第十四話 影鬼
夜の森の中、キズナは一心不乱に走っていた。
「くそっ……失敗したな」
呼吸を整える間が欲しいが、それ以上に一度安全な立ち位置を確保しなければいけない。
もし一度足を止めた瞬間に襲われたなら、対応に一呼吸遅れ、それが致命的になるかもしれなかった。
だから、走りながら相手の気配を探り、絶対に攻撃されないと確信出来るポジションを取らなければ休むことはできなかった。
「あいつの方は……いや、向こうからは俺が見えている筈だったか」
つくづく便利な能力で、羨ましいことこの上ないものだった。この夜の森での鬼ごっこでは特にそうだと言える。
異形の影となった怪物の姿を捉えるのに、自分がどれほど苦労しているかを思えば。
しかし、キズナはそこである変化に気がつく。
「……気配が、消えた?」
キズナは、先ほどまで決して止めてはいけないと思っていた足を止めた。
なぜなら、それまで自身の周囲に付きまとっていた怪物の気配が全く消えたからだ。
怪物自体が消えた訳ではないのは察知していた。しかし、自分の周囲でその気配を探れなくなっている。
ならば、怪物は自分を追うのを止めたということだろうか。
しかし、これは間違った判断だったと、彼は後から振り返ることになる。
「…………っ!」
彼は息を飲んだ。
森の中、僅かに開かれた月明かりの入るスペース。
その少し先の方に、のっぺりとした影が立ち上がっている。
人の形をした影だ。否、人のような形をした影だった。
丸い頭は異様に大きく、手足は両の側で長さが歪であり、黒い影の輪郭は白く薄ぼやけている。
そこには、生命ならあるべき気配というものが何もない。呼吸も、脈拍も、足元の木の葉が擦れる音もひとつたりとて発しない。
だというのに、明確にそこに何かがいることだけが分かる。その矛盾に脳が痺れ、恐怖に身がすくんだ。
影は、こちらを見つめている。見つめる目などどこにあるのか分からないが、こちらに意識を向けていることだけは分かる。
キズナは蛇に睨まれた蛙のようにその場から動けず、次の手をどうするべきかが頭の中で組み上がらないことに、どうしようもなく焦りを浮かべる。
瞬間、影が動いた。
ぬるりと、まるで出来の悪い早送りのCGのように、頭と手足を振り乱しながら等速運動でキズナを目掛けてくる。その間、わずか一秒。
一瞬で距離を詰められたキズナは驚きで身体を跳ね上がらせ、もたつく足で後ろに跳んだ。
しかし、その後ろには、彼の跳躍を無意味にする巨木の幹がそびえていた。
強かに背中を打ち、息が出来なくなる衝撃で彼はパニック状態に陥る。
そして、異形の影は彼の身体に追いつき、それを我が物とせんがため、巻き上がりながらぽっかりと空いた彼の口に滑り込もうとした。
しかし────
「────しっかりして!」
瞬間的に、森の中が燃え上がる。
だが実際に燃えている訳ではない、キズナがそう感じたのは、強い光と熱を感じたからだ。
四方八方から光源が立ち上がり、森の中がその時だけ、太陽を抱いたかのように昼日中よりも明るくなる。
「キィィイイイイイイ!!」
キズナの身体から離れた影が、自らを隠す日陰を探してあちこちへ虫のように這い回る。
しかし、それが適う場所はついに見つけられず、その異形の影は次第に小さくなって、ついには消えてしまった。
「──っづ……っだはぁ!」
キズナは忘れていた呼吸を思い出して、その場にくずおれて肺を大きく起伏させて息をする。
もしも、あの影が自分の口から体内に侵入することに成功していたならどうなっていたのか、想像しようとして、やはりやめておいた。
「無事……なのよね。中身が別物だったりはしない?」
「……ああ、多分な。俺の中身は臓物とさっき食ったパイだけだよ」
「あらそう、いいことね」
