第七話 微睡みの底に蠢くもの
お母さんはいつも笑っていた。
お裁縫もお料理もお掃除も、家事全般をまるで魔法のような鮮やかさでこなす自慢のお母さんであった。その腕は庶民ながら領主の娘専属のメイドに抜擢されるほどである。
──家に帰ッザザ、ピーチファルナは静かすぎるザザに嫌な予感を覚えた。
お父さんは寡黙な人だった。
いつもむすっとした顔をしていたが、娘の誕生日にはプレゼントを用意しすぎてお母さんに怒られるくらいにはピーチファルナを愛していた。単に顔に出にくい、不器用なだけで。
──ゆっくりと扉をザザザ! 中にザッザ……ファルナを出迎えザザザ、天井から伸……ロープで首を吊っザザザザッザ!!
幸せだった。
特別なんてどこにもない。ただただありふれた、どこにでもある普通の家庭だった。それだけで、それこそが、幸せだった。
領主暗殺を目論んだ罪。
そんなものが広まったことで、普通は崩壊した。
両親はそんなことしようとしていなかったと、ピーチファルナは今でも確信している。お母さんは領主の娘のことをまるで自分の子供のように自慢げに話していた。そのことに嫉妬がなかったかと言えば嘘になるが、だからこそそんなお母さんが領主暗殺なんて目論むわけがない。お父さんだってそうだ。あんなにも不器用に、それでいて深くピーチファルナを愛してくれたお父さんが領主暗殺に手を出すわけがないのだ。
理路整然とした理由なんてない。
こんなことする人じゃないと思っていた、なんてのは犯罪者の印象を聞いた時によく出てくる言葉だ。ゆえに印象だけでやっていないと判断するのは間違いなのだろう。
だけど。
だけど。
だけど。
──ザザザ、とザッザザザ、ザッザザ! ザザザザザ……ザザザ!! ザザをザザザッザ!!
両親は絶対に領主暗殺など目論んでいなかった。
ピーチファルナはそう信じている。
ーーー☆ーーー
「ピーチファルナちゃん」
「むにゅあ……むにゃふにゃ」
じゅわり、と甘ったるく、粘っこい蜜のような甘い香りが鼻腔をくすぐる。ふわふわと微睡みを揺らすように。
「くふふ☆ かわいいなぁ」
「むにゅう……」
ぷにぷにと頬に広がるひんやりとした感触。揉みしだかれていると把握できるだけの思考能力は眠りについている。
「ああもう、本当かあわいいなぁーっ!!」
「ふみゅう……はにゃあ!?」
ぎゅう!! と全身を包む甘美な衝撃に、ふわふわとした微睡みが吹き散らされた。睡魔を飛ばすほどの勢いでレイ=レッドスプラッシュが抱きついてきたのだ。
ばちくりと目を瞬き、ふあっと欠伸までこぼして、ようやく思考が正常に回る。現実を認識する。
待っている間に眠り込んでいたようだ。
そう、公爵令嬢に料理を作らせておいて、である。
「あ、あのっ、わたし、うわあ寝ちゃってたーっ!? ごめんねレイさんっ」
「くふふ☆ 別にいいでごぜーますよ。かわいいもの見れたでごぜーますから」
「かっかわっ、え!?」
「かわいい寝顔だったでごぜーますよ。よだれまで垂らしちゃって、くふふ☆」
「ふにゃ、にゃにゃにゃあーっ!?」
ポンッ! と瞬間的に顔を真っ赤にして、漆黒の美女の腕の中でごしごしと口元を拭う。『もったいないでごぜーます』という甘い囁きが聞こえた気がしたが、気のせいだろう。……気のせいに決まっている。
「ピーチファルナちゃん、ご飯ができたでごぜーますよ」
「ご、ご飯、……わっ、わあーっ!」
立ち込める食欲をそそる匂いへと視線を向けると、家族三人で食卓を囲めるくらいの大きさはある机いっぱいに料理が並んでいた。
肉や魚や野菜などの多種多様な食材を焼いて、煮込んで、茹でて、冷やして、揚げて、炒めて、と様々な調理方法を施した料理の数々である。
キラキラ輝くそれらを目にすれば、どれだけ手間をかけてくれたか分かるというものだ。
……公爵令嬢に何をさせているのだという話だが、そんな考えが頭から抜け落ちるくらいには破壊力のある光景だった。
ぐう、と。
寝起きだというのに、腹の虫が活性化していた。甘い蜜のような匂いに負けないくらい、暴力的な食の匂いに肉体が覚醒したのだ。
「レイさん、凄い、メチャクチャ美味しそうっ。たっ食べて、食べていい!?」
「もちろんでごぜーます。……ああ、でも一つだけ。椅子が一つしかないみたいでごぜーますね」
「あっ……。わたし床でいいか──」
「だから、くふふ☆ 仕方ないでごぜーますよね」
するり、と滑らかな動きがあった。
抱きついた状態からどう動いたのか、仮にも冒険者であるピーチファルナが認識できないほどの挙動でもって、一つしかない椅子にレイ=レッドスプラッシュが腰掛けたのだ。
膝の上にピーチファルナを乗せる形で。
「一緒に座って食べないとでごぜーますね」
「え、ええと、いやっ。わたし床でもいいし、何なら立ち食いでもいいからっ」
「くふふ☆ いいから、いいから。一緒に座って食べるでごぜーますよ」
後ろから覆いかぶさるような形で抱きついてくる漆黒の美女が耳元で囁く。甘く、それでいて一種の強制力さえ滲む声音で。
侵食する闇のような底知れぬ声に、気がつけばピーチファルナはこくこくっと勢いよく頷いていた。