みしらぬ彼女と
窓の向こうの地面に陽炎がゆらゆらと立ち昇っていた。アスファルトで跳ね返る夏の日差しは店のところどころにまぶしい日だまりをつくる。わたしは窓際のテーブルで、窓からひとつ席をおいて座っている。斜め前の席には窓にぴったりと顔を寄せた彼女がいた。彼女は顔はこちらに向け、目は窓外に遊ばせている。くちびるが動いた。
「あんなにゆらゆらと。砂ぼこりまで揺れてるわ」
ぼくは「うん、そうだね」とばかみたいな受け答えをした。なんとなく気まずい思いを目の前のソーダ水へ逃げるようにストローを口に持っていく。なにが気まずいのだろう。
「ねえ、ほら。あんなに陽炎が」
彼女はストローを口にくわえたまま遠くを見ている。この辺りは市街地から隔たった山の中だ。造成地もあれば、山を削る採石場もあって、舗装路は砂や土に埋もれている。行き交うダンプカーは砂を勢いよく舞い上げていく。陽炎は土埃に呑まれ白茶けた粒子が光を乱反射させる。
「うん、そうだね」と僕はまたぼんやりと答えていた。会話がおろそかになるのはなぜだろう。窓の外に目をやりながらチラチラと彼女を見ているのだが、なにかしっくりしない。初夏だけど盛夏のような陽射しが降り注いでいる。ふと、わたしはなぜここにいるのかと自問した。そうだ、急激に襲ってきた暑さをしのぐために、手近なカフェに避難したのだった。でも待てよ。私はひとりで市街地から遙々とこの丘陵地にやって来たのではなかったか。なんのために? 疲れた心身を休めるためだった。そしてこのカフェに入った。当然ひとりで。相席を頼まれたんだっけ。いや店内はカウンターに客が二人いるだけで、三つあるテーブル席には誰もいなかった。
「ねえ。なに考えてるの、むつかしい顔して」
土埃りのにおいが遅ればせに僕の鼻を襲う。はっとして彼女の顔をみつめる。知っている女だ。まちがいない。だれだろう。それらしい顔やシルエットが浮かんでくる。すると彼女が不意打ちを喰わせる。
「あなた、わたしのこと分からないんでしょ」
びくっとして視線をもどすと彼女の目につかまった。真正面に見つめるまなざしになにか引っかかるものを感じたが正体はわからない。私は逃れようのない窮地に立ち、もはや目を背けるわけにもいかなかった。
『そんなことないよ』と口のなかで僕は言った。嘘だった。天井のスピーカから古めかしいロックが聞こえていた。メロディアスでよく覚えている曲だ。Chicagoだったかな。いまどきこういう曲をかけるのはめずらしい。店主の好みか。
「この曲、Chicagoってロックグループなんだけど、クラスに熱狂的なファンのヤツがいて、ポスターをべたべた貼りまくってさ」
僕は彼女の肩越しに窓の外を見ていた。その場を繕うためだった。
「ドラムやってるヤツで、教師に大目玉喰らって」
彼女は目だけこちらを向いて不思議そうな顔をして見せた。へんなことを私が言ったとでもいうように咎めるふうでもある。
「この曲、Bostonじゃないの」
わたしは面食らった。あらためて耳をそばだてる。確かに彼女の言うとおりで、映画のテーマになった曲だ。目で見て羊を殺すアメリカのエスパー特殊部隊のイラクでの奮闘映画、テレビで見たっけ。なんで間違えるかな。いいかげんな記憶だ。
「あなた、雑な脳ね」
「え」
そんな言い方はないだろうとぼくはムッとした。
「だからわたしのこともわからないのだわ。お馬鹿さん」
ボクはますますむっとして彼女を睨んだ。彼女はくすっと笑ってストローに口を持って行き、窓の外へ目を逸らした。一台の霊柩車が土煙のなかから出てきて何台かの車列を引き連れて山のほうへ走っていった。この先に火葬場があるのだ。私も何度か行ったことがある。
