episode:7-15【雨後の龍の子】
シャワーを浴びて身嗜みを整える。
一色相手に一般的な身嗜みがどれほど印象を良くする効果があるのかは分からないが……それでも、ぞんざいに扱っていないことぐらいは伝わるだろう。
……酒が飲みたいな。少し酔うことで緊張を誤魔化したい。
そんなことを思いながら部屋に入ると、一色は一心不乱に絵を描いていた。絵の具でベトベトになっている手先や顔や髪の毛。
俺ばかり緊張してしまっていたのかと思ったが、すぐに違うと気がつく。
無意味にたくさん並べられたコーヒーと、描いたまま粗雑に放置されたたくさんの絵。……一見いつも通りの一色ではあるが……いつも通りに振る舞おうとしているだけだ。
俺が入った瞬間に一色の手がびくりと震え、描いていた絵に変な線が走る。
「あ、アキトさん、あ、えっと……す、すみません。手とか、洗ってきます」
「一色」
「えっ、あっ、は、はい」
俺の横を通り過ぎようとした一色の小さな手を握る。
びくっと一色の華奢な肩が揺れて、あどけない顔が振り返った。
一色の手を握ったせいで手が絵の具で濡れて、生々しい一色の体温が伝わってくる。
「……その、初めて会ったときから、なんだかんだと時間も経ったよな」
「……んぅ? はい、そうですね」
「一色は、俺と一緒にいて幸せだったか?」
驚いたような一色の表情。それでも一色は迷うことなくコクリと頷く。
「はい」
「絵を描く時間が減っただろ」
「はい」
「飯を食えとか、決まった時間に寝ろだとか、色々と小煩く言っただろ」
「はい」
「いやじゃなかったか?」
「……アキトさん」
一色の絵の具の付いたままの手が、俺の頬に触れる。
「何度も心配をかけて、何度も泣かせて、後悔はなかったか?」
「……アキトさんが思うほど、僕は子供じゃないです。嫌だったら、嫌だって言えます」
ほんの少し安心して息を吐き出すと、一色の心配そうな顔が俺の顔を覗き込む。
「大丈夫ですよ。……何があっても、嫌いになったりしませんから」
子をあやす母のような優しげな笑み。幼い顔には似合わない表情だ。それが、ついぞこれまで俺に向けられたことのない物であると理解する。
一色の「ね?」と俺に言い聞かせるような言葉。俺は一色から手を離し、近くにあった椅子に座る。
「洗面台先に使ってくれ。俺は後で洗うから」
「えっ、あ、はい」
一色が去っていくのを見て、俺は思いっきり溜息を吐いた。深く深く溜息を吐きつつ「うぁー!」と適当に声を出して羞恥を誤魔化す。
「……正気か、正気なのか、俺は」
一色にあんな甘やかされるみたいな言葉を言わせて……心底ほっとして、一色に甘えそうになるなんて……。
もみじの、妹の言葉が頭に過ぎる。
『お兄ちゃんにはおっぱい大きい女の子の方がいいと思うの』
あれはもみじ自身の欲望のためだと思っていたが……もしかして、本気だったのか? 本気で俺のことを思っての発言だったのか?
もみじは自分が、両親からの愛情不足により父性や母性を異性に求めていることを理解して、兄である俺も同様に異性に母性を求めていることを察知していたからあんなことを……?
途中から一色との結婚を応援しだしたのも一色の中には無償の愛に気がついて……!?
