紫電改、ラバウルに現る!
コロナのせいで我が家も大騒動になっていますが、何とか完成いたしました。2022夏参加作品となります。よろしくお願いいたします。
1944年2月、ニューブリテン島ラバウルを中心とする南東戦域の航空戦の趨勢は、完全に決していた。
この1年近く前のガダルカナル島からの撤退以降、連合軍の二方向からの進撃、いわゆるカートホイル作戦の前に、日本軍の戦線はジリジリと押し上げられ、いまやかつての策源地たるラバウルがほぼ最前線となっている始末であった。
そのラバウルでは、歌にもなった通称ラバウル航空隊と言われる海軍航空部隊が、圧倒的な戦力差を有する米豪連合空軍に、最後の抵抗を見せていた。
この日も、米豪の陸軍ならびに海兵隊の連合爆撃隊約240機が、ラバウルへの空襲を仕掛けるべく接近していた。
ソロモン諸島各地の飛行場を発進したこれらの機種は、P38、F6F、P40、F4U、B24、B25、TBFと言った各種の機体による混成部隊であった。
この地域ではお馴染みとなった機体であり、そして米軍機に共通する高馬力、強武装、厚い防弾装備を兼ね備えた機体ばかりであった。
そんな彼らの前方に、こちらもお馴染みとなっている日本の迎撃機の編隊が現れた。
「来たなジャップ!」
「もうゼロの時代じゃないってことを、教育してやるぜ!」
日本海軍の主力戦闘機の零戦は、開戦当初こそ無敵神話を作ったが、後継機に恵まれず、さらにベテランパイロットの多くを失った今、連合軍戦闘機にとって勝てない相手ではなくなっていた。
加えて、補給が悪化しているラバウルでは、出撃可能な迎撃機の数は減少しつつあり、数の面でも連合軍航空隊が圧倒している。
もはや「勝ったも同然」と連合軍のパイロットたちは考えていた。
その彼らの眼前に迎撃に現れたのは、70機余りの戦闘機であった。
「掛かれ!」
連合軍の戦闘機がその相手となるべく前に出て、激しい空中戦へと突入した。
各所で日本軍と連合軍の機体が激しい戦闘を行い、ある機体は被弾し戦線を離脱し、ある機体は紅蓮の炎を噴き上げながら高度を落として行き、またある機体は被弾に耐えられず空中分解して果てる。
そんな中、あるF6F戦闘機のパイロットは、自分の後方に食いつこうとする機体に気づいた。
「ジャップめ!これでどうだ!」
彼は、機体を急降下に入れた。こうすれば、強度の弱い零戦は付いてこられない。何度か改修を行ったらしい後期型でも、少なくとも距離を詰めることは出来ない。
低空まで降りたら、あとは馬力の違い(F6Fのエンジン出力は零戦のおよそ倍)で急上昇して引き離し、零戦を翻弄して撃墜まで持っていけばいい。
ところがである。急降下中にも関わらず、後方から飛んできた。機銃の曳光弾が機体を掠めた。
「何!?」
パイロットが慌てて振り向くと、そこには明らかに距離を詰めつつある敵機の姿があった。
「ゼロじゃない!?」
接近してくる機体のシルエットは、明らかに零戦と異なっていた。特に太い胴体は零戦の細く優美なそれとは似ても似つかない。
「トージョーか!?だったら!」
パイロットは接近する機影を、日本陸軍の二式単座戦闘機「鍾馗」と思い、今度は一気に急上昇からの反転宙返りを図った。
「鍾馗」は爆撃機用発動機を搭載したインターセプターで、速力と上昇力は優れているが、格闘性能ならば艦上戦闘機として設計されたF6Fが勝っているはず。
パイロットはそう思って、自分を追ってくる敵機とドッグファイトに入った・・・のだが。
「何!?」
その日本機は、易々とF6Fの後方にへばりついていた。そして、主翼の装備された機銃が発砲炎で光るのが見えた。
「トージョーでもない!」
ここで彼は、敵機が「鍾馗」でないことに思い至った。識別表の「鍾馗」は零戦と同じ機首と主翼に武装がある筈なのに、後方の敵機は明らかにF6Fと同じく主翼に武装を集中搭載している。
しかも。
ガンガン!
