リーゼと片腕の騎士
リーゼロッテの悩みといえば、専ら騎士の青年のことだ。
リーゼロッテの母は王妹で、父は宰相を務める公爵。騎士がつくのは必然の立場だったが、実際彼女が傍に置く騎士を決めたのはつい最近だった。
リーゼロッテの従姉は我儘な王女様だ。
一つ年上のラティーシャ第一王女は甘やかされて育った。自分のいうことは絶対。自分以外がちやほやされるのは気に入らない。何より、ラティーシャの兄がいけない。あの男が散々ラティーシャを甘やかしたせいで、国王夫婦もすっかり手を付けられなくなってしまった。
おかげでラティーシャは、欲しいものは全て自分のものにした。リーゼロッテのものも横取りした。
他人のものは欲しくなるのが人間というもの。リーゼロッテが信用し、信頼した騎士は皆ラティーシャが引き抜いた。
そのため、十三でやっと騎士が決まり、彼とは三年の付き合いになる。リーゼロッテはいつも、その彼について頭を抱えていた。
「おかえりなさい、レイ。さあ、ケガを見せてくださいな」
公爵家のリーゼロッテの部屋に入って来た騎士に、リーゼロッテは微笑んで座るように促した。
騎士の名前はレイという。
白髪に近い銀髪を後ろで結い、うっとりとするような甘い微笑をたたえた青年。今年で二十三になる。肌の色はどちらかといえば白く、体も筋肉質とは言い難い。
頭には包帯を巻いている。首にも包帯を巻いている。左手にも。肌が見えるところにはところどころ傷跡や痣があり痛々しい。
「今日は、どこもケガはありません」
微笑むレイに、リーゼロッテは疑うような眼差しを向けた。けれどそれは本当のようで、リーゼロッテもすぐに頷き納得した。
「ではこの血は貴方のものではないんですね?」
レイのマントについた血を指摘すると、苦笑して頷かれた。
「どうかご安心ください、お優しいリーゼ様。人のものではありません。街の方で獣が出たのですよ。買い物ついでに討伐をしたのです」
彼の嘘をつく時に癖がでていなかったので、リーゼロッテはあっさり信じた。
「あまり無理はしないでください。貴方は私の騎士なのですから、私の知らないところで死なれては困ります」
「はい、リーゼロッテ様。私の死ぬときは、貴女のためでなければなりません」
跪き、手の甲に口づける騎士を見つめ、リーゼロッテは大きなため息をついた。
***
リーゼロッテの騎士には右腕がない。三年前、リーゼロッテが切り落としたのだ。
ある時盗賊の一味であった男が捕まった。男は仲間に裏切られ、囮に利用されたのだった。男は何もかもに絶望した様子で、しばらく何も話さなかった。しかし数日すると、かつての仲間への憎しみが限界に達し、牢の中で延々と嘆き、叫び続けていた。
リーゼロッテは時折、地下牢へ忍び込んでいた。父の付き添いで度々城に連れて来られることがあり、そういった時は決まっていとこたちの相手を任される。それが嫌で嫌で、隠れ場所を探した。そうして見つけたのが地下牢。罪人がいても牢に入っているし、意地悪ないとこたちよりずっとマシだった。なによりここへは、臆病ないとこたちは近づかないから。それでうんと小さなころからよく地下牢に隠れた。
男と出会ったのは地下牢だった。
殺してやる!殺してやる!!俺を裏切った奴ら皆殺してやる!!
