ロシア料理店に殴り込みってピロシキでパイ投げでもする気かしら 下
作中のチェスの展開は、「チェスマスター・ブック5 やさしい実戦集」(有田謙二 河出書房新社)より「ミィクvsリュビィテエリ」(1859)のものを引用させて頂きました。
暗い大食堂に侵入し、かがみ込みながらじりじりと前進するサス姉と美貴の背中を見つつ、私も進んだ。
罠臭い。その通りだ。
「飛んで火に入る夏の虫」
美貴は言った。でもそれで引き返す事はできない。罠ならば、噛みちぎるだけの話。私達は負けない。そう自分に言い聞かせる。
その時、インカムでハリぽんから連絡が入った。
表と裏、トラックが横づけされ、武装した男達が、どやどや降り立っていると。
やはりそうか。
無人を装い、奥まで誘い込んでから、中と外、挟み撃ち、袋の鼠という訳だ。
敵の計略はここまで、あっぱれなまでに成功した。
ここで問題なのは、敵の数ではない。その質だ。
ロシアの巨漢が何人、カラシニコフやトカレフやナイフを振りかざして襲って来ても、私達は必ず勝つ。
だが相手が兵隊崩れ、それも元特殊部隊あたりとなると厄介だ。
この場合、旧KGBであるセマルグルは、どの程度の人材を集められるだろうか。
彼が元軍の高官、軍人崩れのマフィアなら、かつての人脈を使って、そうした戦闘能力の高いロシア人を集める事が可能だろう。
しかし情報部崩れとなると。
同じロシアン・マフィアでも、軍人崩れと情報部崩れの相性は最悪と聞く。
兵隊崩れは皆前者に集まるだろうし。
けれどもセマルグルは旧KGBでも武闘派、あるいはスペツナズへの派遣訓練などを通じて──
私がそこまで考えた時、ふいに床に穴が開いて、落下感が襲った。
思わず「あっ」という悲鳴が洩れた。
私は落ちて行った。
だが奈落の底と言う程ではない。
しかも落ちて行く先は明るい。
頭上の「床」は私を落とした直後に閉ざされたようだ。美貴がさぞパニクるだろう。しかしあいつはあれで立ち直りが早い。サス姉にどやされてすぐ我に返るはず。心配無用だ。
約四メートルの高さを落下していきながら、私はとりあえず右手に握ったダガーナイフを、落下予想地点の後方めがけて投げ落とした。あんな物を握りしめたまま、床に衝突、転がるのは、自殺行為だ。
素早く観察する。
地下室の広さはざっと10✕10m。中央に小さなテーブルと、向かい合う形で椅子が二脚。他に家具らしい物は何も無い。床は板張り。やれやれ。コンクリートでなくて幸いだ。室内はひとまず無人。ここまで見取ったところで着地と相成った。
私はニケのお姉ちゃんに習った通りの、五点接地の体勢を取った。爪先、かかと、やや曲げ気味の膝を揃え、身体を少し前に傾けた。そして足の裏、ふくらはぎ、太もも、尻、背中から肩と、順に接地させ、衝撃を分散させる。
うまくいった。床に転がりながら、私は自分の身体がほとんどダメージを受けていない事を確認し、素早く起き上がる。後方の床に突き立っているダガーナイフに飛びつき、引き抜いて、構える。
周囲を見回す。ドアは前後にひとつずつ。鍵穴のあるドアノブが付いている。壁も板張り。監視用の窓らしいものは見当たらないが、どうせ隠しカメラだ。その時、ロシア訛りの英語の声が頭上から響いた。見ると、天井中央のカバーに覆われたライトの隣の小スピーカーから聞こえて来る。
『見事な五点接地だ。クッションを敷いておこうかと思ったのだが、かえって失礼かと考え直してね。歓迎するよ。スパルタ・クリーニング・サービスのメイド・アサシン、ナイフ使い、チェスの名手、コードネーム「メドゥサ」くん』
「ずいぶんと荒っぽい歓迎ですね」
私もブロークンな英語で応じる。
