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episode:8-1【朝雲暮雨】

 あれから一色に何度も噛まれることでキスを回避することが出来たが……これで良かったのだろうか。

 噛まれる際に唇の感触を感じられたが、それもほんの一瞬で後は痛みばかりだった。今も内出血の跡が残っているし……。


 異能力で治癒が出来る男性、鈴鳴さんの治療を受けるために服を脱いで包帯を取ると、結構な数の噛み跡が残っている。


「……時雨くん、これ、どうしたの? 全身尋常じゃないことになってるけど」

「……あー、その、気にしないでいただけると」

「ええ……」


 気の弱そうな白衣の中年男性は傷の経過を見ながらもやはり歯形が気になるのかチラチラと歯形の方に目を向ける。


「……何か変わった異能力者と戦ったの?」

「いえ……何というか、その、彼女に噛まれまして。喧嘩とかではないんですが」

「……あー、そ、そう。ま、まぁ……色々あるよね、若いとね……直して大丈夫?」

「……いえ、まぁ放っておいてもらった方が」

「そう……うん。まぁ……他の傷はもう普通の治療に切り替えた方がいいかな。これ以上の副作用はね」


 軽く頭を下げる。なんとなくだが申し訳ない気分でいっぱいだ。とりあえずしばらくは異能力の治療は無理ということで外に出ると、珍しく一色が絵を描きもせずに待っていた。


 鎖骨のあたりの噛み跡をポリポリと掻いていると、一色はそれを見て満足そうに頷き、目を下に向けて思いっきり顔を顰めた。


「……やっぱり、跡残りますよね……」


 まどかを弾丸から守った時の手の平の傷痕。手の中央を貫いていて、一色を守った時の切り傷を上から抉っていた。

 それがよほど嫌なのか、ムッと表情を歪めていた。


 ……隠した方がいいのだろうか。いや、でも手を隠すのって夏場だと中学生男子みたいで恥ずかしいしな。


 俺が迷っていると、一色は拗ねながらも俺の手を握る。


「んぅ……アキトさん、今日はどうするつもりなんです?」

「あー、一応やりたいことはあるが、何かあるのか?」

「……えっと、お父さんと話をしようかと」

「……俺と?」

「アキトさんはお父さんじゃないです。室生さんのことです」


 病院の外に出て頰を掻く。

 正直なところ……一色と室生を合わせたくはない。


 室生の性格の悪さは知っているし、関係性の特殊さもあれば……一色が自画像を描けない理由も室生に原因がある。

 正直なところ、どうなるかが読みにくい。


「……何を聞きたいんだ? 聞けることなら代わりに聞いてくるが」

「……絵についてのことを聞こうと思っているので、直接じゃないと……難しいかもです」

「絵について?」

「……僕の絵には味がないです。僕自身が味を持っていないからというのも理由ではありますが、何かしらの技法で表現出来るかもなので」


 理由は分かるが……二人が会うのはやはり不安だ。あの男がマトモに会話をするとは思えない。

 しかし、一色の今後を思うと……ある程度、技量のレベルが近い人間との会話があった方が良くなるのかもしれない。


「……いいって言ってくれたらナデナデしてあげますよ?」


 迷った末に、頷く。頭を撫でてもらうのが目的ではなく、俺が見ていないところで会われるほうがよほど不安だからだ。


 近くにあったベンチに腰掛け、一色に頭を撫でてもらう。……それが目的ではないが、撫でてもらえるのならば撫でてもらうだろう。普通は。


「では、行きましょうか」

「……」


 一色はもう一度、俺の頭をよしよしと撫でた。



 ◇◆◇◆◇◆◇


 セーラに許可を得て室生と面談すると、彼は眠たそうに欠伸をしながら部屋に入ってきた。

 寝不足……ということはないだろう。軟禁されていて役目もなければ暇なはずだ。


 ……地下だから時間感覚が狂っているのか、時計なんて渡すわけもないしな。


「……あ、こんにちは」

「誰かと思ったら娘とその彼氏か。結婚の挨拶でもしにきたのか?」

「わざわざお前にするわけないだろうが」


 この前よりも幾らか身綺麗になっている。まぁ、浮浪者同然の格好から普通のおっさんになったぐらいだが。

 室生は椅子の上にあぐらを掻いて、眠たそうに机の上に肘を乗せる。


 寝ている最中に叩き起こされたのか、いつもよりも不機嫌そうに見える。


「ふむ……では、私に求婚でもしにきたのか?」

「用事があるのは俺じゃない」


 一色は話を振られてパタパタと動いてから小さく頭を下げた。