鉄柵に噛り付いたり、頭をかきむしったりしながら叫ぶ男を見て、リーゼロッテは獣のようだと思った。少なくとも、同じ人間とは思えなかった。
威勢のいい囚人がいると父が話しているのを、リーゼロッテはなんとなく思い出した。仲間に裏切られた盗賊の青年。きっとそれだと思った。他の囚人は皆見覚えのある、生気を失った者だけだったから。
それから、その威勢のいい囚人が近々処刑されることも聞いていた。
殺してやると言うけれど、この人はかつての仲間を呪いながら、自分が殺されるのか。そう思うと哀れになった。
「お名前はなんというのですか?」
リーゼロッテが尋ねても、男は裏切り者への憎しみを吐き出し続けていた。冷静さなどかけらもなかった。
「死にたくないですか?」
それでも男はリーゼロッテの声を聞こえないように呪いの言葉を叫ぶ。
「貴方はもうすぐ処刑されてしまうそうですよ」
ほんの一瞬、男が動きを止めた。
かと思えば突然、崩れ落ち、蹲った。
「生きたいに、決まっているだろう…!」
どうやら自分の声は届いていたとわかったリーゼロッテは、通じるかわからなかったけれども男と話し始めた。
「貴方これまで、何人殺しました?」
「さあ……俺の仲間を襲った奴らを殺した。けれど仲間だと思っていた奴らは仲間ではなかった……」
「意味なく悪人以外を殺したことはありますか?」
焦点の合わない目で、かろうじて会話をする男は、力なく首を横にふった。
この男には最低限度の良心はあるのだとリーゼロッテは判断した。そして、殺してしまうには惜しいとも。
国に属する人間でさえ仲間を裏切る世の中だ。しかしこの男は真正面から仲間を信じ、仲間を守ろうとした。盗賊よりも騎士に向くような気がした。
リーゼロッテに騎士はいない。一人もいない。
けれど信用に足りる人が一人いたならば、どんなに心強いか。この純粋な男は、心を開けばきっと自分を信用してくれると思った。
「貴方、腕はたちますか」
「この国の騎士には負けない。汚い手さえ使われなければ」
この囚人は薬を使って気絶させ捕まえたと父が言っていた。つまり騎士では手に負えなかったのだ。体はボロボロだが、国の騎士団を前に卑怯な手を使わせるほどの男。強いに決まっている。
「それでは助けてあげましょう」
私と貴方は、きっと支え合える。
「一つ、私の騎士になること。二つ、私に忠実であること。三つ、命以外の何を失っても文句を言わないこと」
指を折り、条件を述べていく。
「その三つが守れるなら、貴方を生かしてあげましょう。なおかつ毎日暖かい食事と寝床をあげましょう。時間がありません。貴方の処刑は明後日です。明日また来ます。それまでに答えを」
それほどの期待はしていなかった。駄目ならそれまで。囚人が一人死んでしまうだけ。心苦しいけれど彼が死ぬことを選んだのだから。
翌日、リーゼロッテは再び地下牢に忍び込んだ。
男はリーゼロッテの姿ををみとめるなり、片膝をつき、頭を垂れた。
――貴女に忠誠を。
それが男の答えだった。
処刑の日、リーゼロッテは男を処刑台へは行かせなかった。代わりに王と父のいる間へ男を連れていくようにと衛兵に命じた。
宰相の娘は賢かった。これは父の言いつけであると言えば、新米の衛兵はあっさりそれを信じ従った。
わざわざ処刑を見に行く気もなかった王と公爵はそれは大層驚いたが、リーゼロッテはその怒りを鎮めるように、両膝をついて懇願した。
もともと、男一人の処刑になどさして興味のなかった二人はすぐにリーゼロッテを許した。加えて、当時から国ではラティーシャの気まぐれで人を処刑することが多く、処刑に対して軽く見られていることもあった。
「どうかこの罪人を私の騎士にしてください」
リーゼロッテの言葉に、誰も首を縦には降らない。
公爵だけは、普段我儘を言わない娘の頼みに少し迷う様子ではあった。
「反省しているのです。どうかこの人を許し、私に譲っていただきたいのです。そのためなら、そう、彼も、罰を受けると言っています」
