第八話 禁断の果実を貪るような
「はい、あーん」
「ひゃっ、ひゃい!」
後ろから、甘い匂いを擦り込むようにくっついているレイに食べさせてもらう形であった。有無を言わせぬ強制力。気がつけば従ってしまう空気。おそらくこれこそが権力者の素質なのだろう。ただそこにいるだけで周囲を引っ張り回す引力にピーチファルナは流されていく。
昨日と同じような構図ではあったが、違いは二つ。
一つ目は後ろから抱きしめられていることでレイの体温や柔らかさが直に感じられること。
そして、もう一つ。
レイの体温や柔らかさを感じることで目が覚めてしまうのか、昨日のように料理の味に思考が吹っ飛ぶことがなかった。そのため食べさせてもらっている現実をダイレクトに認識できてしまうのだった。
簡潔に言おう。
メチャクチャドキドキする。
「れ、れいっ、レイしゃんっ。わたし大丈夫だから、自分で食べられるからあっ」
「くふ、くふふ、くふふふふふふふっ☆」
「レイさん? 聞いてるレイさーん!?」
漆黒の美女の体温や柔らかさが侵食してくる。心臓がドキドキと暴れて、思考が霞む。味覚が腰砕けになったかのように正常に機能していなかった。
優しく、甘く、屈服していく。
ーーー☆ーーー
それは机を埋めていた料理の半分ほどを食べ終わった頃だったか。うなじに顔を埋めるような形のレイ=レッドスプラッシュがこう囁いたのだ。
「ねぇピーチファルナちゃん。私もご飯食べたいでごぜーます」
だから、と。
甘く、甘く、こう続いた。
「私もピーチファルナちゃんに食べさせてもらいたいでごぜーます」
…………。
…………。
…………。
「ぅえ!? わっわたしがレイさんに食べさせ、ええ!?」
「私はやったのに、ピーチファルナちゃんはやってくれないでごぜーますか?」
「いや、だって、わたしは、ええとっ」
するり、と。
滑らかな動きがあった。
ピーチファルナでは結果しか認識できないような動きでもって体勢が『変わる』。
椅子に腰掛けるレイ=レッドスプラッシュの後ろにピーチファルナが立つ形であった。
そう、それは、つまり、
「身長差があるから、膝に乗るまでは一緒でなくていいでごぜーますよ」
「……、後ろから抱きついて、食べさせる感じ?」
「そんな感じでごぜーます」
「へえ……ふへえ!?」
びっくんと肩を震わせるピーチファルナ。
なんだかとんでもない話になったと、公爵令嬢の後ろ姿を見つめる庶民代表。
じゅわり、と甘い匂いが鼻腔をくすぐる。漆黒のドレスを侵食するように黄金に輝く髪が垂れ下がっていた。ちらりと覗く首筋は白銀の雪景色のように無垢な美しさを誇る。
まるで厳重に保管された芸術品のようだった。ただそこにあるだけで価値あるものだと確信できる、極限の美であった。
そんな美女に、抱きつく?
先ほどまで抱きつかれてはいたが、それにしても……、
「無理、無理無理無理だって! 抱きつくって、ええ!?わたしが、レイさんに? そんな恐れ多いことできないよっ」
「……、そうでごぜーますか」
ぐちゅっ、と。
苦味を催すような声音だった。
「私に抱きつくのは嫌でごぜーますか。なら仕方ないでごぜーますね」
「……え?」
続く。
溢れる。
「先ほどもピーチファルナちゃんは嫌々付き合ってくれていたのでごぜーますのね。私なんかに抱きつかれて不快だったのに、我慢してくれたのでごぜーますね」
「えええ!? いや、違っ、そうじゃなくて──」
「無理しなくていいでごぜーます。私、ピーチファルナちゃんが嫌がることをしたいのではないでごぜーますから」
後ろ姿が小さく感じられた。
レイの身長はピーチファルナよりも高い。見上げないと顔が見えないほどの身長差はあるのだ。
なのに、小さいと感じられた。
落ち込んでいる、と言い換えてもいい。
そのことに気づいた瞬間、ピーチファルナは叫んでいた。
「違うんだってっ。わたし、レイさんに抱きついてもらって嬉しかったの! メチャクチャドキドキしたんだから!!」
「…………、」
「さっきのは、その、恥ずかしかったっていうか恐れ多いっていうか。とにかく! レイさんに抱きつかれるのも抱きつくのも最高だから! どんどんしてもらいたいくらいだから!!」
「…………、くふふ☆」
──後ろ姿しか見えないためピーチファルナは気づいていなかったが、その時レイ=レッドスプラッシュは本当に幸せそうに表情を綻ばせていた。
甘く、甘く。
ドロドロと蕩けるように。
ーーー☆ーーー
なんだか一段落ついたような雰囲気であるが、別に何も解決してはいなかった。誤解は解けたが、解けたら解けたで難問が立ち塞がってくる。
つまりは、
「それじゃよろしくでごぜーます」
「うっ。本当に、やるの?」
「抱きつかれるのも抱きつくのも最高なら問題ないはずでごぜーます。もちろん嫌だというなら無理強いはしないでごぜーますが」
「嫌なんかじゃないから! でも、う、ぐうう!!」
黄金のようにキラキラと輝いていて、雪景色のように微かな汚れもない、知識なき者でも価値あるものと理解させられるほどに美しき女へと後ろから抱きつく。名画を素手でベタベタ触るような、ある種の後ろめたさはあった。
だからといって抱きつかれるのも抱きつくのも嫌だと思っている、なんて勘違いをされるわけにもいかない。そんな誤解が原因で離れたくないし、嫌われるのなんて絶対に嫌である。
だから。
だから。
だから。
「い、いくよ、いっちゃうからねっ」
「どうぞ、でごぜーます」
「う、ううう、……うんにゃあああっ!!」
がっばぁ!! と積もった雪に飛び込むような勢いで漆黒の美女へと抱きつくピーチファルナ。じゅわり、と甘い匂いが強く深く染み込む。甘く、甘く沈みそうになる。
ふわあ、と意図せず声が漏れていた。
抱きつかれるのも最高だったが、抱きつくのも最高だった。
極限まで磨き上げられた価値あるものを手中に収めたような多福感。ドロドロとした甘い蜜の中に沈むような甘美な衝撃。
どこもかしこも甘い。
甘くて、甘くて、甘くて、
「ピーチファルナちゃん。食べさせてくれないでごぜーますか?」
「ひゃっひゃい! いきますひゃいっ!!」
完全な操り人形であった。
漆黒の美女の言葉に問答無用で身体が反応する。言いなりとなることに肉体が喜びを感じているほどだった。
切り分けられた肉をフォークで刺す。
そのままレイの口元に持っていこうとするが……フォークどころか全身がプルプルと震えていた。緊張、ではない。歓喜を受け止めきれず、震えているのだ。
ゆっくりと、時間をかけて、何とか口元まで持っていく。後は一言告げるだけである。
「あ、ああっ、あぁーんっ!!」
「くふふ☆ あーん」
くちゅり、と開かれる唇。
微かな、普段であれば絶対に聞こえないような小さな音までピーチファルナは捉えていた。上唇と下唇が離れた、その音を。
口までは見えない。
見えないのに、見えないからこそ、心臓がばくばくと暴れていた。レイが口を開いているのだと、赤い舌や口内が晒されたと、そう思うだけで甘い刺激が走る。
もうヤケクソだった。
全力を振り絞らないと、どうにもならなかった。
甘い刺激に痙攣する肉体を奮い立たせるように、勢いよくレイの口へとフォークを突っ込む。