殺し屋の日常の一幕
「……またか」
諦め半分、呆れ半分で呟きつつ、ニーナはベッドから身を起こした。
枕もとの時計を見ると、目覚まし時計が鳴る2分前だった。
「部屋を間違えるのは良いけど……抱きつくのは何故なのか……」
スヤスヤと寝息を立てている同居人兼友人兼同僚である、マヌエラ・スアレスに布団を掛け直してから、目覚まし時計のスイッチを切る。
「むにゃ……」
「そして、また酒を飲んだ……昨日は休肝日って言ったのに……」「ぐぅ……」
間抜けな声を漏らすマヌエラだが、見かけ通りの人物ではないとニーナはよく知っていた。
なにせ、彼女に気づかれないように部屋に入り、さらには朝まで気づかれぬまま抱きついているのだから。
「普通じゃない……」
マヌエラが南米の左翼ゲリラでも腕利きだったのは知ってるし、実際そうだと理解している。
しかし、それにしてもニーナが気づかないというのは異常と形容できた。
「私が緩んでるのか……マヌエラがすごいのか……」
もしくはそのどっちもか、という意外に大きな問題であるのだが……
「まあ……良いか」
本当のところではニーナにとって、文字通り小さなことだ。
抱きつかれると寝苦しくはあるが、春先である今ならば暖かいというのがその大きな理由。
ただし、夏場には非常に寝苦しくなるのと予想されるは問題ではある。
「とりあえず……ご飯を作る……」
脱衣所兼洗面所で顔を洗い、歯を磨き、服を着替えてキッチンへと向かう。
もちろん、その途中でリビングのカーテンを開けるのも忘れない。
この4LDKの広めのマンションにはニーナを含めて三人が住んでいるが、その中で最も早起きなのは彼女だ。
「今日は……トーストと、サラダに……卵焼き……スープはどうしよう……コンソメ使って……ベーコンと玉ねぎを入れよう……」
朝から重いかもしれないが、これくらいじゃないと足りないのも事実だ。
なにせ同居人たちはよく食べる。健啖家という形容がふさわしい女性たちなのだから。
「朝ごはんは……大事」
そう呟きつつ、ニーナは左腕に義手をつける。
ちなみに彼女が義手をつけるのは、料理の時だけだ。
「にゃ~」
調理を開始しようとした時、ニーナの足元にすり寄る影があった。
「トトも……ごはん?」
ニーナに甘えるように体を擦り付けているのは、この部屋で飼われている犬のトトだ。
とは言っても、地球にいる犬とは異なり、尻尾が二本あるのが特徴的ではある。
その代わりに、この犬には左の前足がない。
ただし、それは先天的なものではなく後天的なもの。つまり、人間による虐待の跡だ。
「にゃ」
「分かった……ちょっと待つと良い」
エサ入れをトトの前に置いてから、そこにドッグフードを入れてやる。
「にゃっ!」
「うん……いただきますは、大事」
ニーナにとって、先のトトの鳴き声は「いただきます」に脳内変換されている。
彼女自身としては、この愛犬との会話は完璧に成立している自負があるのだ。
それはこの世界に来たからこそ覚えられた、素敵な魔法なのだろう。
ジェレミーあたりに言ったら、笑われてしまいそうだが。
「よし……今日も一日……頑張る」
そして、ニーナは改めて朝食を作り始める。
実質的には片手しか使っていないものの、彼女の調理は非常にスムーズなものだ。
両手が使えるはずの同居人とは、雲泥の差と言える。
もちろん、その同居人が極度の料理下手ということも大きいが。
とにかく、ニーナは料理が得意だし、大好きだとこの世界に来て知ることができた。
地球においても料理をしたことはあるが、それとは丸っきり違う感覚を抱くのだ。
自分の作った料理を食べた人が、美味しいと言ってくれる。
そんな小さなことが、ニーナにとっては特別なことなのだから。
「マヌエラは甘い卵焼きで……フロールは出し巻き……」
同居人の嗜好に合わせるのは、ニーナにとっては面倒なことではない。
むしろ、それを知れたことが嬉しいとすら言える。
とにかく、こんな感じで元殺し屋の少女は異世界生活を過ごしていた。
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「…………おはようございます」
やがて料理が完成すると同時に、同居人たちが起き始めた。
最初にリビングに姿を現したのは、ニーナの友人兼同居人兼保護者兼上司であるフロール・オルゾンだった。
蜂蜜色の髪に、白磁のような肌、理知的な容姿が特徴的なのだが……今はただのだらしない独身女性でしかない。
唯一いつもと同じなのは、常に他者に対して敬語を用いているのと、眼鏡かけているくらいだろう。
これでしっかりと目覚めれば、すれ違う男が振り返るような、美麗なキャリアウーマンなのだが……
「ん……おはよう」
膝に乗せたトトを右手で撫でつつ、ニーナは軽く挨拶を返す。
元軍人であるフロールだが、朝が致命的に弱い。