言いながら、リーゼロッテは男に近づく。
「貴方、きき手はどちらですか?」
「……左」
国王の騎士の元へかけ、リーゼロッテは剣を奪う。次の彼女の行動は、誰も予想できなかった。
リーゼロッテは、その剣を、男の右腕に振り下ろしたのだ。一度では切り落とせず、何度も、何度も切り付け、やっとぼとりと落ちた。
その間男の叫び声が城中に響き渡った。
王は姪の正気を疑い、公爵は娘の決意を見た。
ここまでしなければ、男を宰相の娘の騎士になどできるわけがない。言ってしまえばこれは洗礼であり、また、リーゼロッテに考えられる、父を納得させる一番の近道だった。
男はすぐさま運ばれ治療を受けた。
次に目覚めた時、男は囚人ではなく騎士となったのだった。
***
話は戻る。
膝をつきこちらを見上げるレイ。そして溜息をついたリーゼロッテ。
「腕を奪った私が言うことではありませんが、あまり危ないことをして怪我はしないように」
「何をおっしゃいますか。私の腕は奪われたのではなく貴女に捧げたのです。腕一本で貴女のお傍に置かせていただけるのなら安いものです」
本当は、この騎士は自分を恨んでいるのではないかと思うことがある。
腕一本ないだけで、体のバランスをとるのにも苦労をするのだ。それは始めの頃のレイを見ていてわかった。
正直に言えば、父を認めさせるだけではなかった。
元囚人、だけでは甘いと思ったのだ。ラティーシャに盗られないためには、更に欠陥のある騎士でなければならなかった。おかげで、ラティーシャは元囚人の片腕で気味悪い騎士に近づくのを嫌がる。我ながら恐ろしい女だとリーゼロッテは自嘲した。自分だけの騎士がほしい。そんな心もあり、リーゼロッテは腕を奪った。そしてそれは、レイも薄々感づいているだろうこと。
「ですけどレイは怪我が絶えませんから」
レイは度々襲われる。
レイが元囚人と知っている人々や、ラティーシャの騎士がレイを襲う。何人でも、どんな相手でも、レイが負けたことはない。帰って来て、笑顔でただいまと言う。
けれど無傷というわけにもいかない。レイの体はいつもボロボロだ。
「ご心配には及びません。私が死ぬときは、リーゼ様が『死ね』と命じた時だけです」
「そんなことを言う日は永遠に来ません」
出会ったころの獣のような風貌は、戦う時にしか見せない。今のレイは、いつも、絶え間なく笑みを浮かべて穏やかに話す。
「それに、なんども言いますけれど、一人で外へは行かないでくださいね」
「そうもいきません。リーゼ様の言いつけに背くことは大変心苦しいのですが、リーゼ様の身の回りの物を揃えるには外へ出る必要があります」
「それは侍女のお仕事でしょう?貴方が仕事を持って行ってしまうと皆困っていますよ」
よく働きすぎる騎士は騎士以外の仕事をこなしてしまう。炊事洗濯掃除、どれもリーゼロッテにのみ尽くし行っていることなので、公爵や夫人のものに手をつけることはないそうだが。
「リーゼ様のお召し物やお食事を他の誰かに用意させるなど我慢ならないのです」
「毒をもられているでもないし、服に針がしこまれているのでもありません」
「お言葉ですが、数度ありました」
「滅多にはありません」
公爵令嬢という立場ともなれば命を狙われるのも珍しくない。それでもリーゼロッテは少ない方だ。それというのも、強者と名高い騎士が控えているおかげである。
「ですが……」
「気持ちだけで十分です。働いただけ、貴方の休む時間が減ってしまうでしょう?」
「お優しいリーゼ様……どこまでも慈悲深い方なのですね」
「腕を奪った女に優しいもありません…」
立ってください。リーゼロッテが命じると、レイはすくっと立ち、マントをとって深く頭を下げた。
「私のような卑しい従僕が尊い貴女に望みを述べるなど許されざることやもしれません。しかしどうか、リーゼ様。明日の護衛は私にお任せいただきたく思います。貴女を守るのは私でありたいのです」