「仏さまだわ。この道路はあの世へ通じているのよ。ほら、陽炎のあたりから」
ゆらめいた陽のなかへ弔いの一行は吸い込まれていった。その先には死者との別れが営まれる儀式の場が用意されている。父のときには通夜も葬儀もこの火葬場で行なった。通夜後の親戚も引き揚げて一人残った私はビールを飲みながら父の遺体と対面していた。死化粧の出来にみな感嘆の声を上げていたがなるほどそれだけのことはある。びしっと通った鼻筋だけでも一見の価値があった。
「思い出した?」
日なたから視線を移すと彼女の目がぼくをとらえた。見知らぬ者としてはじき返す目ではなかった。知己以上の存在であることはたしかだった。だれだ。だれなのだ。ほんとにだれなのだ。
「いや」と私は正直に白状した。
「すまない。思い出せないんだ」
「そう」
彼女は目を伏せてまた窓の外を見た。寂しそうな横顔だった。咄嗟にわたしは罪の意識に囚われる。
「ほんとにすまない」
頭も下げた。テーブルに額がぶつかった。ゴツと音がしてソーダ水が揺れた。
「いいのよ。わかってるわ」
彼女は顔をそっと隠すようにわたしの目を逃れ、わずかに頬の桃色のうす化粧を見せて肩が小刻みにふるえていた。取り返しのつかないことを僕はしてしまっているのだ。
「ごめん。ごめんよ」
震える肩が大きく波を打ちはじめた。その下からくくくと嗚咽が漏れ聞こえてくる。わたしのせいだ。為す術はあるわけないのだがそれでもなにかしら償いをしなければと痛切に思う。そこまで傷つけてしまったのはわたしの罪である。下を向いた彼女の顔をそっとのぞき込む。ゆるやかに伸びたまつげがピクと動き、ふつふつとたぎるように声が漏れ出てきた。
「ふ。ふふふ。はは。ふふふふ。はは」
え。笑声? 笑ってる?
「わ。はははは。ふふふ。ほほ」
顔を伏せたまま肩をふるわせて彼女は笑っている。まちがいない。私はむっとして思わずテーブルを拳で叩いた。なにごとかとカウンターの客がこっちを振り返る。
「ごめんなさい。ああ可笑しい」
コップの水を一口飲むと彼女は頻りに頭を振る。ふわっと香料が鼻をくすぐる。なつかしい記憶がふと意識の表に浮かんできた。かたちのない記憶だった。それが何なのか具体的には思い描けないが、なつかしい属性だけは感覚としてわかった。なんだろう
「ねえ。わたしがわからなくてもいいわ。話して。何でもいいから」
「話すって。なにを」
「なんでもいいわ。そうね。町のこと。子どものころの町の」
「街、町か…ちいさいころの記憶は…よく覚えていない」
「お祭りがあったじゃない」
「え。(まあどんな町にも祭りのひとつやふたつは)うん。夏には提灯祭りが、秋には獅子舞いが」
「写真が残ってるでしょ」
「なんで知ってるんだ」
「小さな路地の町ですもの。記念写真はだれかが撮るわ」
その写真には拍子木を首からかけたぼくが写っていた。洗濯屋さんの出窓に獅子頭が二頭置かれ、その前で獅子に入る子どもが居並んで写真を毎年撮ったものだった。小学一年から六年生になるまで撮った。だんだん子どもの人数が少なくなっていって、とうとう二人になった。
「一軒一軒まわってお菓子もらうのね」
「そう。お金の家もあったっけ。ちょっとしたお小遣いさ」
「お獅子の胴体、ふわりとした布のなかに子どもたちが入って」
「布1枚でちがう世界がそこにあってさ」
「お日さまの光がやわらかいの」
「うん」
うなずきながらしげしげと彼女の顔を見る。