その着弾音と被弾の衝撃は強烈だった。
「20mmだ!」
零戦の武装は7,7mmと20mmの混載で、このうち20mm機銃は破壊力も大きく、重防御の連合軍機に対しても打撃を与えられる。ただし、零戦のそれは2挺のみで弾数もそれほど多くなかったはず。
しかし、明らかに今被弾しているのは「多数の20mm機銃弾」だった。
1発や2発ならともかく、10発以上の強力な20mm機銃弾を喰らっては、さすがにもたない。
「ガッデム!」
機体が操縦不能となり、さらには主翼から炎が出たのを見て、パイロットは迷わず機体を捨てて脱出した。
空中へ飛び出し、燃え上がる機体が離れたのを見るや、落下傘の紐を引く。
とは言え、これで安全と言うわけではない。日米問わず、戦場で殺気立ったパイロットが脱出したパイロットの落下傘の紐を切ったり、或いは銃撃を加えてくることは、無きにしもあらずだからだ。
幸いなことに、日本機はそんなことをするのは無駄だと考えたのか、撃墜を見届けるとすぐに別の機影を追い求めて去って行った。
そして脱出した米パイロットは、短時間とは言えその日本機の機影に目を瞠った。
零戦と同じ低翼単葉ながら、太い胴体は似ても似つかない、自分たちのF6Fのような力強さがあった。
「あれは・・・日本の新型機か!?」
この日も、空中戦を終わらせた機体が西飛行場をはじめとするラバウルの基地へと帰還してきた。どの機体も機銃の発射口は煤に塗れ、エンジン周辺にはオイルが飛び散っているなど、激しい空中戦を伺わせる。中にはヒドク被弾し、パイロットが負傷している機体もあり、着陸すると整備兵が操縦席から担ぎ出している光景もあった。
これまでに、何度となく繰り返されてきた光景だったが、この日はこれまでにない初めてとなる場面があった。
零戦の群の中に、明らかにシルエットの違う機体がチラホラと混ざり、飛行場へと勢いよく着陸してきた。
「やったぞ!グラマンを仕留めたぞ!」
「こいつがあと100機あれば、アメ公どもをガダルカナルまで押し返してやれるぞ!」
降りて来たパイロットたちの鼻息も荒い。
それも当然である。旧式化が著しく、性能面で苦しくなってきた零戦に乗り続けた彼らにとって、今日乗り込んだ機体こそ、期待の新鋭機であった。
その名は川西局地戦闘機「紫電」21型。通称「紫電改」である。
今日の空中戦に参加できたのは、先日本土から到着したばかりのわずか10機(機体自体は12機あったが発動機などの不調で参加できたのはこれだけ)ではあったが、この日の空中戦に参加した機体は全て帰投し、パイロットたちは口々に戦果を語り、その顔も明るい。
待ちに待った新型機で、それも今日の空戦で連合軍機と互角以上に渡り合えることが出来たのだから、当然である。
さらに、予定どおりなら後方のトラックを経由し、さらに多くの「紫電改」がラバウルに持ち込まれる予定であった。
さて、川西「紫電改」戦闘機であるが、実はこの機体の開発経緯はかなり複雑な変遷を経ている。
そもそも、この機体の源流は確かに戦闘機ではあるものの、水上から発進するフロートを付けた水上戦闘機(15試水上戦闘機)から出発している。
これは南方での戦争を見据え、陸上飛行場の設置が間に合わない島嶼地域で、海上を滑走路とする水上戦闘機が望まれた結果であった。
そしてその開発と製造を海軍から発注されたのが、飛行艇や水上機の老舗である川西飛行機であった。まさに適任・・・と思える企業選定だが、しかし水上戦闘機と言う機種は過去に類例のない機体であった。
確かに、過去に採用された水上機の中には空中戦で戦果を挙げた機体もあったが、それは空中戦を主目的として開発されたわけではなく、結果的に空中戦が出来る性能を得て実戦に参加した結果であった。
海軍の発注であるから開発はするが、果たして完成するのか?さらに言うと、完成したとして採算ラインに乗るのか?