明日はラティーシャの誕生日のため城のパーティーに呼ばれている。従妹のリーゼロッテが行かないわけにはいかなかった。
城へ連れていける護衛は一人が限界。それ以上は国王陛下へ失礼にあたる。
レイは王族貴族によく思われていない。その出身は広く知れ渡っている。そのためレイは、明日、自分は連れて行ってもらえないものと考えたのだろう。
「もとからそのつもりです。私の騎士は、貴方しかいないのですから」
「リーゼ様……ええ、どのようなことがあろうとも、私が貴女をお守りいたします」
***
父と別れて早々に、廊下でばったり出くわした意地悪な従姉。リーゼロッテは顔を歪めるのを一生懸命我慢した。
後ろに控えるレイは、いつもと変わらず微笑を浮かべたままでいる。
「あら、お久しぶりね、リズ。貴女がくるのなら、もう少し控え目な格好をした方がよかったかしら。あんまり見劣りして貴女が可哀想だものね」
リーゼロッテは適当に、「そうですね」と相槌をうつ。普段通り、嫌味も無視するリーゼロッテに期限を悪くしたラティーシャがターゲットに変更したのはレイだった。
「その片腕の騎士、まだ連れていたのね。噂じゃ、一本捥でも十分強いそうじゃない。ねえ、貴女が昔仲良くしていたうちの騎士とその騎士、交換しない?」
レイは何も言わず、「お好きなように」とでも言うようにリーゼロッテに微笑むのみ。だがリーゼロッテには、レイが確信を持っているように見えた。自分以外が貴女の騎士になるはずがない。そういう確信。
「丁重にお断りさせていただきます。私の騎士は、この囚人あがりで十分ですので」
リーゼロッテが言うと、ラティーシャは不機嫌を表に出し、鼻を鳴らして去って行った。
「勝手にごめんなさい。もし貴方があちらへ行きたいと言うなら、今からでも取り消してきますが」
「いいえ。私の忠誠はリーゼロッテ様のみに」
そう言うと思った。
リーゼロッテはいつもより少しだけ得意な気持ちになって笑った。逆にレイは、珍しく笑みを崩し、首をかしげた。
「何かおかしなことを言いましたか?」
「いいえ。誠実な騎士が誇らしいだけですよ」
会場へはレイのエスコートで進んだ。
レイが姿を現すと、一瞬場がザワつく。けれどリーゼロッテが悠然と歩き始めると、周りもすぐに視線を散らしていった。
それでも、近くを通り過ぎれば人々はヒソヒソと囁き合う。野蛮な……。下賤な……。まあ、おぞましい……。片腕の……。
レイは特に気にする風もない。どちらかといえばリーゼロッテを気遣うように、声のする方に立ちはだかり歩く。だから、リーゼロッテも気にしない。頭の悪い貴族にどう思われようとかまわない。レイが、嘲りを気にするのなら話は別だが。
向かう先は王に寄り添うラティーシャの元。先ほどのうちに「おめでとうございます」と一言言っておけばもう近づく必要もなかったのに。リーゼロッテは自分の迂闊さを呪った。王女に祝いの言葉もなく帰るなど、ここへ来ないのと同じだけ無礼になる。
父の公爵は既に王とラティーシャと談笑している。
「リーゼ様、顔色が優れません」
進行方向を変えようとするレイに、リーゼロッテは首を振るった。
「いいえ。結局は行かなければ行けないのですもの。早く済ませてしまいましょう」
思わず本音を口をついて出た。こんな台詞、聞かれては不敬と捉えられるだろう。捉えられると言うか、実際敬ったことなど一度もないので今の言葉も正真正銘無礼をしているのだが。
無理はしないように、とは、普段リーゼロッテがレイに言う言葉だ。それが今日は全く逆で。レイは、無理をするくらいなら休めと言う。普段の貴方にお返ししますとからかいながら、とうとうラティーシャのもとへたどり着いた。
リーゼロッテがそこにつくと同時、ラティーシャの兄のユナン王子もラティーシャに声をかけた。
二人そろって顔を合わせるのは久しぶりで、リーゼロッテの頬はひきつった。またレイが、「ご無理はなさらずに」と耳打ちする。