『何の。そちらは真夜中に不法侵入だろう。しかも武装してだ。警察に通報しようにも、ここら一帯はその警察に包囲されているのだから、どうしようもないよ。ロシア政府はこの件で日本政府を徹底的に叩く事になるだろう。我が国への宣戦布告も同様だからね』
「ここがロシア大使館だったとは知りませんでした。それよりそろそろ姿を見せて頂けませんか、セマルグル、イワン・ジェルジンスキー、本名ヴャチェスラフ・ウラジーミロヴィチ・スヴィドリガイロフさん」
『はっはっはっ、了解だ、ユミ・モトメヅカ』
会話の間に室内の観察を続ける。床も壁もあちこち傷と、シミだらけだ。シミはおそらく、血の痕。中央のテーブル上にはチェス盤が置かれている。
何だかとっても悪趣味なものを感じずにはいられない。
そういえばセマルグルの「前歴」の中に「チェス・ボクシングの選手」というのがあった。あれは冗談ではなく、本当にある競技だ。
ある日、例によって美貴の部屋でイギリスのクライム・アクション映画を観ていたら、これが出て来た。ボクシングのリングの上で、チェスとボクシングを交互にやってる。ボカスカとマジにぶん殴り合い、その頭でチェスだなんて信じられない。
「ねーこれって、映画の中の創作だよね?」
佳代が呆れてそう言うと、
「違うよー、ホントにあるよ、これ」
と美貴。
「ウソぉ」
と私が言うと、美貴はテレビの画面をいったん止めて、スマホをちょいちょい。
「ほれ」
チェス・ボクシングの紹介動画を見せてくれた。
詳細は略すが、フランスの人気コミックの作中ゲームをホントにやっちゃったというやつで、ヨーロッパを中心にマイナースポーツとしてファンも多く、今世紀初めには世界大会も開催されたという事だ。
私相手にアレをやる気か。
しかしそれなら床や壁の傷は一体何だ。
あ。なんか判って来た。
そこで正面のドアが開き、ロシアの現大統領──いや、我らの標的が、背広姿で現れた。その目にはサングラス。右手には拳銃。確かロシアの最新式。美貴ならば目をギラギラ輝かせているところだ。両手は黒い手袋に包まれている。間違いなく防刃加工。背広の下にもぴっちりと防刃スーツを着込んでいるはず。セマルグルは後ろ手にドアを閉め、こちらにゆっくりと歩み寄りながら、口を開いた。
「とりあえず、そのナイフをしまってくれないかね。それと、君の目には特殊な力があるという報告を受けているので、こちらの目は保護させてもらっているよ」
「優秀なスパイですね」
内務班、仕事しろと愚痴りながら、私はダガーを懐ろの鞘にしまった。
「ま、かけたまえ」
セマルグルと私はチェスのテーブルをはさんで椅子に腰を下ろした。当然、大きさは大人向けで、私は改めて、己の小柄さを自覚する。テーブルも椅子も床に固定されている。チェス盤はテーブルと一体化していた。盤面はコルク板で、小さな穴が無数に空いている。駒の裏側にはピンが付いていて、それを盤面に突き刺す。マグネットよりずっとしっかり固定できる。古風な木製のアナログ式チェス・クロックは、私から見て右側にある。これも固定されているのだろう。駒は既に並べられていて、私の方が白、つまり先行だ。
念の入った事である。
「あのー、これって、あなたの前歴の?」
私がそう尋ねると、セマルグルは破顔する。
「その場合はちゃんとボクシングのリングを使うよ。だが私はチェスとボクシングの名手であると同時に、旧KGBでも凄腕のナイフ使いとして恐れられていたのだよ。君がSCS随一のナイフの使い手であると共に、チェスにも秀でた才覚の持ち主という報告を受けてだね。こうしてお招きしたという次第さ」
「チェスとナイフの勝負を交互にやるの?」
「名付けてチェス・ナイフバトル。どうだい。なかなかの趣向だろう」