こともなげに言うリィナに、キズナは内心安堵する。
どうやら彼女は、自分を餌にあの影を消滅させる算段を企て、それを見事実行したようだった。
囮にされたことに不満はないが、もう少し優しくして欲しいものだと思わないこともなかったキズナだった。
「ともかく……」
先ほどとは違う、怪物の気配が完全に消えたことを確認して、彼は胸を撫で下ろす。
「今夜は、乗り越えたってことでいいのかしら」
言葉を引き継いだリィナに、キズナはへたりこんで肩で息をしながら、頷いて見せるのだった。
◇
「見事に危なかったわね」
家にたどり着いて、真っ先に一言発したのはリィナの方だった。
キズナの方はというと、先ほどからぐったりと一言も発さずにいる。
全身に夥しい冷や汗をかきながら、とぼとぼと歩く姿は憔悴しきっており、常の憮然とした態度も鳴りを潜めていた。
「あの影に捕らわれると、身動きが出来なくなる。あなたに体当たりを受けていなければ、私の中身は今頃別物だったかもしれないと」
そう、キズナが森の中を逃げ回っていたのは、影の異形として現れた怪物を連れ回して、リィナから引き離すためだった。
彼らはこの六日目の夜、怪物を相手取るために森の中に出たはいいものの、そこを見事に分断された末の、先ほどの鬼ごっこだったということだ。
「要は……捕まればおしまいの逆影踏み鬼だったってことだな……冗談じゃない」
テーブル付きの椅子を乱雑に引いてどかりと座ったキズナは、天井を仰ぎながら片手で顔をぐったりと拭った。
「あなた、いつもあんなの相手にしてたってこと? 手を変え品を変えの異形を相手に一人で?」
「まあ、そうだな……」
リィナは、キズナとは反対側の席の椅子を引いて、ゆっくりと腰を掛ける。
その彼女の仕草も、どことなく疲れているように見えた。
「あれに捕まったとき、私ですら身じろぎひとつ出来なかった、あれは一定のルールを帯びたものよ。魔法には縛条と呼ばれる概念があるのは知ってるかしら?」
「逆に、知ってると思うか?」
キズナの疲れた声に、リィナはふるふると首を振る。
「縛条というのは、ある一定の条件を付加することで魔法の効力を底上げするもの。使用者や或いは対象にも、ルールを強制することで強い効力を発揮することが出来るもののこと」
「俺はこの疲れた状態で講釈を聞くのか」
キズナは若干げんなりした声をあげて抗議の意を示すが、リィナは取り合うことなく咳払いをして話を続ける意を示した。
「いいから聞きなさい……要はあの怪物はその化身みたいなものってこと。今回であれば、物理的な、あるいは質量的な干渉力を持たない代わりに、捕まれば動けないというルールを強制した。問題は私ですらその対象としたということ」
自らを指差して話すリィナに、キズナは怪訝な顔を向ける。疲れている彼には、話が半分程度しか入ってきていないためだった。
「つまり、あれのその日の特性によっては力でのごり押しが難しいってことよ。それで言えば、光源を配置すれば消し飛ばせた今回はごり押しした方かもしれないけれど。……思ったより厄介そうね」
「だからそう言っただろ、強けりゃいいって話じゃないって」
背もたれに深くもたれ掛かり、両足を投げ出す形で座るキズナ。話を早く切り上げたい意思が透けて見える仕草で、リィナは仕方なげにため息をつく。
「そうであればこそ、私みたく対応策を持った人間じゃないと駄目なのだけれどね。あの精神汚染も厄介よ、低位の戦士じゃ動けもしないと思う」
「そうなのか? お前は動けてるじゃんか」
確かに、今までキズナが遭遇したなかで、あの怪物と相対して動けた人間は彼以外にほぼいない。
ほぼ例外なく身を竦み上がらせ、なす術もなく取り殺されてしまうのを何度も目にしてきた。