ええ、だけど、嫌なことは早々にすませないと。リーゼロッテは自分を励まし、前を向いた。肩に置かれたレイの左手を優しくおろし、深呼吸をする。
「本日はおめでとうございます、王女殿下。ご無沙汰をしております、陛下、王子殿下」
王はにこりと柔和な笑みを浮かべるが、いとこたちは嘲笑のような笑みを浮かべる。さっそく不快感と呆れを感じながら、一つお辞儀をする。
公爵は娘の隙のない所作に満足そうにし、王は成長した姪に微笑みかけている。
「久しいな、リーゼロッテ。しばらく見ぬ間に美しくなった」
「ラティほどではありません、陛下」
王に続けて言ったのは、ユナンだった。昔から、リーゼロッテはこの高慢な従兄が大嫌いだ。もともと、ラティーシャはそれほど残虐なことを好む性格ではなかった。ただの我儘な姫。
それを今のように、人の命を軽視し、差別を快感に思う姫にしたのは他でもない、ユナンである。妹にいらない知恵をつけさせ、自分の価値観を押し付けた。
「まだその蛮人をつれているのかリズ。城に来るというのに義手もつけさせないとは、お前の神経を疑うな」
私は貴方の神経を疑う。と内心で毒づく。言うことがいちいちかんにさわる従兄だ。他に言い方もあるだろうに。
たしかに、正式の場であるからと義手や義足を新調する者は少なくない。けれどたとえば外交官殿や軍人などは、逆に正式の場であえて義手や義足をつけず自分の勇敢さを見せつける者もいる。特別注意されることではない。
レイは、義手を嫌がる。体に合わないそうで、いくつか用意したものも全てつけると痛がった。なくても生活や仕事ができるのならさしたる問題はない。無理強いをするわけにもいかない。
「申し訳ありません」
しかし馬鹿ではない。反論をして騒ぐくらいなら、こちらの相手は適当に済ませるに限る。気を悪くしたレイに謝るのを急ぎたい。
大人しく謝るリーゼロッテに、いとこたちはつまらなそうな顔をする。
「これ以上お気を悪くさせるわけにもいきません。私はこれで失礼いたします」
さっと踵を返しても、誰もリーゼロッテを止めない。
王も公爵もわかっている。王女と王子の横暴さ。けれど自分の子がかわいい王はつい許してしまう。公爵もそれを理解している。
そのため、リーゼロッテの多少の失礼は王も見逃す。自分の子の方がはるかに礼儀知らずだからだ。
庭に人の姿はなく、芝生の上に腰を下ろしたリーゼロッテは溜息をついた。夜風が心地よく、ゆっくりと目を閉じる。
後ろについてきたレイはクスリと笑った。
「ご令嬢は草の上に座らないものです」
「人それぞれ個性があるんですよ。皆が一緒ではつまらないでしょう?私は芝生に座る令嬢なんです。一緒にどうですか?」
「お許しいただけるのなら」
隣のレイの方に頭をのせて、しばらく黙り込む。音のない空間でも気まずさを感じない。この三年間、それだけの関係が築けるほどの時間をこの騎士と共にしてきた。
そっと手を伸ばし、向こうぎしの、腕のはえていない肩を触ってみる。色々ときれいごとや言い訳を並べ誤魔化してきたが、結局これは、リーゼロッテの狂気の証だ。
レイの腕を切り落としてから時間が経つにつれ、頭は冷静に戻っていった。父を納得させるため。哀れな囚人を救うため。すべて、口だけで、方法は考えれば他にも色々あった。
腕を失った男が一人で生きていくには困難だろう。リーゼロッテから男が離れていかないように。ラティーシャに盗られないようにするためだけではない。男が自らの意思で離れて行ってしまわないように。全部全部、自分のため。
一人になりたくなかった。なかなか会うことができず、他人行儀で自分をよく知らない父。父を愛し、娘にそれほどの情熱を持たない母。恵まれているのに、どうにも孤独に感じた。侍女も、騎士も、全てラティーシャに盗られて、一人でいる時間がほとんどだった。
ただ傍にいてくれる存在が欲しかった。
けれどレイと過ごすうちに、罪悪感は膨れ上がってきている。
「レイ、貴方は」
そろそろ自由になりたいと思いませんか?
