あのひ
「小学生ん時。小五の時にさ俺、引っ越してきたじゃん」
「あー、うん」
今から十年前の話だ。
覚えているといえば覚えているけれど、言われなければ忘れてしまっているくらい昔の話。
ただ、私にとっては記憶に新しかった。
また、彼があの話をしたがっている。
それを考えると、もやっとしたものが心の中を横切っていくのを感じた。
「だから、前の家の話でさ。マンションだったんだけど、近くに公園があってさ。一本だけでっかい桜の木があった……って言ったよね?」
「うん、聞いた」
「だよな」
と、彼は照れくさそうに笑った。
「だからさ、どうしても思い出しちゃうんだよな」
二回目の、だから、の意味がわからないフリをするのは、一応気遣いのつもりだ。
私は、「そうなんだね」と頬を緩めた。
「あの子――」
とくん、と心臓が跳ねる。
「誰だったんだろう……。同じ学校じゃなかったと思うんだよ」
「違う学年だったんじゃない?」
私は、思わず視線が外に向いていた。
「かもしれないけど、近所に住んでたんならわかると思わない?」
「近所に何人小学生が住んでいたかによるんじゃない? あとは、近所付き合いとかでも、そういう認知度? っていうのかな、変わると思うよ」
「だけどさ、前の学校って一学年たった三クラスしかなかったんだぞ? ひとクラスが二十人くらいでさ、大してでかい学校じゃなかった。そこから近所に住んでる奴っていったら、さらに絞られるじゃん。覚えてるよ」
「そう、かもね」
人が絞られるから覚えていられる、と豪語できるほど彼の記憶力は良くない。あくまで一般的な脳みそしかしていないのに、これだけ強気なのだ。
さりげなくため息を窓にぶつけたけれど、彼は気づいていない。
「転校生だったのかな……」
「その可能性もあるかもね」
「桜咲いていたし、たぶんそうだよ。あの子、転校生だったんだ。うん」
「うん、かもね」
「だとしたらさ、何年生だったんだろ」
「どうだろうね。違う学年だったんじゃない?」
「かなあ……」
ぼんやりとつぶやく彼の視線が入れ違いに、外へ行く。
「その時はさ、その子のこと気にならなかったの?」
「そう言われてみれば……。そんなには気にならなかったのかな、よく覚えてない。ってことはそうなのか?」
腕を組み、首を傾げる彼の視線は、あちこちに吹っ飛んでいった。
こういうバカっぽいところに、私はほっとする。
「そうだと思うな。まだ、子供だったしよくわからなかったんだよ」
「よくわからない、ってなにが?」
「だから。その子が気になるとか気にならないとか、そういうところ」
「そういうもんかな」
「そうだよ」
そうかな、と言った彼はまた外を見つめた。
曇り空、川沿いの桜並木を行き交う人の群れは、三分の一くらいが歩いていて、残りの皆は立ち止まり、スマホ片手に並木の足元を埋め尽くしている。
強い風に長い髪は全部暴れていて、とても落ち着いて花見をできる状況じゃないと思うけれど、手に手に持たれた第三の目があれば関係ないのだろう。
「今日の風で、ほとんど散っちゃいそうだね」
「うん……」
気のない彼の返事が気になった。
ふと、彼の視線を追ってみると、空の色を吸ってくすんだ桜の花びらが風に踊らされている。
「……そういえば」
「うん?」
「あの日も、こんな感じだった」
「風が強かった?」
「いや、そうじゃなくて。たくさん、花びらが舞ってた。こう……ふわ、って」
「それって、風が強かったんじゃないの?」
ううん、と彼はまた首を横に振った。
「俺、家の中にいたんだ。宿題やっててさ」
「へえ、宿題とか、ちゃんとやるんだ。意外だなあ」
「うん。で、うるさくてさ」
「……風で?」
「いや、母親が」
「晩ごはんだったからじゃないかな。親ってさ、集中してる時に限って呼んでくることあるよ」
「たしかに、なんか騒いでた気はするんだけど。メシ、か。たしかになあ、そうだったかも。忍たま観る前に宿題やりなさいよー、って母親うるさかった――」
ふ、と彼の視線が正面に戻った。
驚いたような顔、は可愛くない。
「違う」
張り出た喉仏がゆっくりと押し上がると、彼は徐に残りのアイスコーヒーを一口に含んだ。
また、喉仏が動く。
「……なにが?」
じっと私を見つめる瞳が、小刻みに上下左右に揺れている。
彼が緊張しているのだと、手に取るようにわかった。
釣られてわたしも少し緊張していた。
「違うよ、俺、あの日、見たんだ。窓の向こう、で夕日が妙に明るくって。だから俺……UFOを、見たと思ったんだ」
「UFO?」
「そう、そうだよっ。で、あの子はUFOの光のとこに立ってたんだあ! だからだ……だからかあ。おれ、だからあの子のこと覚えてたんだ」
「…………」
そう。ならいいの。
「そろそろ行こっか。映画に間に合わなくなっちゃうよ」
興奮気味の彼を後目に、私はさりげなく、彼の飲み物を手に取った。