「私は、精神干渉に人一倍抵抗があるの。高位の戦士であれば誰でも持つものとも違う、私の持つ魔法の副産物としての耐性よ」
「へえー……」
生返事をするキズナに、リィナはやはりため息をついてしまうばかりだ。
どうやら、取り憑かれる寸前まで行った彼の方は本当に疲れが限界らしかった。
「……仕方ないわね。まだ整理したい情報はあるけれど、あなたがその調子じゃ内容も入ってこないだろうし。ともかく、あんなのを一人で何年も相手にしてたなんて正気の沙汰じゃないわよ。よく今まで生き残ってきたわね」
「……まあ、毎回反則ぶら下げてくるって訳でもないしな。普通に切った張ったの殴り合いで終わる時の方が多い。それでも死にかけるのは日常茶飯事だったが。それに────」
項垂れた姿勢のキズナが、長い前髪で片目の隠れた視線でリィナを見据える。
「今は、一人でって訳でもないんだろ? 今回それが分かった。信頼するよ、お前のこと」
その言葉を聞いたリィナは、腕を組んだ姿勢のまま固まる。まるで思いもしなかった言葉を聞いたためである。
「べ、別に……協力するって言ったんだから今更……って」
彼女が珍しく調子を崩して照れ隠しを述べようとした途端に、小さく寝息が上がり始める。
「……全く、よほど消耗したのね。無理もないか」
キズナは精神疲労が限界を迎えたのか、椅子に座ったまま眠りについてしまった。
リィナは懐から小さな杖を取り出し、彼の方へ振るうと、その身体を魔法で近くのソファまで浮遊させて運んだ。
「……はあ、私も寝るか」
小さく伸びをしたのち、彼女は二階の寝室へと向かう。
その表情は、少しだけ綻んでいた。
◇
次の日、目を覚ましたキズナがまず行ったのは、日課であるトレーニングだ。
長い髪を後ろで束ね、周囲の環境を把握するためも兼ねた森の中でのランニングから始まり、腕立て伏せなどの筋力トレーニングを軍隊式で行う。
勿論キズナは軍隊などに居たことはないため、人伝に聞いたものを自己流にアレンジしているものだ。
彼の場合、身体の筋量などは既に自分にとって最適値であるものが備わっていると考えているため、筋量を増やす意味合いよりも、最適なパフォーマンスを維持するための意味合いが強い。
それから、型稽古に移る。
彼には今、ウルフェムラから支給された剣が一振与えられているため、それを用いて演舞の形で剣の重さを身体に馴染ませる。
中国剣法のような動きや、或いは西洋剣術の型など、取る姿勢は幅広い。
本来であれば、一つの流派に則って型そのものを身体に馴染ませることが型稽古の目的であるが、身体の動きというものを指先ひとつ、振った剣の一寸まで思い通り動かせる彼にとっては、これもまた動きのキレを維持するための筋量トレーニングの意味合いが強い。
それらを一時間半程度で一通り済ませ、流れる汗を服の裾で拭いながら屋内に戻るのが彼の日課だった。
「やっぱり、見事なものね。この国の戦士に比べれば動きは緩やかと言えるけれど、寸分も迷いがない」
玄関の壁に剣をかけているキズナに、廊下の壁にもたれるリィナが声をかけた。
「なんだよ、窓からでも見てたのか?」
「ええまあ、あなたが剣を振っている場所が丁度厨房から見える場所だから」
言われてキズナは、この家の間取りを思い浮かべ、彼女の言葉が事実であることに思い至る。
「場所変えるか? 鬱陶しいだろ」
「なんでよ」
言われたリィナは本気で意味が分からずの返答だったが、キズナの方も何故リィナがそんな反応を返したのかが分からない。
リィナから見てキズナの剣舞は一見に値するものだという認識だったが、キズナは自身のそれがそのように価値を見いだされるものだという意識がない。それ故のすれ違いだった。
「あなたって、変に自己評価が低いところあるわよね。さっきのそれ、お金だって取れる程度には見れるものだったと思うけれど」