バカバカしい、とひとことで片付けてしまうのは簡単だが、この状況でそれを口にするのはさすがにまずい。やれやれ。本当に悪趣味なロシア人だ。
「ルールの説明をして頂けるかしら」
私が溜息混じりにそう言うと、セマルグルは嬉しそうに、
「おお、応じてくれるかね。Хорошо! では、チェス・ボクシングのルールは御存知かね?」
「大体は」
フルゲームは11ラウンド。4分間のチェス・ラウンドと、3分間のボクシング・ラウンドを交互に行なう。チェスで相手をチェック・メイト、あるいはボクシングでノックアウトしたら、試合終了。どっちも勝負がつかない場合は、判定に持ち込み。でもそれじゃ。
「あのー、審判がいないんですけど」
「必要あるまい。ここからは生きている者しか出られないからね」
どっちにせよ、勝つのは自分と。自信満々。やれやれ。
「ナイフの勝負はいいとして。私がチェスで勝ったとしたら?」
「この鍵を差し上げよう」
セマルグルは左手で、ズボンのポケットから小さなマトリューシカのホルダーが付いた鍵を取り出し、振ってみせた。
「君の後ろのドアの鍵だ。階段を登って、右の壁のスイッチを押せば、天井がスライドして、大食堂に戻れるよ」
ナイフバトルで勝った場合は、死体のポケットからどうぞという訳だ。
チェスで私が負けた場合については訊かなかった。
必要無いだろう。
セマルグルは言葉を続ける。
「もっとも、君が私の暗殺という使命を果たしたいというのであれば、喜んでお相手するがね」
「それはあくまで仕事ですから、使命ではなく任務です。あのーそれと。拳銃向けられたままナイフバトルと言われましても」
「これは失礼した。ではこうしてくれたまえ」
セマルグルは拳銃を懐ろにしまい、代わりに大型のフォールディング・ナイフを取り出して、刃を起こし、チェスの盤面の手前に置いた。私も自分のフォールディングで同様にする。
「君は数種のナイフを使い分ける名手なのだろ? 私もそうなのだよ」
「暗殺者が潜り込んで来るたびに、こんな手間暇かけてやっつけてたんですか?」
「ま、主に裏切者や、さらってきた敵対者を処分するのが目的だがね。それとは別に、拷問部屋は私の後ろのドアの向こうさ」
悪趣味を通り越してる。ドストエフスキーのキャラにこんなのがいたっけ。ある種の変態的超人という奴が。さすがはロシア人、奥が深い。
「まともに私の相手が務まる者は少なくてね。今日は楽しみにしていたのだよ」そこでセマルグルは天井を見上げた。「この部屋は完全防音でね。今頃上では激戦の最中だろうが、何せこちらの人数と火力は圧倒的だ。ほどなく勝負はつくだろうね」
「そうとは限らないと思いますけど」
余裕で笑うセマルグルを見ながら、私は上の仲間達を思った。ここに落とされる寸前に考えていた事を訊いてみよう。
「さぞかし精鋭を集めたんでしょうね。元特殊部隊とか」
セマルグルの表情が、一瞬微妙に揺らぎ、すぐに肩を小さくすくめ、苦笑混じりに答えた。
「ま、前大戦において、日本は連合国の圧倒的物量に押し潰された訳だろう。この場合も同じ事だよ」
確信が持てた。やはり質は伴わない。多分サハリンあたりの港町のごろつきだ。セマルグルが旧KGBで如何に武闘派として鳴らし、スペツナズにも訓練で派遣された事があったとしても、それで人脈が築けたかと言えば話は別だろう。お互い上からの命令で嫌々だったに違いない。それなら大丈夫。あの三人ならやれる。最大の心配事から解放され、私は自分の勝負に専念する。
こういう場合、佳代ならばおそらく、辛辣な物言いで相手を苛立たせ、美貴はべらべらまくし立てて逆上させるのだろうが、私は従順を装い、下手に出る。「メドゥサのまなざし」が事実上封じられているのだから、なおの事だ。トリオ中、私が最も見かけは子供っぽい。正体が判っていたとしても、どうしてもチビガキを見る目になる。その隙を突く。そして目的を果たし、ここから脱出して、仲間と合流、佳代の援助に向かわなくてはならない。よし、勝つぞ。チェスも、ナイフも。