そう訊きたいが、訊けない。レイを手放すのは勿論嫌だけれど、それだけではない。
もしリーゼロッテのもとを離れたレイがかつての仲間の元へ復讐に行ったならば。きっと殺してしまう。だけれども、レイの中では、かつての仲間をまだ大切に思っている心があるのをリーゼロッテは知っている。家族のいない彼には家族同然の存在だった。そんな話を一度だけ聞いたことがある。きっと、怒りに任せて仲間を殺めた後、レイは必ず後悔をする。
この騎士にどんな道を用意すればいいのか。リーゼロッテはわかりかねていた。
右肩を撫でるリーゼロッテの手をにぎったレイは、静かに微笑みかけてくる。口を噤むリーゼロッテの顔を覗き込んだレイは囁くように語りかけてきた。
「リーゼ様のお考えになることは私にはわかりません。けれど、そのような悲しそうなお顔をされては私にそれほど不幸なことはありません。愛らしいリーゼ様の笑顔を見せてください。私はリーゼ様をお独りにはさせません」
本当は、そんなことを言って、レイは自分の心を読めるのではないだろうか。一人に戻るのが怖い。レイに出会うまで、自分が寂しがっていることにも気づけなかった。それが当たり前になっていたから。
誰かが傍らにいる心地よさを知って、今更戻れるのか、想像もしたくない。
「レイの手はとても大きいですね」
「武骨なだけの手です。リーゼ様の手は、しなやかでお美しい」
「いたって普通の手ですよ」
手の甲へ口づけられて、もう頬を熱くすることもなくなった。レイの忠誠の証。手の甲へのキスはもうすっかり慣れた。だからといって、顔に出さないだけど緊張はするが。
リーゼロッテは、令息の整った形の手よりも、レイのごつごつした手の方が好きだ。安心する。ただ一つ不満は、仕事のしすぎでレイの手にはあかぎれまでできていること。鍛錬に加えて働くのだから過労で倒れてもおかしくないくらいだ。
「貴方の手が好きですよ。この手になら、首をしめられてもいいと思えるくらい」
腕を奪った憎い自分を殺すのなら、剣のような冷たいものではなくて、この歪な形の手でしとめてほしい。
レイは少しだけ眉毛を動かした。
「騎士は主を守るものです。何があろうと、私がリーゼ様を傷つけることはありません」
失礼いたします、と言ったレイは、リーゼロッテの体をひっぱり、リーゼロッテの耳を胸に当たるように抱き寄せた。
「この音が鳴り続ける限り、貴女の命は私が守ってみせます」
レイの鼓動は普通より少しゆっくりなくらいで、心地よいリズムを刻んでいた。
体温がしっかりと伝わってきて、何か言わなければと思うのに、リーゼロッテは久しぶりに動揺していた。口がパクパク動くだけで、思うように声が出ない。
「レイ……」
やっと、名前を呼べたと思ったら、突如、悲鳴が聞こえて来た。
一人分が、やがて大きな振動になるほど複数の人々の絶叫に代わり、足音もバタバタと大きく聞こえる。
庭に伝わるほどの大きさとなればただ事ではない。
またあの傲慢ないとこたちが何かしたのだろうか。頭をおさえたくなるのを我慢して、立ち上がる。それに合わせてレイも立つ。
「戻りましょう、レイ」
「かしこまりました」
王と公爵に少しくらいは協力しなくては。最低限の義務だ。娘や息子の暴挙を止められず心が病んでしまった優しい王妃や表には出ない王妹、つまりリーゼロッテの母親が王と公爵を手助けできないとなれば、王女と王子を説得できる立場の人間は他に自分くらいのものなのだ。
あまり貢献できてはいないが。
***
リーゼロッテの予想は悪い意味で外れた。
華やかな格好をした貴族は全員が会場の隅に、ぎゅうぎゅうに押しやられ、それを包囲するのはぼろきれのような服をまといそれぞれの武器を持った複数の人。周囲には倒れた衛兵や騎士が倒れていたり、または騎士までも怯え、貴族たちと一つに縮こまっている。
貴族の塊の先頭にいるのは王と王女と王子、それに公爵。
リーゼロッテが到着した時点でしんとした会場に入れば、一斉に視線はこちらへ向いた。
賊でしょうか?