「思い出したの?」
「いや。きみがよく知ってるからさ」
「不思議?」
「うん」
「思い出せば不思議でもなんでもなくなるわよ」
「降参だ。きみはだれなんだ」
「まだよ。拍子木のことは覚えてる?」
拍子木って。うん? なんのことだろう。
「泣きべそかいたでしょ」
ああ、思い出した。小学校に上がる前だっけ。祭りのとき首からかける拍子木がわたしの分だけ足りなくて家に帰ってしまったのだ。年長の子らが拍子木を持って迎えに来たときわたしはべそをかいていた。
「どうしてそんなことまで知ってるかな…」
わたしはぼそぼそと言いながら視線を背けた。気味が悪くなった。
私は一人っ子でうちには父と母しかいない。町内の子どもたちのだれかだろうか。数人の女の子の顔を思い浮かべてみるが、どれもちがう。窓の外で光が跳ねて目がくらくらする。こういうときこそそもそも論の出番だ。きょう朝から私はどこでなにをしていたか、逐一思い出していけばおのずと答えが出るはずだ。
「提灯祭りのほうはどう?なにか話してちょうだい」
真夏の終戦記念日の前後三日ほどだったと思う。市内に山車が出るのだ。いくつあったっけ。4台かな。ぼくのうちは通りから入った路地だったから外れていて、お囃子とか操り人形に参加することはなかった。
「暑い夜に涼しげな笛や太鼓に裸電球、ふだん閉まってる時間に駄菓子屋さんが店を開けていたりして」
「そうそう。夏休みだから夜更かしして、ところ天を食べに」
わたしはつい彼女の話に乗っかってしまった。表通りの駄菓子屋さんが夜になっても開けていて、入っていくと近所の顔見知りや同級生と顔を合わせるのだった。箸1本でつるつると喉に流し込むところ天の酢のツンとした刺激を思い出す。
「帰ってくると路地で提灯がいくつか燃えてるんだ。風にあおられてさ」
まだローソクを提灯に使っていて、毎年十個や二十個は犠牲になった。
「それも風物詩よね」
彼女はまた窓の外の眩しい陽射しに顔を向け、目を細めて砂塵の道路をみつめていた。沈黙が訪れたのを機にわたしは今朝からの行動を反芻しようと試みた。
朝は。寝ていた。昼まで寝ていた。がらんとした家のなかで、奥まった小さな部屋、ずっと濃厚な時間をすごした空間で、まどろみ眠りうとうとして夢と現の間を行き来していた。母が台所で包丁をつかう音を聞きながら味噌汁や炊飯のにおいにうっとりし、父がなにやら怒鳴っている、え。夢だ。母も父もすでに故人なのだから。
昼は。起きてからはコーヒーを沸かし、牛乳を飲んでパンをかじった。コーヒーをすすりながら庭で雑草がぼうぼう伸び放題なのを見て草取りをしなくちゃと思いながら立ち上がり、良い天気なので遠出をしようと自転車を引っ張り出した。で、走って山の道をたどって来たのだった。山の峠に差し掛かったところで坂の向こうに喫茶店が見えた。それがこの喫茶店だった。採石場を往来するダンプカーが入れる大きな駐車場があって、近隣の寂れた旧新興団地の散歩者も客になっていた。
わたしは自転車を入り口のそばに置いてここへ入った。それは確かだ。窓際のテーブルにすわり、ソーダ水を注文した。これも確かだ。相席ではなく、そのテーブルにはわたし一人だった。でも、いつの間にか彼女が同席していた。その間の記憶があいまいだ。彼女以前と以後の境が朦朧としている。居眠りでもしてたかな
「どうしたの。むつかしい顔して」
「きみは。いつからそこに座ってるんだ」
「いやね。どうしたの、急に」
「この店に一人で入ったのにおかしいと思ってさ」
「一人じゃなかったのよ。わたしがいっしょにいた」
