらに追い討ちをかけるように、どうしようもなく心臓が重いような、悲しみと呼ぶのも軽々しいような、心の衰弱が襲ってくる。
泣きたくなるほどの情けなさが、凄絶な痛みへの耐性を徹底的に損なわせた。
「ああああ……!! ぐうぅ! 痛い、嫌だ、痛い痛い痛い痛い痛い痛いいたい! ぐううううぅぅ!!」
身も心も、全てが苦痛に侵され、どんな体勢を取ろうとも、声を振り絞っても手足を振り乱しても、頭をどれだけ床に打ちつけようとも、何も紛れない、逃げられない。
そうして彼の魂は、敗北を喫したのだった。