そこで、川西は15試水上戦闘機の発注を受託すると同時に、海軍にもいくつか要求を出した。一つは海軍が蓄積している戦闘機の開発に関する各種技術データを提供すること。そしてもう一つは、助言者として技術者を派遣することであった。さらにもう一つ、並行して陸上機化の設計作業を行うことであった。
いずれも、確実な機体の完成や、会社としては当然とも言うべき採算性を重視した要求であった。
この頃日本社会で最強になりつつあった軍への物言いであったが、何と川西も驚くぐらいにすんなりと海軍は受け入れた。
これはどういうことかと言うと、海軍としても水上戦闘機と言う未知の存在に対する不安があったことに加え、この頃海軍が行っていた新型戦闘機開発計画に絡むものであった。
この時期海軍はゼロ戦として有名になる零式艦上戦闘機を採用していたが、この零戦が初期トラブルや機体の強度に絡む事故を起こすなど、度々設計変更を余儀なくされる場面があり、開発した三菱の設計チームの負担となっていた。
そこに、海軍は零戦の後継機となる艦上戦闘機と、防空用の局地戦闘機の設計まで依頼していたのである。
このせいで、三菱の設計チームのメンバーが過労でバタバタ倒れる異常事態に陥り、特に主務者の堀越技師が実に半年間も休職を余儀なくされたことは、機体の開発や改良計画に重大な遅延をもたらしてしまった。
それなのに、仮想敵である米英ソなどが新型戦闘機や強力な重爆撃機を開発を進めている情報が次々と入って来ており、ポスト零戦を担うべき機体ならびに新型局地戦闘機の開発は急務であった。
そんな時に、川西が受注した水上戦闘機を陸上機としても並行開発したいという条件を付けてきたのは、渡りに船であった。
川西が開発する機体を、三菱機の保険に出来ると考えたからだ。
技術指導に関して言えば、海軍は独自で航空技術の開発機関である航空技術廠を有しており、また川西からするとライバルで早々に技術協力を申し出るのも叶わない他の航空機メーカーにも、協力を仰ぎやすい。と言うより、軍のゴリ押しというものが出来る。
こうして、川西の要請がほぼ満額回答される形で、15試水上戦闘機は陸上戦闘機タイプである15試局地戦闘機と並列での開発が開始された。
開発には空技廠に加えて、設計チームの瓦解のために手が空いた三菱の残存技師や、海軍の要請を受けて中島や川崎から派遣された技師たちがアドバイスを行うこととなった。
その結果がどうかはわからないが、開発は順調に進行した。と言うよりも、米英との関係が急速に悪化したために、むしろアクセルが目一杯に踏み込まれる結果となった。
そのため、15試水上戦闘機、および局地戦闘機ともに、なんと昭和16年12月31日に初号機が完成となった。これは三菱が開発中の14試局戦よりも2カ月以上早い快挙であった。
しかし、そこからが大変であった。
案の定と言うべきか、水上戦闘機は未知の機種である上に、過大な性能要求をクリアするために様々な新機軸を取り入れた結果、トラブルが多発することとなった。
そして局地戦闘機の方は、発動機に強力な「火星」を採用したおかげで、零戦以上の速度と武装を可能としたものの、大馬力エンジン特有の振動が発生。さらに開発期間を短縮するためと川西自身の経験不足が祟って、陸上機として運用する上での改修が不十分な機体となってしまった。特に水上機の中翼構造をそのまま流用したために、脚部が長くなって着陸を難しい機体にしてしまった。
とは言え、2機種が完成した時点で既に米英等との間に太平洋戦争が始まっており、押し寄せる敵空軍の最新鋭機と戦うためにも、新鋭機の開発は急がれる事案であった。
そのため、水上機は「強風」局地戦闘機タイプは「紫電」という愛称が付けられ、昭和18年上半期中の実戦配備を目指して開発と生産体制準備が進められた。
特に、中継ぎの二式水戦が成功して緊急性が低くなってしまった「強風」に対し、三菱に発注した14試局地戦闘機(後の「雷電」)の開発も振動問題などで大幅に遅延しており、さらには想定以上に頑強な米重爆の存在から、局地戦闘機の方が早急に求められた。
余談だが、結局この余波で零戦の後継機となる艦上戦闘機は、三菱での開発が断念されて、中島製の陸軍四式戦闘機を手直しした機体が採用されることとなる。