セマルグルの余裕たっぷりの物言いは続いている。アニメの悪役にもいるよなぁ、こういう余裕かましのムカつく奴。
「という訳で、君が私にチェスで勝って、ここから出て行く権利を獲得したとしても、上では私の部下達が、君を歓迎すべく待ち受けているのだよ。後は君の実力と運次第という事さ。それはそうと」
セマルグルは椅子の下でぶらぶらしている私の足に目をやり、言った。
「補助椅子が必要かね?」
「結構です」
私は椅子の上にぴょんと飛び上がり、チェス盤にかがみ込む姿勢を取った。少し窮屈な体勢だが、これで駒にもチェス・クロックにも手が届く。そしてナイフにも。
「無礼の段はお許しを」
私がそう言うと、セマルグルは口元をゆるめて言った。
「可愛いねえ。君、アサシンなんか辞めて、私の養女になる気はないかね?」
「お断りします。それより、私が先行でよろしいのかしら?」
「状況が状況だ。それくらいのハンディはつけてあげるよ」
「ありがたくお受けします」
「では」
セマルグルはポケットから小さなリモコンを取り出し、天井に向けてスイッチを押した。小スピーカーからゴングが鳴り響き、チェスの第1ラウンド、4分間勝負が始まった。
私はキング前、eのポーンを二つ前に進めた。対するセマルグルも同様に、eのポーンを二つ進める。二つのポーンが向き合う中、私はfのポーンも二つ進め、その隣に並べた。セマルグルはためらわず、eのポーンで、出て来た私のfのポーンを取り上げ、自分のナイフの横にその駒の裏のピンを、獲物の如く突き立てた。
fのポーンをわざと取らせる、キングズ・ギャンビットの定跡を私は選んだ。
そしてgのナイトをf3に進め、今私のポーンを奪ったばかりの黒のポーンの前に向かい合わせた。
ここでチェスの第1ラウンド終了のゴングが鳴り、そのまま休憩無しでナイフバトルの第1ラウンド、3分勝負に移行する。
私達は示し合わせたかの如く、手前のナイフを右手で取るなり、順手持ちで、互いに突きを入れ合った。リーチの差は如何ともし難いが、私には敏捷さがあり、小柄な身体はこの場合有利だ。セマルグルのナイフが私の頭のホワイトブリムを突き破り、私のナイフはセマルグルの喉元へ──いや、それをかばった彼の左腕、袖の下の防刃スーツに突き立った。一瞬の激突だったが、真下のチェス盤に乱れは無い。私達は同時にその場から飛びのき、テーブルをはさんでナイフを構え、向かい合う。
「さすがだな」セマルグルはかぶりを振る。「早くもスーツが台無しだ」
「私のホワイトブリムもぼろきれだわ」
そのぼろきれを床に投げ捨て、私達はボクシングの試合のように、じりじりと小刻みに間合いを詰め、テーブルの横で対峙するなり、猛烈な突き、払いの連続による、ナイフバトルを開始した。
でかい図体と年齢の割には、実に動きが素早い男だ。自慢するだけの事はある。
だが彼のスーツはみるみるズタズタになっていき、下に着込んでいる防刃スーツが露わだ。
私の方はメイド服そのものがそれだから、御期待に沿えず残念だ。むき出しの両手と顔は今のところ無事だが、これは別に彼が紳士だからという訳ではない。私がすばしこいだけの話だ。
かくて互いに防刃装備が無ければとっくに失血死してるはずの、凄まじい突き合い・斬り合いの3分がゴングと共に終了し、私達はぜいぜい肩で息をし、汗を拭いながら、再びチェスの試合に戻るのだった。
これを上の三人と佳代が見たら何と言うだろう。
「何でチェスやってる間に殺っちゃわなかったの」
