第一話 甘い蜜のような貴女
ピーチファルナは冒険者である。
幸か不幸か、彼女には魔法の才能があった。街の周囲に生息している低級魔獣であれば一撃で粉砕できるだけの力があったため、冒険者として魔獣退治の依頼をこなすことができていた。
冒険者ギルドは『問題さえ起こさなければ』どんな経歴の持ち主でも仕事ができる。だからこそ、ピーチファルナは冒険者として働いている。好んで、ではなく、選択肢がなかったから仕方なく、ということだ。
「きゃははっ! まだ生きていたのですわねっ」
「……っ」
びくり、とピーチファルナの肩が跳ね上がる。
街の周囲に蔓延る低級魔獣を倒して、毛皮や牙を換金した帰りのことだった。豪勢な縦ロールが特徴的な、派手で高そうな衣服に身を包んだ女に声をかけられた。
彼女は領主の娘だった。生まれながらにして望むものを望むだけ手に入れている、恵まれし者だった。
同年代だというのにボロ布のような古着を着ているピーチファルナと比べるだけでもどれだけ恵まれているかは分かるというものだ。
「犯罪者の娘がよくも堂々と街を歩けるものですわね。我が屋敷で働きつつ、我が父を殺そうと画策した者共の娘らしいですわ」
「……っ」
数年前のことだ。
領主の屋敷で働いていたピーチファルナの両親が領主暗殺を目論んでいたと嫌疑をかけられた。その後両親は自殺した。
真相は闇の中。
両親に確認することもできない。
それでもピーチファルナは信じていた。優しかった両親は領主暗殺など目論んでいなかったと。
だから。
お父さんもお母さんも領主暗殺なんて目論んでいなかったと、目の前の女に言ってやりたかった。
だけど。
領主の娘に楯突いてもろくな目に合わないことを知っていた。知っていたから、我慢した。
そうやって理性的に怒りを封殺できる自分が、ピーチファルナは大っ嫌いだった。
「きゃははっ! ……何よ、その目は」
領主の娘の手が伸びる。
胸ぐらを掴み、引き寄せる。
「犯罪者の娘らしいですわね。わらわを睨みつけるだなんて。何か言いたいことがあるなら言ってごらんなさい。ただし、いかに死んだとはいえ犯罪者は犯罪者。庇うなら相応のリスクを背負う必要がありますが」
「ぐ、ううう!!」
いつからだろうか。
大切な両親の名誉よりも、自分の身を守るようになったのは。
何も言えなかった。両親の潔白を証明する証拠がないだとか犯罪者を庇うことは『罰となる』だとか、そうやって理由を並べて、何も言えないことが情けなかった。
あまりにも情けなくて、涙が溢れそうだった。
ギヂリと奥歯を噛みしめる。押さえつける。せめてそれだけはと、絶対に泣いてやるかと、強く強く。
その。
瞬間のことだった。
「喧嘩でごぜーますか?」
じゅわり、と甘ったるく、粘っこい蜜のような甘い香りが広がった。
シンプルな漆黒のドレス姿の、寒気さえ走るほどに凍えた空気を纏う女が近づいてくるところだった。お金をかけて着飾った領主の娘のようにごちゃごちゃと身につける必要はない。黄金のごとき鮮やかな金髪も、深淵に揺蕩う闇のごとき深き瞳も、鎧さえも貫く鋭利な槍のごときスレンダーな身体も、余計な装飾を必要としない真なる美を形成している。
レイ=レッドスプラッシュ。
レッドスプラッシュ公爵家が長女であった。
こんなありふれた街には不釣り合いな、本物の令嬢である。第一王子の婚約者にして、将来の王妃となることが確約された、領主の娘よりもなお恵まれた者である。
最近この街にやってきた天上人。
領主の娘も権力者ではあるが、公爵家という巨大な権威に加えて未来の王妃という付加価値さえも内包したレイ=レッドスプラッシュには遠く及ばない。
「くふふ☆」
十七歳とは思えない完成された美の持ち主は染み込むように笑みを広げる。美しさを内包した、それ。完璧な笑顔が、しかしぞわりと足元から這い寄るような恐怖を招く。
「仮にも領主の娘が庶民相手にまさか、でごぜーますよねえ?」
「くっ」
眉根を寄せ、何事か言いかけ、深淵のごとき黒き瞳に見つめられて、領主の娘はびくりと全身を震わせる。相手は未来の王妃。いかに領主の娘といえども楯突けばどうなるかは目に見えている。
「私、そこの女の子に用があるでごぜーますの。もしも急ぎの用事がないなら、立ち去ってくれるでごぜーますか?」
「ちょっと待っ……!!」
「ん?」
「い、いえ、分かりました」
反論なんてできるわけがなかった。
たかが一つの街の領主の娘と未来の王妃になることが確約している公爵令嬢では力の差は歴然なのだから。
領主の娘が不機嫌そうに立ち去った後、レイ=レッドスプラッシュはピーチファルナへと視線を向ける。先ほどまでの凍えるような恐怖は消えていた。柔らかく目を細めて、
「大丈夫だったでごぜーますか?」
「ひゃっひゃい! あの、その、公爵令嬢しゃまが、えっと、わたし、あの、ひゃわわっ!!」
「くふふ☆ 落ち着くでごぜーますよ」
「いやでも、公爵令嬢様で、わたしはそこらの庶民で、あのこうやって話すのっていいのかな、礼儀作法とか、あの……っ!!」
ピーチファルナはあわあわ両手を振り回して、意味もなく周囲を見渡していた。もう完全にパニック状態なピーチファルナへと公爵令嬢にして未来の王妃はゆっくりと近づき、そのままぎゅっと抱きしめた。
「あ、あわっ、ひゃわわ!?」
「深呼吸して、冷静になって、感じるでごぜーます。肌の暖かさも心臓の鼓動も貴女と同じものでごぜーましょう? 公爵令嬢だろうが何だろうが関係ないでごぜーます。私も貴女も同じ人間でごぜーます。ですから、ね? そんなに緊張することないでごぜーます」
「あ、あの、その……」
天の上の相手のはずだった。
こんなありふれた街には不釣り合いな、それこそおとぎ話のお姫様のような住む世界が違う女のはずだった。
そんな人に抱きしめられていた。
伝わる熱も、鼓動も、確かに同じだった。
ピーチファルナと同じ人間だった。
認識して、理解して、感じて。
だからこそ、耳元で囁かれた声に鼓膜が痺れていた。甘い吐息が触れるだけで背筋が喜ぶように震える。
現実感はなく。
しかし身体には強く深く刻まれる。
なんだかふわふわと夢心地なまま、感情のままにピーチファルナは言う。
「助けてくれて……ありがとう」
「くふふ☆ どういたしまして、でごぜーます」