このため、海軍は1942年6月、川西に対して「強風」に対して投じられていた技術者や資材のリソースを「紫電」に回すよう命令を下した。さらには「紫電」の早期量産をも迫った。
これには試験機段階で既に様々なアクシデントが発生していることから、空技廠内部からも反対意見が出たが、4月に東京が空襲され、さらには同月のミッドウェー海戦で機動部隊が壊滅するという戦局の大幅な転換がそれを許さなかった。
しかし、量産命令は出たものの、実際に量産型の機体がロールアウトするまでに、なんとそれから半年近い月日を要してしまった。
と言うのも、川西は同じ頃採用されたばかりの二式大型飛行艇や「紫雲」水上偵察機の量産にも入っており、自社の生産設備の拡張が追い付いていなかったのと、やはり陸上機に不慣れだったのが大きい。試験機を1機や2機製造するのならともかく、いきなり数十機単位で発注されても処理できなかったのだ。
こうして昭和18年初頭から15試局地戦闘機改め「紫電」の量産が急ピッチで始まったが、その完成機の実績は散々なものとなってしまった。
試験機時代から指摘されていたとおり、主脚をボキボキ折る事故が多発し、想定した最前線への配備どころか、内地の設備が整った飛行場でも運用が難しい状態となった。
さらにそれまでの日本機離れしたシルエットによる味方からの誤射や、主力機の零戦とは大きく違う操縦特性も足を引っ張った。
このため、昭和18年6月までに200機あまりがロールアウトしたが、なんと並行して120機余りが事故で用廃と言う深刻な事態に陥ってしまった。
結局、この時点で「紫電」は欠陥機と認めざるを得ず、わずかに松山基地に配備された701空の実働30機余りが、稼働するだけという惨憺たる結果となった。
もちろん、これでは最前線に送るなど夢のまた夢だ。
一方、三菱の14試局地戦闘機も同じ頃「雷電」として量産に入っていたが、やはり初期トラブルや相次ぐ事故で部隊配備が遅れていた。
そんな中、川西では「紫電」の懸命な改良作業が続けられていた。
それは、陸上機としての適性に致命的な悪影響を与えている中翼配置と長い主脚を低翼にし、量産も考慮して部品点数も削減、そして発動機を火星から中島が新開発した小型大馬力の「誉」へと換装するなど、ほぼ新造機に近い大規模な設計変更であった。
この大規模改良機の試作機は、昭和17年12月31日に初飛行を行った。その結果は単に陸上機としての適性を得ただけに留まらず、大幅に機体デザインをリファインした効果が出たものとなった。
最高速度こそ10ノット程しか向上しなかったが、運動性能をはじめとする性能は大幅に向上していた。それはいずれも零戦を凌ぐものであり、海軍の関係者を狂喜させるものであった。
海軍はただちにこの機体を「紫電改」として、川西に「紫電」に代わって大量生産に移行するよう指示した。
しかしながら、ここでも生産体制の構築にもたつくことになった。やはり新型機を大量生産に移行するには、それなりの時間を要するのだ。
それでも「紫電」の時の経験を活かし、昭和18年10月には量産機のロールアウトに漕ぎ付けたのは、大きな進歩であった。
とは言え「紫電改」も欠点がなかったわけではない。特に採用した「誉」発動機はトラブルが相次ぎ、やむなく運転制限を行わざるを得なかった。それでも、零戦よりははるかに上の性能を発揮できることに変わりはなく、前線への配備が待ち望まれた。
そして、11月には横須賀海軍航空隊に少数機が配備されて試験運用が開始された。
新型機故の初期トラブルに加えて「誉」エンジンの稼働率が足を引っ張ったものの、それでも優秀なパイロットと整備士、恵まれた本土の飛行場での運用とあって、実戦配備への目処が終に立った。
翌月には最前線のラバウルの204空に12機を送ることが決定し、トラック島までは輸送任務に興じる航空母艦「龍鳳」で運ばれ、春島の飛行場へと陸揚げされて整備された。
しかし、早くもここでエンジントラブルで2機が修理の見込み立たずとなり、やむなく10機が3日後に陸攻の誘導の元で出発した。
ところが、この移動中さらに3機が不調でトラックへと引き返し、最終的にラバウルに到着したのは半数強の7機に留まった。
零戦に代わる新型機到着す!