当然の疑問だと私も思うが、当のセマルグルがこう言うのだ。
「前の対戦相手は粛清対象の裏切者だったのだがね。ナイフもチェスも勝ち目が無いと見て、チェスの試合中にナイフを手にして私に襲いかかるという愚を犯した。私は拳銃の名手でもある。心臓と額に一発ずつ撃ち込み、楽にしてやった。ま、拷問ならその前に散々やったから、これはどちらかと言うと余興だったしね」
セマルグルはそう言いながらdのポーンを二つ進め、私はbのナイトをc3に移動させる。
「じゃあこれも余興?」
「とんでもない。しばらくぶりにエキサイトしてるよ。君は私を楽しませてくれる」
「私は未成年者ですよ。そういう言い方はセクハラな上に、児童虐待です」
「これは失礼した。でも君達は我々を野蛮人だと思っているのだろう?」
「あなた達は日本人を猿だと思ってる」
「だが君は大変魅力的だ。繰り返そう。私の養女にならないかね」
「だからお断り」
しつこい中年だ。そこでゴングが鳴った。ナイフバトルの第2ラウンド突入と同時に、私達はまたも示し合わせた如く、互いのナイフを盤上に残したまま、椅子から飛びのいて距離を取った。私が先手を打ち、右袖の投げナイフを三本、セマルグルの顔面めがけて放った。セマルグルは両腕を組んで楯とする。防刃スーツに弾かれたメス状の投げナイフがぽろぽろと床に落ちる。
私が懐ろのダガーナイフを取り出しかけた時、セマルグルも自分の二本目のナイフを取り出して、鞘から抜き払ったところだった。まるで銃口を向けるかのように、そのブレードの切っ先を私に突きつける。ゴツいダガー形状のそのナイフの柄の上部には突起があり、セマルグルの親指はそこに掛かっている。
スペツナズ・ナイフだ。
次の瞬間、強力なスプリングの力で、あのナイフがこちらめがけて飛んで来る。
あれの有効射程は約5メートル、速度は時速60キロと聞く。野球の投手の速球は百数十キロだから、ちょっと聞くと遅そうだが、数メートルの至近距離で、しかもモノはボールではなくナイフだ。あれを射たれて白刃取りするマンガもあるようだが、いくら動体視力に自信があっても、私はそこまで超人ではない。
どうする。
セマルグルの口元がニヤリと笑い、親指が動いた。
私は前に飛んだ。
ナイフは放たれた。
椅子の下に飛び込む。
ナイフは椅子の背の上部に突き立った。
セマルグルは舌打ちする。
私は椅子の陰から転がり出ると、お返しの投げナイフを三本標的に放った。
セマルグルはまた両腕でこれを防ぐ。そして両手のスペツナズ・ナイフの柄と鞘を、剛速球の勢いで投げつけて来た。どちらもゴツいので当たればかなりのダメージ、私はとっさに身を伏せてよけた。
その隙にセマルグルはチェス盤上のフォールディングを取って、私に襲いかかって来た。
身を起こした私は懐ろのダガーを抜き、待ち構える。
セマルグルは逆手に握ったナイフを、私めがけて振り下ろした。
私は左手を突き上げて、その右手首をつかんだ。
同時に右手のナイフをセマルグルの喉元めがけて突き上げる。
セマルグルも私の右手首をつかんで、ブレードの切っ先が喉元に喰い込むのを引き止めた。
私達は歯を喰いしばり、ぎりぎりと力を振り絞って、互いの身体に刃を突き通すべく、硬直したまま争った。
何時間にも感じられたが、実際は十数秒の事だ。
そこでタイミング良くゴングが鳴った。
どちらか一方が力を抜いた瞬間、一気に来るのは判っていた。
だがこのラウンドでは双方力の限界だった。
私達は目を合わせ、同時に溜め息をつきながら、構えを解いた。
そして汗を拭いながら、チェスのテーブルに着いたのだった。
セマルグルはフォールディングをチェス盤に置き、腰を下ろした。
私のフォールディングはそのままだ。