なんて、レイに訊くまでもなく明らかだった。
それにしても城の警備も落ちたものだ。ここ数年、王族はすっかり信用を失ってしまった。それもこれも、気まぐれ王女と横暴王子の勝手な行為から。少しの失敗で処刑された人間がどれほどいたか。
そんな王族のために熱心に鍛錬に励む兵は減っていた。
とかそんなことを冷静に考えているが、これは混乱しすぎた結果どうすればいいかわからず淡々と頭を回転させているから分析できているまでで。実際今必要なのはこの状況をどう打破するかを考えることなのだが。
「逃げなさい!リーゼロッテ!!」
公爵の声ではっと我に返る。
既にレイはリーゼロッテの前に出て、剣に手をかけている。
それにしても逃げなさい、など、本来、王に魂を捧げる国民に王を見捨てることは許されないというのに。こんな時に父の愛情を実感するとは。余韻にも浸れない。
「久しぶりだなあ!よぅ、お前。今日はお前を連れて帰るために来たんだぜ」
一人、一際雰囲気のある大柄な男がレイに話しかける。
続けて、公爵に剣を突きつけるヒョロヒョロした男が話す。
「そうそう!そのついでにこっから金めのものをちょうだいしようってさ。お前が宰相の娘にこき使われてるのぁ知れてたからなあ!」
賊の男どもが一斉に下品な笑い声をあげる。
サァッと血の気が引いていった。それは男たちへの恐怖ではなく、とてつもなく恐ろしい可能性を思ってだ。
きっと、彼らは、レイのかつての仲間だ。牢の中で、レイが気が狂うまで憎み、呪った裏切り者ども。
今レイはどんな顔をしているだろう。怖くて見れなかった。
「お逃げください。危険です、リーゼ様」
「レイ……。レイ…、お願いです。貴方の後悔するようなことだけは、しないでください」
情けなく、声が震える。
色々なことが怖い。当然賊が怖い。レイが誰かを殺さなければいけない状況が怖い。何より、レイが、取り返しのつかない悲しみを背負ってしまうことが一番の気がかりで恐怖だった。
「お願いです、レイの幸せになる道を探してください……」
王は、王女は、王子は、そして父は、助かるだろうか。リーゼロッテ自身は。
わからない。きっとリーゼロッテがどう頭を働かせても答えは出ない。わかるのは、レイが感情のまま動いたら後悔するということだけだ。それならば、それだけでも阻止しなければならない。
「レイ、レイを守って……っ」
いきなり、腹部に激痛が走った。
見下ろすと、短剣が刺さっている。自分のすぐ横には、薄ら笑いを浮かべる中年の男が立っている。
私はこの人になにかしたかしら?
リーゼロッテは考えた。
どうしてこの人に殺されなければいけないのかしら?