このニュースはラバウルの各海軍航空隊を沸かせた。当然である。これまで後継機が登場せず、わずかな性能向上だけの改良を繰り返してきた零戦に乗り続けたパイロットたちにとり、ようやく米軍機を圧倒できる新型機が来たとなれば、熱狂せずにはいられない。
それだけに、それから2週間ほどの間に起きた出来事は、失望も大きかった。
ここでも「紫電改」はトラブル、特に誉エンジンの不調に泣かされた。何せ最前線の設備の整っていない飛行場。さらに言うと、誉エンジンに比較的慣熟した整備士と部品が後追い進出となったため、どうしても彼らの到着まで不十分な整備士かできなかったのだ。
何度か出撃は試みられたが、稼働率が50%(4機)に達することが出来ず、やむなく空中退避もしくは滑走路から離れた掩体壕へ仕舞われるしかなかった。
こうなると、毎日空中戦を行っている部隊の隊員からは文句も出るというもの。204空に「紫電改」と共にやって来た隊員が「お前たちは何しに来たんだ!?」と吹っ掛けられる始末であった。
それに対して件の隊員は「戦いに来たんだ」と返すしかなかった。
そして進出から10日後、ついに遅れていた輸送機で整備兵とエンジンの部品が到着。「紫電改」本来の性能を発揮するべく、念入りな整備が行われた。
3日後、ついに運命のその日がやってきた。この日「紫電改」は整備兵の努力により、これまでで最多の10機が稼働状態にあった。
燃料弾薬が満載され、パイロットたちも即時出撃可能な体制を取る中、米軍機の来襲が告げられた。
終に「紫電改」が初めて戦闘行動を取る日がやって来たのだ。
発動機が始動し、暖機運転を終えた機体が空へと舞い上がった。
「紫電改」の初陣は、パイロットたちの戦果報告に拠ればF6Fが4機、スピットファイア2機、P38が1機、TBFが2機、そしてB24が1機であった。
これは明らかに誇大な戦果で、戦後の調査ではF6Fが2機にP38とP40が1機ずつ、そしてB24が1機とされている。
こうした戦果誤認は珍しいものではない。重要なのは「紫電改」との損害交換比率である。
この日「紫電改」の未帰還機は2機であった。しかも、その内の1機は見慣れないシルエットのために零戦に誤射され墜落した機体であり、米軍との戦闘だけで考えれば未帰還機は1機のみであった。
本土で充分訓練を行ったパイロットたちに操縦されてということもあっただろうが、この戦果はやはり「紫電改」の性能あってこそである。特に重爆撃機1機の撃墜は「紫電改」が強力な20mm機銃を4挺搭載したことも大きい。
どちらにしろ「紫電改」がラバウルで華々しい初陣を遂げたことは間違いなく、この報に海軍上層部が歓喜し「紫電改」のさらなる量産を命じたのは、無理からぬところであった。
だがこの「紫電改」が初陣を迎えてすぐ、米軍が大挙して後方のトラック島に来襲、在泊艦艇ならびに基地航空隊に大打撃を与えた。
このためラバウルに展開する各航空隊も後方へ撤退することになってしまった。もちろん「紫電改」を配備された204空も増援どころか、本土への撤退と戦力再編と相成った。
結局同機のラバウルでの空戦はこれっきりとなり、その性能を連合軍に見せつける機会はお預けとなった。
このため、この日帰還したパイロットから「日本軍に新型の優秀機現る!」という報告が出たものの、その後「紫電改」の出現がなかったために「戦場でよくある誤認」と片付けられてしまった。
その後米軍が「紫電改」を認識するには、6月に起きるマリアナ諸島での戦闘までまたなければならなかった。
このマリアナでの343空の善戦が有名になり過ぎ、「紫電改」がラバウルに進出してただ一度きりの戦闘で勝利を収めた事実は、暫くの間歴史に埋没することになるのであった。
御意見・御感想お待ちしています。
なお、当作品タイトルは「紫電改」ですが、勘の良い読者様ならお気づきでしょう。実際に1年早く開発されたのは「紫電」です。ただし「紫電改」は「紫電」の1バリエーションと言う解釈で書いています。