私はダガーを懐ろにしまうと、椅子の背に突き立っているスペツナズのブレードを引っこ抜き、ぷらぷらとかざして言った。
「これ、反則と違います?」
そして天井めがけて放り投げる。ブレードはライトの横に突き刺さった。セマルグルは苦笑する。
「私の『投げナイフ』はそれ一本だよ。君は何本持ってるんだ」
「教えられません」
「そうだろうな。だが一番の反則は、君の外見からは想像もつかない腕力だよ」
「調査済みじゃなかったんですか」
「まさかこれほどとは思わなかった」
私達はチェスの試合を再開した。
セマルグルはdのポーンで、私のc4のポーンを取った。私はcのナイトでそれを奪う。
そうしながらセマルグルの様子を何気に観察する。
私はどんなに激しく動いても、数回の深呼吸と十数秒の休憩があれば、ほぼ体力を回復できる。だがさすがにセマルグルはそうはいかない。どれだけ強靭な肉体を誇っていても──それこそ野蛮人かヒグマのような──限界はある。旧ソ連の崩壊から、既に三十年以上経っているのだ。
そもそも、今の台詞にも本音が出ていたが、たかが日本人の小娘如きに、チェスでもナイフでも、ここまで粘られるというのが、はっきり想定外だったのは、見ていても判る。
余裕で浮かべているつもりの口元の笑みは微妙に引きつり、眉間にはかすかだが縦じわが寄り、こめかみにはうっすらと青筋が浮かんでいた。
そして駒を取る指先に、かすかな震えが。
セマルグルは焦っている。
彼の次の手を見て、私は確信した。
彼はcのビショップを、一気にg4へと移動させた。
キャスリングでキングを安全圏に移すより、攻勢に出る方を選んだのだ。
このあと、クイーンをh8に飛ばし、チェックをかけ、たたみ込むつもりだろう。
ならば。
私は仕掛けてみる事にした。
あえて悪手としか思えない手。
dのクイーンを、ひとつ斜め右、e2に動かす。
キングの前と、f1のビショップを塞ぐ形。
セマルグルのサングラスの奥の目が、笑ったようだった。
気づかれた?
だが彼は、私のf3のポーンを、ビショップで取ったのだ。
彼は罠にはまったのだ。
そこでゴングが鳴った。
私達は互いのフォールディングを手に取ると、再び激しいナイフバトルに転じた。
セマルグルのナイフが私の右頬をかすめて髪の毛を数本切断し、私のナイフは彼の右手袋に切れ目を入れた。同じ所を狙えばざっくりやれそうだが、それは難しい。
私は彼の左の向こうづねを蹴って飛びのいた。
佳代ならば例によって股間に入れているところだろうが、この場合はナイフで足を傷つけられる危険性が高い。
だが弁慶の泣きどころに一撃喰らってもさすがは頑丈なロシア人。一瞬口をへの字に曲げ、すぐまたニヤリと笑ってみせたのには恐れ入った。
私は「予定の位置」に着くと、左手で投げナイフを──実はこれが最後の一本──を彼の顔めがけて投げつけた。彼はまた両腕を組んでこれをさえぎる。ゆえに私のそれと同時の行動は、彼の目にはほとんど映らなかった。
私は右手のフォールディングを天井に投げたのだ。腕を上げず、手首のみの力で、回転をつけて。
そして懐ろのダガーを引き抜き、順手に構えて後退する。
セマルグルは私の最後の投げナイフをはたき落とすと、今度こそとどめを刺してやるとばかりに、まるでヤクザがドスを構えてそうするように、私めがけて突進を開始した。
その寸前、天井に突き立っていたスペツナズのブレードに、私のフォールディングが回転しながら命中し、弾き飛ばす事に成功した。
私の「予定の位置」とセマルグルの立ち位置を結んだ線の直上に、それは刺さっていたのだ。
私のとっさの計算通りの角度と速度で、ブレードは落下していき、もはや眼中には標的としての私しか無いセマルグルの、半ば禿げた後頭部に見事命中、その皮膚をざっくりと傷つけた。
