プロローグ-1 巌頭之感
晴れていた、穏やかな日だった。
惜春の日差しが身を包み込む、吹き荒んでいた春風も鳴りを潜めて少し経った日のこと。
名守絆成は、山奥にある高い崖の淵にいた。
滝の流れる大水の音が鼓膜を震わせ、滂沱と流れるその破片が宙に霧散し、暖かい日差しに紛れるように肌を濡らしている。
時折聞こえてくる獣や鳥の鳴き声が、人里の喧騒から離れていることを一層認識させ、その心を洗い流すかのように感じさせる。
見る人間が見れば、その眼下に広がる景色をあるいは絶景と呼び、あるいはその高さに恐怖し身をすくませるだろう光景。
しかし、彼の目には最早、それらはただの情報でしかなかった。
視界から入り込んでくる、光と、それらを反射する物体に、絶えず入り込んでくる雑音。
遠近の感覚すら曖昧で、遠くまで見渡すことのできるその場所から見える景色ですら、平面的な光の集合にしか見えていない。
全てがどこか他人事のように思え、自分が今ここにいるという事実がぼんやりと虚構のように思える。
彼は今、自ら命を絶とうとしていた。
「……もういいよな、疲れたし、意味ないし」
誰に向けたわけでもない、ただ己に対する最終確認。
足元に目を向ける。
高さは百メートル近くあり、落ちればまず助かることはないだろうことを再度確認する。
この場所に来てから、どれほどの時間が経ったのかももう彼にはわからないが、彼の中で結論が変わることはなかった。
むしろ、頭の中の空白は次第に大きくなり、彼は思考を巡らせていたようで、その実ただ呆然としていたのだった。
「まあもう、いいか」
そんな、なんてことのない相槌のような言葉で、彼は世界に別れを告げる。
足を一歩踏み出し、空を切った爪先につられ、体が地面という支えから逃れる。
まるで重力から放たれたように、体はどこに接することもなく空転し、されどそれは重力に引き寄せられている故のこと。
まるで自分の人生だ、どうしようもない人生だった。
彼は最後に、そんなことを考えた。
突然目の前に現れた、幾何学模様の光に包まれるまでは。