「自転車でここまで登ってきたんだぜ。一人で」
「だから。一人じゃなかったのかもよ」
二人乗りなんか私はしない。それに、後ろにだれかいれば気づかないわけがない。
「この店に入ろうと思ったのはなぜなの」
彼女が目を伏せながら訊いた。
「峠のカフェってさ、つい入ろうと思っちゃうんだ。喉も渇いて」
「わたしもよ。とても喉が渇いていたから」
「で、ソーダ水が二つ運ばれてきて。あれ、と思ったらきみがいた」
「わたしも。顔をあげたらあなたがいた」
彼女が頼りなげな表情になった。なにかに確信が持てないようだ。
「ひょっとして、きみ」
「え。なに。わかったの、わたしのこと」
「きみはさ。自分のことがわからないんじゃないのか」
「まぁ。なにを言いだすかと思ったら、そんなこと」
「知ってるのか。記憶はあるのか、自分がだれか」
「あなたがあなたを自覚できるていどには知っているつもりよ」
プイと彼女はまた窓の外へ目をやった。横顔に馴染みのある表情が浮かぶ。わたしは彼女をたしかに知っている。でも、誰だろう。すれちがった時間がここで邂逅する。以前か以後の体験や経験がいまここに嵌入してきたにちがいない。異次元の混入はどうだ。わたしは対峙した事態の荒唐無稽な合理的説明を忙しく展開するのだった。しかし、どれも空想の戯言に過ぎなかった。それをわたし自信がよくわかっていた。現実のわたしはここにいて、現実の彼女はそこにいるのだ。これ以上たしかな実態があるものか。
「なにをごちゃごちゃ考えてるの」
彼女に不意を突かれ私は驚いて顔をあげた。
「だだだれなんだききき君は」
ストレートに訊く。動揺した感情の乱れが声に出る。
「どうしたの。じっくりちゃんと考えなきゃわからないわよ」
どうしてここまでおちょくられなければならないのだ。わたしは自転車で駆け上って来て、ひと休みしようとこの店に入っただけである。
「いいのよ。そのていどの存在にすぎなかったのだわ、わたしは」
また脅す。わたしが負い目を感じるのは、彼女に見覚えがあるのに誰だか特定できないからだ。彼女のほうは明らかにわたしを知っている。私が失念している以上、アンフェアだとは主張し得ない。彼女はうつむいた。
「ぐすん…」
まさか泣きだしたのか。嘘泣きに決まっている。ほら、いまに顔をあげて舌でも出すに決まっている。それともさっきみたいに肩をふるわせて忍び笑いでもするつもりなんだろう。と、どっちもちがった。彼女はハンカチで鼻や口元を覆いながら立ってトイレに行ってしまった。
「マジかよ」
ひとり取り残されたわたしは気を紛らすために道路のほうへ視線を移した。戻って来たらどういう応対をすればいいんだろう。真摯に失念を詫びるしかないかな。記憶が抜け落ちているのは寄る年波で不可抗力だが、そんな道理が通用する事態ではない。だが謝れば謝るほどに殊更に彼女を失念したことを強調することになって彼女を傷つけやしないだろうか。あれやこれや考えているうちに時間が過ぎてゆく。かれこれ15分は過ぎたころさすがにおかしい、変だと思った。
私は立ち上がってトイレへ行き、ノックしてみた。反応はない。たしかにトイレへ入るのはこの目が見た。目を逸らしている間に店から出たのだろうか。それとも忽然と消えた
カウンターの向こうにいる店主に声をかけようとしてやめる。丸イスの上で居眠りをしているのだ。客はもうわたしたちのほかはいなくなっていた。入り口ドアの向こうを見たが、人影はない。ずいぶん前に出て行ってしまったのかもしれない。やれやれと頭をかきながら席に戻りかけるとそこに彼女が居た。何食わぬ顔で土煙舞う道路を見つめている。