これにはセマルグルも仰天した。
思わず叫び声を上げて足を止め、身をのけぞらせ、反射的に血を噴き出している後頭部に、左手を回そうとした。
その時、私は既に、彼の懐ろへと飛び込んでいた。
「チェックメイト」
私はつぶやき、右腕を思い切り伸ばして跳躍し、ロシア人の頑丈な顎の下の柔らかい部分めがけて、ダガーナイフの切っ先を突き立てた。
ブレードは深々と彼の咽喉部を貫いた。
私はダガーをそのままに、素早く後ろへと飛びのいた。
セマルグルは棒立ちになり、左手でダガーの柄を握りしめ、苦悶の呻きを上げながら、右手のフォールディングを私めがけて投げつけた。
ナイフは放物線を描いて手前の床に突き立った。
そして彼は拳銃を引っ張り出した。
苦しまぎれの乱射が続いたが、もはや狙いは定まらない。
私はテーブルの陰に隠れてやり過ごす。
ほどなく弾切れとなり、トリガーを虚しくガチガチと鳴らしてから、セマルグルはどうと倒れた。
その顔からはもがいた拍子にサングラスが外れ、立ち上がった私を血走った目で睨みつけている。口からはゴボゴボと血の泡が溢れていた。自分の血で窒息するのはおよそぞっとする死に方だ。
ゆっくりと歩み寄る私に向かい、セマルグルは最後の言葉を洩らした。
「······雌犬······!」
私は冷たく言い返した。
「KGB崩れ」
「······」
セマルグルは悪鬼のような無念の形相で絶命した。
私は床に落ちていたホワイトブリムの切れ端を、その見開かれたままの目にかけた。死者への礼儀というより、夢に出て来そうな顔だったからだ。
かがみ込み、ポケットをまさぐると、あの鍵が出て来た。ホルダーのマトリューシカは、現ロシア大統領の姿を模した物。どこまでも悪趣味なロシア人だ。
私は立って、ドアに向かいかけたが、ふとチェス盤の方に戻り、次の手を指した。
e4のナイトを、f6に移し、チェックをかける。
その後ろに控えていた、私のe2のクイーンもまた、まっすぐチェックをかけている。
黒のキングの左右は自軍のクイーンとビショップ、左斜のf7にはこれも自軍のポーンがあって、身動きが取れない。
唯一の逃げ場のはずのd7には、このナイトが利いている。
g7のポーンでナイトを取っても、正面のクイーンはどうにもならない。
またf3のビショップでクイーンを取っても、ナイトは生きている。
いわゆるダブル・チェックである。
「チェックメイト」
私はもう一度つぶやき、黒のキングを引き抜いて、盤面にコロンと転がした。
チェスの名手を自称する者が、こんな古典的な罠に引っかかるなんて、いくら表面上余裕を見せていても、内心の焦りは相当なものだったのだろう。
やはり、人を見た目で判断してはいけないのだ。
私はドアへと向かった。
解錠し、慎重に開くと、狭くてまっすぐな、上に向かう階段。暗い。スイッチを探していると、上の方で物音。行き止まりの「天井」──出入口がスライドしていき、そして聞き慣れたあの声が。
「あーッ、開いた開いた! めっち待ってて、今行くよ!!」
「落ち着け、カサンドラ!」
「様子見ないと!」
全くあいつは。
私はドア横にスイッチを見つけ、押した。階段が明るく照らされる。私は階段下に立ったまま、上で一瞬黙り込んだ三人に向かって、にっこり笑い、右手を振ってみせた。
ドドドドドと美貴が階段を駆け降り、私に抱き着き、ギャン泣きを始めた。私はその背中をポンポン叩く。よしよし泣くんじゃない。
私は自分の得物は消耗品と割り切るタイプである。地下室に散らばっているナイフの回収は清掃班に任せ、私はワゴン車の中にある予備のナイフ一式が詰まったランニングポーチを腰に巻いた。美貴は釣り竿ケースにカービン・モーゼルを収納し、私がそれを背負った。