「え、えっと……なんと言いますか……その……」

「一色はストレス性の味覚障害を持っている。ストレス性で器質に問題はないのでいずれは治るかもしれないが、治る見込みがあるわけでもない」

「……ふむ、なるほど」

「それで、味を絵として表現する方法をお前に聞きたい」


 室生は一色の方に目を向けてから、俺の首元……おそらくは噛み傷に目を向ける。それにより何かを察したかのように薄く笑みを浮かべる。


「ふむ、まぁ色を知った祝いに教えてやろう」

「……? ありがとうございます」


 室生は指先をトンと机の上に乗せて俺に目を向ける。


「アキト。青色について語ってみろ」

「青色? 人間に見える可視光線の中で最も波長が短く強いエネルギーを持っていて、大気で拡散しやすいなどの特徴があるな」

「……いや、そういう話じゃなくてな。青色を知らない、完全な全盲の人間に説明してみろ」

「……爽やかな感じ?」


 室生は分かりやすくため息を吐く。


「アキトって馬鹿だなぁ」


 突然の無茶振りをしておいてコイツ……。俺が苛立っていると、室生はトントンと机を叩く。


「まぁ我が娘がやろうとしていることはそういうことなわけだ。【連作:シンリュウ】を見たところ、既に音や匂いや触感は描けるみたいだけどな」

「……はい。……いつもいつでも描けるということではありませんが。多くの絵は見た目だけです」

「私は調子が良くても触感が描けるだけだからな。味については私も描けない」


 室生はそう言いながらも、一色が机の上に置いていたスケッチブックとペンを手に取って、一色に問いかける。


「……一番好きな物を思い浮かべてみろ」

「えっ……あ、はい」


 一色は一瞬だけ俺に目を向けてから室生に視線を戻す。


「私に口でどんなものか説明してくれ」

「……えっと、アキトさんです」

「……そういうのではなく、特徴をだな」

「えっと、人間で、優しくて、かっこよくて、ちょっと可愛いです」


 室生はペンをスケッチブックの上に走らせる。


「つまりは君が好きなものはこれか」


 室生が描いたのは俺とは似ても似つかない誰かだった。


「えっと……全然違います」

「ふむ、例えが良くないな。主観に寄りすぎている。そうだな、人間でいい。人間について説明してくれ」

「……? えっと、二足歩行で会話とかしますね」

「つまりはこれだな」


 室生はニワトリの絵を描く。


「い、いえ、違います。背骨は横じゃなくて縦に向いていて、集団行動とかして……」


 室生はペンギンの絵を描く。


「えっと、体毛は薄くて……」


 続けて毛の抜かれたペンギンの絵を描きながら、ふんっと鼻を鳴らす。


「いくら細かく言おうとも、幾らでも違う物を描くことが出来る。けれども人は『人間』というだけで『人間』を思い浮かべることが出来る」

「……はい」

「結局のところ、人が何かを表現するには受け手側の知識に依存するわけなんだよ。我が娘は触感を表現することは出来ても、それは触感を知っている人間相手の話だ。触感を知らない人に触感を伝えることは出来ない」


 つまりは教えることは出来ないという……まぁ当然の答え。

 一色が小さく頭を下げると、室生は気にした様子もなく続ける。


「……イデアという物を知っているか?」


 一色が知っているはずもなく、代わりに俺が説明する。


「……美しいとは何かという問いに、人はそれぞれ別の物を答えるだろう。花という物を挙げるものもいれば、動物を挙げるかもしれない、好いた女性、虫、空、草木、海……。それらに共通点などあるはずもないが、だった一つ、人々の中に『美しい』という感覚だけはある。……あるいは先の人間のように人間と聞いただけで人間を思い浮かべることが出来る。それはイデアというものがあるからだ。……とか、そういう感じのものだったか?」

「そうだ。よく洞窟の影に例えられるが、今ならコンピュータのプログラムに例えた方が分かりやすいか。イデア界というコンピュータの本体があるが、我々が見られるのはモニターに映った映像だけという話だ。まぁ実際に紫外線を始めとして見えない光なんていくらでもあるし、肉体では感じられないものなど幾らでもある」


 室生は一色に言う。


「心は見えないだろう。描けないだろう。……感じられないものは描けない。近道など目指さずに、味覚障害が治るまで待てばいい」



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