「きみは」
「そろそろ出ましょう。長居したわ」
「え。…うん。そうだね」
わたしはすっかり彼女の言いなりになっていた、レジを済ませて外に出ると意外な暑さに驚いた。彼女はどうするかなと見守っていると
「行きましょ。こっちでしょ」と私の自転車に手をかけいっしょに歩き始めた。市街地へ向かう坂をこのまま下りて帰るつもりなのだが、彼女は
「うしろ、乗るわよ」
言うが早いかハンドルに衝撃があって危うく転倒しそうになった。
「危ないじゃないか」
「ぼんやりしてるからよ」
このまま両腕で支えて進むのはムリなので、彼女にいったん降りてもらって僕が先にサドルにまたがった。彼女が乗るのを確認してペダルを踏んだ。そこは下り坂が何百メートルも続く山道なので、漕ぐのをやめてハンドル操作に集中する。西に傾いた陽がチカチカと照り返して目を射る。重量が二人分なので勝手が違う。意外なスピード感に酔いそうになる。
「きゃほー」
彼女はぼくの腹に両腕を回してぎゅっと締めつけてきた。
「う、げっ」
こみ上げるソーダ水のゲップをこらえて前方に注意を集中する。対抗にクルマの影はない。僕は安心して道路のど真ん中に車体を固定してなすがままに任せた。初夏の風が名も知らぬ花の香りを乗せて疾走していく。いくつものカーブをやり過ごすと、沼や池の畔で木々の緑の葉叢が頭上でアーチをかける。道が平坦になったかと思うと土の匂いとともに道がひらけてなだらかな直線が市街地へみちびく。
「ほっ」
ひと息入れたその隙を狙ったように十字路が待ち構えていた。その信号のない十字路の右手のほうから、くっきりとゴキブリのような色のなにかが走ってきていた。私にはそれが軽自動車だと認識できていたのでブレーキのレバーに両手の指を載せた。勾配がゆるやかになったとはいえ慣性の法則がスピードを維持していたのだ。
「危ない!」
叫んだのは私だったか彼女だったのか。間に合うと思ったブレーキが二人分の加重で勝手が狂った。
「あわわわわ」
狼狽して泡を吹いたのはわたしだ。もはやハンドルを切って側道から田圃のなかへ突っ込むしかない。そうするつもりだった。しかしここでも二人分の加重のせいなのか、切ったつもりのハンドルが効かなかった。自転車はわたしたちもろとも交差点へ突入する。その瞬間は正しく訪れた。軽乗用車は一時停止するどころかスピードを緩めず突っ込んできた。
「わ」
クルマが一瞬はやく、ぼくと彼女は車体の鋼板にまともに衝突する。前輪がひしゃげて後輪は跳ね上がり、わたしたちも宙へ飛ぶ。彼女は私に負ぶさる格好になり、それが反転して向き合うかたちになった。その瞬間ぼくは彼女のなかへすっぽりと取り込まれた。繭にくるまれた柔らかい感触にぼくはとろけそうになる。
「ふふふ」
彼女の声が耳に、いや骨かな、身内に湧き出たように聞こえた。
「すのへさん、わかりますか。これ、見えますか」
手がひらひらと舞っている。だれだ。彼女ではない。白衣がちらちらしている。看護師だ。病院か
「う。うううう」
だれかがうめき声を出している。だれだ。
「うううう。ぐあああ」
不快な声は、ほかならぬわたしの口から漏れていた。
「まだ痛むでしょう。動かないでください」
私はかろうじて首を元の位置に戻した。顔をあげて周囲を見ようとしていたのだ。病室なのは明らかだった。
「彼女は? 無事ですか。どこです」
「え。なんですか」
わたしは事故時のようすを話した。
「救急で運ばれてきたのはあなた一人よ。ほかの病院かもしれません」