まさか、自分のことを自分以上に妹に理解されていたのか。
いや、まさかだな……。アイツはアホだし。
一色が戻ってきたのを見ていると違和感に気がつく。……右手と右足が同時に前に出ている。俺と目が合い、左手と左足と右手が同時に前に出る。
……いや、緊張していてもそうはならないだろ。
ガチガチになりすぎていて関節がなくなっているかのようにカクカクと身体を動かし、ベッドにポスリと腰を下ろす。
求婚は気にすることなく受け入れてくれるのに、キスはこうなのか。
……いや、一色からすると特に気にしていない戸籍が変わるのよりも、実際に身体が触れ合う方が大きな出来事か。
洗面台に行き、絵の具の付いた手と顔を洗う。
……よし、もう大丈夫だ。一色に見た目よりも大人っぽいところがあるのおは確かだが、俺の方がまだ大人である。
気合を入れ直して一色の待つ寝室に向かう。今の俺は完璧に大人である。巧みな話術で一色のハートを掴みつつ、キスは回避してみせる。
部屋に入り扉を閉めて、念のため鍵を掛けて周りを見回す。まどかはいない。落ち着き払って一色の隣に向かうと、彼女は赤く染まった顔を俺に向ける。
「……アキトさん、歩き方おかしくなってますよ」
「…………ナンバ走りの練習をしていただけだ」
苦し過ぎる言い訳をしながら、一色の隣に座る。
柔らかいマットレスが俺の体重で沈み、一色の座っているところが斜めになったせいで、こてんと一色の肩が俺の肩に触れる。
「……あ、あの……アキトさん、ちゅーってしたことありますか?」
「……いや、ないな」
一色はホッとしたように胸を撫で下ろす。
「良かったです。……あれ、何で良かったんです?」
「……自分のことなのに、俺に聞くなよ」
一色はまだ自分の感情の名前を知らないのか、不思議そうに首を傾げる。
「嫉妬だろ。俺も、一色が他の奴と話してるとする」
「……なるほど、これが、嫉妬……ですか。興味深いものですね」
なんか敵キャラみたいなことを言い出したな、コイツ。
「……どうやら、僕は、怪盗さんに嫉妬しているみたいです。セーラさんにも」
俺が一色の言葉に驚くと、彼女は続ける。
「見た目がちんちくりんで魅力に欠けるというのもありますが、それと同様に能力に強い嫉妬を覚えているみたいです」
「……人には人の得手不得手があって当然だろ」
「僕は歩くのさえ下手ですし、走ったらまず転けます。勉強なんて出来ないですし、考えても考えても及ばないです」
一色はそのまま俺の方に目を向ける。
「……アキトさんにも、嫉妬しているみたいです。僕にない多くを持っています」
だから、と一色は続ける。
「あなたが欲しい」
一色は俺の身体を服越しに掴んで、逃がさないことを示すように指を立てて強く握り締める。
「怪盗さんじゃなくて、僕を選んでください。僕だけを、女の子として扱ってください」
掴んでいたところに痛みを感じる。一色の表情に映るのは、今まで感情的になったときに見せていた、動物じみた暴力性だ。
誰にでもある、力で欲しいものを奪い取ろうとする動物じみた行動。
上手な体の動かし方なんて知らないのだろう。力のない華奢な身体を俺に被せて、ベッドの上に押し倒す。
引き離そうと思ったが、爪が立てられていて信じられないぐらい力を込めている現状。無理に引き離したら一色の爪が剥がれてしまうのではないかと考えてしまう。
「好きです。あなたのことが、大好きなんです」
一色の身体が俺の上に乗る。ベッドの上に置いていたエアコンのリモコンのスイッチに手が当たり、ピッと音を立てる。
「俺も一色のことが好きだ」
「じゃあなんで、ちゅーするのを嫌がるんです。分かってます。今も断るつもりなのを」
「……それは……そうだが」
「分かってます。僕の「好き」という言葉を信じてないんです。すぐに移ろうものと思っているんです」
一色は真っ直ぐに俺を見る。
「そんなことは……」
「僕はアキトさんのことが好きです。嘘なんて吐きません。勘違いでもないです」
「いや……そうじゃなくて……」
キスなんてしたら、抑えが効かなくなる。
そもそも、ベッドの上でこんなに触れ合っているだけでもう抑えるのに必死だ。