それでよく軍人、しかもエリートと呼ばれていたなとニーナですら、思わなくもない。
「フロール……お風呂に入ると良い」
もちろん、お風呂を入れておいたのはニーナだ。
目覚めの入浴をしないと、フロールのエンジンがかからないことは、この半年強の生活で理解していた。
「…………はい」
返事にかかった時間を考えると、今朝のコーヒーはいつもよりも濃いめにしておいた方が良さそうだ。
時刻は朝の7時30分。始業時刻の100分前。
ちなみに、ここから職場までは車で10分の距離だ。
「ふわー、よく寝たー。ああ、ニーナちゃん、ごめんっす。寝ぼけて部屋に入っちゃって」
フロールの後に起きてきたのは、ニーナに抱きついていたマヌエラであった。
褐色の肌に長い黒髪、黒曜石のような静かな黒い瞳。
ただし、特徴的な口調が、それらをスポイルしているとニーナは思っていたりする。
「マヌエラ……寝る時は……自分の部屋で寝ると良い……」
「むっ、ニーナちゃん的には、嫌だったっすか?」
そう問われれば、ニーナとしても困ってしまう。
嫌なら部屋のドアにカギをかけるし、それ相応のトラップを設置するのも手段の一つだろう。
「嫌かどうかと言われれば……嫌じゃない……でもそういう問題じゃなくて……あと、お酒は……」
喋るのが決して早くないニーナが、言葉を続けようとするのだが──
「それなら、問題ないっすね。ほんじゃあ、自分は顔洗ったり色々としてくるっす!」
「良いとは言って……って、逃げた……」
シュタっと手を挙げてから、洗面所へと向かっってしまうマヌエラにはニーナの声が届くはずなどない。
「にゃ~」
「そうか……トトは、私を慰めてくれるのか……」
「にゃっ!」
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「ふぅ……ごちそうさまでした」
「ごちそうさまっす」
「にゃ~」
「お粗末様でした……」
同居人たちの言葉に、静かで抑揚のない声で答えるニーナだが、内心はウキウキしていたりする。
今日は良い一日になりそう、そう思ってしまうほどに。
「ニーナちゃん、明日の朝ごはんは和食でお願いしたいっす」
ついでに言えば、こうやってリクエストを受けるのが、一番嬉しいのだ。それよって、自分が二人に必要とされていると実感できるのだから。
「ああ、良いですね。ニーナと宗冬が生まれた国の料理は、非常にあっさりしていて美味しいです」
もちろん、この世界にも和食と同じような料理は存在する。
食文化が単一なほど、異世界とは狭くないし多様性がないわけじゃない。
それでも、ニーナの作る料理は、どこかこの世界のものと異なる印象を与えるらしい。
「みそ汁の具は……何が良い?」
繰り返すがこの世界にも味噌は存在し、何故かは分からないが地球と同様に「味噌」と形容されている。
これに関してはニーナの同僚であるジェレミーが、色々と考察していたが……彼女にはあまり興味のないことだった。
無視をすると彼が悲しそうにするから話は聞いてあげてはいるところが、彼女の優しいところであろう。
地球とは異なる人種が生活し、「魔法」もそれなりに存在する世界であるが、ニーナにとってはその原理や仕組みなど興味がなかった。
と言うよりも、魔法なんて日常生活で目にすることが、ほとんどないというのが現実だ。
とにかく、大事なのはこの世界が自分にとって大切であり、そこにある理論や仕組みシステムは、彼女にとって付属品でしかない。
(ジェザは……それを考えるのが楽しそうだけど……)
まあ、人の趣味嗜好はそれぞれだから、自由にするのが一番だとニーナは思ってはいる。
ただし、それに他人を巻き込まない方が良いとも思う。
「自分はシジミが良いっす」
「……二日酔いを前提とした……リクエストは……ダメ」
三度の飯よりも酒が好きな友人のリクエストを、即座に却下するニーナ。
「私は豆腐とわかめのシンプルなものが良いです」
「……分かった……それにする」
豆腐もわかめも冷蔵庫にあるから、特段買い出しをする必要はないだろう。
後は焼き魚と漬物と……ああ、ご飯を炊いておかないと。
などと翌朝の献立を考えるニーナだったが、その思考は無機質なスマホの着信音で打ち切られることになる。
「おはようございます、局長」
1コール目で電話に出たフロールが、やや緊張した声色で挨拶をしている。
ニーナが知る限りでは、彼女がここまで緊張感を露にするのは、「局長」と呼ばれる人物だけだろう。
「了解しました。すぐに三人で向かいます」
簡潔な通話を終えたフロールは、ゆっくりと立ち上がる。
ニーナとしては、もう少し食後のお茶を楽しみたかったのだが、仕事となれば仕方がない。
「ほんで、フロールちゃん。今日の事件は?」
「陸軍隊員の死体が見つかりました」