聞いといてあげるわと言い残して看護師は病室を出て行った。思いのほか早く看護師はもどってきて彼女の消息を伝えてくれた。
「いやだ、すのへさん。奥さんじゃないですか。付き添いで一晩中ずっと病室にいらっしゃったのよ。それで今朝いったん帰られました。午後にまたいらっしゃるそうですよ」
無事なのかと聞いたら、怪訝な表情をされただけだった。付き添って来て午後にも来るのなら無傷に決まっている。あれだけの事故でいっしょに吹っ飛ばされて、しかも私を庇って命さえ危うくてもおかしくはない。それが無事で無傷なのか。にわかには信じられない、え。『奥さん』て
「妻と名乗ったのですか、その女性は」
「は?」
「わたしの妻って」
「ええ。そうですよ。入院の手続きもしていかれました」
書類を見せてもらおうと思ったが、どうせあとで来るのなら真意を直接問い糾したほうがいい。わたしに妻はいないのだ。
「入院といっても明日にでも退院できますよ。右腕と右脚の打撲で骨は折れてませんから。CTも撮りました。首にすこし痛みが残るかもしれませんが」
看護師は快活な笑顔で部屋を出ていった。この状況になんの不思議もないとしたら私の脳がおかしいことになる。記憶が抜け落ちて現実との間に齟齬を来しているのだ。それが事実だとすればいつからだろう。峠の喫茶店で彼女と遭遇する前後が怪しい。家を自転車で出るまえまでは、いや、彼女と会う前まではなんら奇異なことはなかったのだ。やはり峠の喫茶店で変になったにちがいない。彼女はどの時点で現れたのか。ふと顔を上げたらもうそこに座っていて、わたしと同じ緑色のソーダ水を飲んでいた。行き交うダンプカーの立てる砂ぼこりが、鼻のなかへ入ってきそうなほど間近に迫ってくる。
「ぎゃぁ」と声がじっさいに出て、手で塵埃を払いながら顔を伏せる。清潔なシーツのリネンの香りが鼻を慰撫する。夢と現の狭間で私は目を閉じた。耐えようもない記憶の混乱があった。目を閉じているとすっと意識が深みに落ちていく感覚があってすとんと束の間の睡眠状態になる。それを幾たびかくり返すうちに眠りに落ちた。
夢のなかでは彼女との会話の情景が跡切れとぎれに現れるのだった。明るい日差しで眩しい表情には一点の曇りもなく、快活な笑顔にわたしは戸惑うばかりだ。たしかに知っている顔だが思い出せない。
「すのへさん、すのへさん。お昼ですよ」
昼食らしい。眠らせといてくれればいいのにと思いながら、軽傷なんだから寝てることもないかなと目をあける。体を起こしかけて首や腰の辺りが痛むのをあらためて認識する。盆に乗っているのはキツネうどんに稲荷寿司である。食欲に任せて平らげる。体温だの血圧だの酸素飽和度だのひと通り計測されてまた目をつぶる。同室患者は斜め向こうの窓際にいるだけで隣も対面のベッドも空いていた。おなかがくちくなってしぜんと眠りに落ちた。
「すのへさん、すのへさん。奥さんですよ」
ろくに夢も見ないうちに起こされた。いよいよ来たなと覚悟して目を開ける。ベッドの脇に窓からの淡い光のなかに立っていたのはほかならぬ彼女である。印象は変わらない。たしかに知った顔であり、笑顔であり、表情だ。しかしそれが誰だかはわからない。名前さえ浮かんでこない。わたしは体を起こす。『すまない。やっぱり思いだせない』と言うつもりで口をひらく。すると思いがけない言葉が聞こえた。
「ありがとう。軽傷で済んだのはきみのおかげだ」
私は戸惑って左右を見た。言葉を発したのはわたし以外にいない。
「いいのよ」と彼女は目を潤ませた。