バイクの美貴は猛スピードで夜の東京の街を走っている。私は後部座席に乗り、彼女の背中にしがみついている。途中、あの偽装検問にぶつかったが、パトカーの赤色灯が見えた時点で、打ち合わせ通りのクラクションを鳴らすと、警官達はすぐさま封鎖を解き、減速せずに通過する私達を、敬礼して見送ってくれた。私が少し身を起こして、フルフェイスのヘルメットの上から敬礼を返す。
作戦終了のメッセージの返信として、アガメムノンから佳代の現場の情報が送られて来るまで、数分の間があった。私達にとっては火であぶられてるに等しい時間。またあの中年の嫌がらせか、あいつめ絶対楽には死なせてやらない。私達がじりじりと待つうちに、やっとメールが入った。
「早く行ってやりな」
「びーびーによろしく」
「気をつけて」
サス姉とハリぽん、イカルスくん達に見送られ、私達は急いで相棒の元へと向かったのだった。途中、何度か交通ルールを無視したが、白バイにもパトカーにも捕まらなかったのは幸いだった。仮に捕まっても「ロシアの一件」で上とは話がつくはずだが、時間が惜しい。
ほどなく、目的地の高級住宅街に入り、路地裏にSCSのロゴ入りワゴン車を見つけ、美貴はその傍らにバイクを停めた。ダイダロスのおっちゃんがすぐに運転席から降りて来た。美貴はバイクを横倒しにしかねないほど焦り、私が慌ててスタンドを立てた。美貴はヘルメットを脱ぎ捨てておっちゃんに尋ねた。
「どどどどうなってるの、あいつ無事?」
「落ち着けよ。連絡はまだだけどな。さっきまで銃声が聞こえたが、今は多分、刀で暴れてるところだろう」
おっちゃんは海鼠壁塀の向こうの屋敷を親指で指した。
「ま、早く行ってやれよ。大丈夫だとは思うがな」
「判った」
私達は通用口から中に入り、広大な芝生の庭を横切って、標的である某企業馬鹿CEOの屋敷へと向かった。縁側のガラスはあちこち破られ、なぜか新撰組のコスプレをしたボディガードの死体がごろごろしている。一人で派手にやったようだ。
あ、いた。
自前の脇差ではない、ごつい血まみれの長刀をその華奢な肩にかつぎ、やれやれと手の甲で額の汗を拭ってる、「バッコスの信女」、おちゃめなびーびー、壇ノ浦佳代っちの、無事な姿が。
美貴が縁側に駆けつけて、夢中で叫んだ。
「あ、びーびー、無事だった? 良かった。心配したよ。またアガメムノンのクソ親父がさー、びーびー一人で行かせといて、それでまたぎりぎりになって、私達に知らせてやんの。アイツあんたが殺られた後で、私達に標的始末させようっての、バレバレだよね。ホント嫌な奴だよねー。いつかアイツ必ずぶっ殺そうね、びーびー」
佳代の心配が地下の私へのそれと重なって、不安と焦躁、感情ぐちゃぐちゃ状態から、やっと解放された美貴は、別の意味でのぐちゃぐちゃ状態、お互い判り切ってる事まで口走ってる。私はまたどうどうとその背中を叩く。それでやっと我に返った。
全身血まみれの佳代っちが、ニコニコ笑いながらこちらに歩み寄り、答えた。
「二人共来てくれたんだ。ありがと」
「標的の始末はまだなの? 手伝おうか?」
「大丈夫。一人でやれるから」
ボディガードが全滅し、後は無防備の標的のみなら、わざわざ私達が手伝うまでもない。二三の問答で安心して、美貴と私は頷き合う。
「じゃ、行ってるね。めっちん、行こう」
「うん」
私達は通用口へと引き返した。空を仰ぐ。月が蒼い。
この先、どれだけの血を流して、私達は目的を達成させる事ができるのか。それはまだ、判らない。だが、とにかくその日が来るまでの辛抱だ。私は改めて、そう誓った。
「佳代のかついでた刀、あれ虎徹だったなァ」
美貴がつぶやく。
「欲しいなんて言うなよ」
「はいはい」