「身を守るために身につけたものだ、金を稼ぐなら格闘家でもやった方が早い」
キズナの興味なさげな口振りに、リィナの方も「ふうん」と口の中で返答を返す。
「ま、ともかく朝食にしましょ。作って待っていてあげたんだから感謝しなさい」
「うげ」
思わずといった調子で声が出たキズナに、リィナが睨みを利かせて射竦める。
有無を言わさない様子にキズナは沈黙は金と悟り、両手を上げて降参の姿勢を取った。
一応王族である手前か、朝食にはいつもわざわざ中央の商店街からパンと果物が届けられる。それを単にかじるのが通例と化しつつある二人だ。
昼食は砦の上級食堂、夕食も三日前のあの時以外はそうしており、彼女の料理を口にする機会はあまり多くなく済んでいるのだが、今朝は気まぐれに腕を振るったらしい。
洗面室で汗を拭って着替えた後、若干神妙な顔を浮かべながらキズナは卓についた。
「っと……あれ、てっきりまたプレートが出てくるかと思ったら」
「何よ、朝から食事に手間をかけるタイプじゃないの、これで我慢なさい」
そう口にするリィナが出してきたのは、いつも通り届けられる朝に焼きたてのパンに加えて、野菜のスープだった。
ベーコンと根菜類がブロック状に刻まれたものに、若干のハーブが散らされている。
「お前……普通の料理も作れたのかよ」
「工夫がなくて悪かったわね、これは生前のお母様に教わったものなの、文句言わないでよ」
「まさか、お母様に愛してるって伝えておいてくれ」
「気色悪い」と渋面を作るリィナを余所目に、キズナは匙を取ってスープを口に運んだ。
「え、うま」
思わず口にしたキズナに、リィナは少しだけ顔を綻ばせる。
そのスープは塩味も風味も絶妙で、とても二日前の惨状を作り上げた人物の作ったものとは思えなかった。
「こういうのでいいんだよこういうので」
「なんか腹立つ言い方ね」
不満を表明するリィナだったが、キズナとしては紛うことなき本心からの言葉だった。
「さて、今日は他の候補生と一度合流して訓練するわよ」
食事を済ませて茶を飲みながら一服しているキズナに、リィナがさらりと告げる。
「え、いや……他のやつらと合流するのは危険だからしないんじゃなかったか?」
彼が言っているのは彼の持つ呪いの影響への懸念だ、当然リィナもそれは了解している。
「ええ、まあでも、頻繁に長時間を過ごさなければ問題はないんでしょう? なら今日一日程度なら合流しても平気だと思うわ」
「まあ……確かに。それはそうと何するんだ? あいつらって確か、今は基礎体力作りが主だったろ」
キズナの言うとおり、候補生たちの多くは今根本的な基礎体力の強化に勤しんでいるものが多い。
魔力を持ったとしても、それを扱う身体は運動能力を持っている必要があり、そのために、砦の中の訓練場をやおら走らされているというのがリィナの談であった筈だ。
「まあそれは継続してやってくけれどね、そろそろ身体に魔力が馴染んできた頃合いだから、ここで一度模擬戦を行って個々の戦闘スキルを見ようと思って。それにあなたも参加してもらうわ」
「なるほど……模擬戦ね。てか、魔力が馴染んできたって初耳だな。俺は全く今までと変わった感覚ないけど」
「それなのよ」
キズナの言葉に、まるで待ってましたとでも言わんばかりにリィナの声が発される。
「あなた、多分なんだけど、未だに魔力全然持ってないわよね、正直子犬レベル。なんで増えないのかしら」
「……どゆこと?」
魔宝石を半分以上使って召喚されたという、自称超レアキャラであるところのキズナ、まさかまさかの青天の霹靂だった。
「俺、どういう顔して混ざればいいの?」
「さあ、頑張れば?」
自業自得と言わんばかりのリィナの態度に、痛恨の表情で顔を覆うキズナだった。