どういうことだ。思ったことと異なる言葉が出た。混乱するわたしを尻目に彼女は手放しで喜んでいる。
「ねえ、うちへ帰りましょう。うちのほうが養生できるわ」
うちへ帰るってだれの家だ。
「退院は明日なのに。いいのかな」
またも「わたし」が勝手な台詞を吐いた。
「いいのよ。あなたが気づいてくれさえしたのなら一刻も早く元の生活に」
動揺が表に出ていない。表情も意思と裏腹になった。どぎまぎしている内心が深く閉ざされたままだ。こんなことになるならいっそ、もう少し頭を休ませたかったのだが、彼女の手配で急遽わたしは退院の運びとなる。
「不思議だ。ぼくはどこへ行ってたのだろう」
ばかに落ち着いた「私」がゆっくりと着替えをしながら彼女に微笑みかけている。
「気にすることはないわ。最近ではよくあることらしいから」
彼女のまなざしは安堵であふれていた。分裂に慌てるわたしにもほっとした感情が伝染する。
「そうなんだ」
複雑な思いを込めて言ったその言葉はそのまま表出された。
「うちへ帰ってすこし休みましょ」
「そうするよ」
わたしは彼女と会話をしながら歩いているのだが、まるで自分じゃないみたいだ。離人症かもしれない。
「すこしずつ元の生活に馴染んでいけばいいのよ」
「そうするよ」
病院の廊下をたどり、大きな待合室をいくつも抜けて、やがて外へ出た。きのうと同じような太陽がやや西に傾いた空にあり、きのうと同じような空気に対する肌感覚があって、すこし汗ばむような陽気だった。彼女は満ち足りた表情を浮かべ、にこやかだった。
「好いお天気だわ」
「うん」
わたしも笑顔をつくっていたようだ。彼女の表情からわかる。とても笑える状態ではないのに。ぎくしゃくした感じはタクシーに乗ってもつづいていた。わたしは乗っ取られたのだろうか。だれに? ここには私しかいないのに第三者が憑依したとでもいうのか。ここにいるわたし自身の自覚はある。わたしはここに居るのだ。
「さあ、肩につかまって」
彼女は乗車のときと同じく降りるときもわたしの体を気遣って支えてくれた。首と腰の辺りの痛みを感じながら、その痛みを特別な思いで反芻しながらわたしは私自身を認識した。わたしはここに居る。
「ゆっくり。ゆっくりでいいのよ」
玄関へのゆるやかなスロープを少しずつ登りながら見覚えのある三角屋根の玄関へ私は登っていった。昨日の今日なのに薄暗い土間がひどく懐かしく思える。ひんやりとした土の感触が靴を通して伝わる。
「こっちよ」
彼女は暗がりの向こうの日だまりでわたしを呼んだ。私は見慣れた裏庭へと足を踏み入れた。赤と白のツツジが咲き誇り、目を楽しませる。もう何十年も前に伐採されたユリノキやイチジクの木が青々と葉をつけ、数年前まで枝を伸ばしていたモミジも青い葉を揺らしている。小さなウグイス色の蛇が南天の幹の根元あたりで息を潜めているはずだ。
「わ」とわたしは時間の混成と重複、重奏に目眩がした。はっと気がつくと彼女がとなりにいる。私は縁側に彼女と並んで座っているのだ。あらためて彼女の眼をじっと見つめる
「え。なに?」
すっかり打ち解けた無防備な瞳にわたしの顔が写っていた。逆光で暗部が潰れてはいるが、それは紛れもないぼくの顔だ。きょとんと驚いたような、ちょっと見にはそこにアイデンティティを見出すのは困難だった。それはそう、ちょうど彼女に抱いたような感触、たしかに見知った顔だが、それを私と断言するにはいささか躊躇せざるを得ないような
「ここはどこなんだろう?」
彼女に言うともなく私は独り言ちた。それがほかのどんな言葉に置き換わったのか、わたしはもはや関知しない
了