この人にはなにもしていないのに。
殺されるなら、大切な人に殺されたかった。
レイのその手がよかった。
そしたら未練なんて一つも残さないで天国へ行けたのに。
いいえ、天国には行けないかもしれないけれど、この世に彷徨い迷子にならないに決まっていたのに。
「リーゼ様…!?」
倒れた体をレイに支えられた。一本しかない腕で器用に自分を支えるレイを見て、涙が出た。
誰かこの人を救ってください。神様。私の大切な騎士を幸せにしてください。仲間に裏切られた挙句、私の私欲のために腕を切り落とされてしまった哀れな騎士を、もうそろそろ、幸せにしてください。優しい人とこの人をめぐり合わせてあげてください。
「リーゼ様!リーゼ様!!目を閉じずに!リーゼ様!!」
痛い。痛いと思うのに、口角が上がってしまう。この人の、声が好きだ。
「………好き…」
レイが好き。始めは、無意識でも利用するために自分のものにした。一人にならないために縛り付けてすがっていた。
けれど、腕を奪った自分に仕えてくれた騎士。微笑みかけてくれたし、優しい言葉もくれた。自分のことを理解してくれた。慣れないことも自分のために頑張って身に着けてくれた。片腕の、ボロボロの騎士はリーゼロッテの何よりの宝物になった。
「大好きよ……」
腕を奪った自分に、こんなことを言う資格はないかもしれないけれど。
「リーゼ様!リーゼロッテ様…!!」
貴方の声も、手も、笑顔も、全部全部、大好きだった。
***
腕の中でゆっくりと目を閉じていく主人に、目の前が真っ暗になっていくようだった。
「リーゼロッテ様…!!」
憎たらしい少女は、片腕の騎士の唯一の光だった。
家族のない自分は気づけば盗賊の一味として生きていた。金もない、家もない。それでも仲間だけはいて、それを守るためどこまでも手を汚した。
三年前、その仲間さえ、そもそも存在しないものだと知った。あっさりと自分を見捨てた過去の仲間を憎み、恨み、復讐を誓った。
そのためには生き延びねばならなかった。レイを生かしたのは、この世で一番傲慢な少女。少女は命の代わりにレイから腕を奪っていった。
始めは、どうしようもないほど怒りがわいた。この片腕一本で、自分を裏切った奴らを全部殺せるかと考えた時、まずうまくいくと思えなかった。うでには自信があるが、一人、二人はしとめ損なうかもしれない。けれど怒りをあらわにはできなかった。寝床と食事はそれだけ魅力があった。しばらくの間くらいは大人しく少女のままごとにつきあってやることにした。
リーゼロッテは、この世で一番傲慢な少女だ。レイはそう思う。
父に愛され、不干渉でこそあるものの虐待もしない母。公爵の娘という恵まれた地位。毎日の食事に、屋根のある家。幸福に満たされた生活を送るくせに、不幸であると言うような顔をする。
この上何を望むのか。レイには到底理解できない。
腕を奪い、贅沢を贅沢とわかっていないリーゼロッテが初めて笑ったのは、レイと街へ買い物に出た時だった。
――誰かとお買い物なんて初めてです。
頬を真っ赤にして、満面の笑みを浮かべる少女は、うまい食事のためでも、宝石のためでも、ドレスのためでもなく、自分の存在のために笑った。
それは妙な気分だった。レイはただ、隣を歩いていただけだ。それだけで、リーゼロッテは満足したように笑った。
それからも、リーゼロッテはレイの些細な行動に大袈裟に喜んだり笑って見せた。リーゼロッテが笑うたび、レイは自分の存在を肯定されたような気分になった。
少しくらいなら傍にいてやってもいいと思った。
よく考えると、リーゼロッテの傍にいるのは基本的にいつも自分だけであると気づいた。傲慢な少女が望むのは孤独からの解放。それがわかったのは騎士になって割とすぐだった。
敬称で呼ぶこと、丁寧な言葉遣い。所作。いつの間にか、必死に学ぶ自分がいた。それもこれも、傲慢なリーゼロッテ様のためだった。
リーゼロッテが嫌だと言うから、人殺しもしないし、自ら危険に向かうのも控えるようにした。レイの世界は着々とリーゼロッテを中心としていった。
利益も関係なく、自分を肯定し、必要としてくれるリーゼロッテ。自分を受け入れてくれるリーゼロッテ。傲慢で、残酷で、けれど優しくて可哀想な少女に、心は自然と惹かれていった。
無条件で与えられる優しさや、気遣いはレイの心を癒していった。
どこかで、傍にいてくれるのなら誰でもいいというリーゼロッテの本心には気づいていた。それでもかまわなかった。
独占欲、というものも初めて知った。
傍にいてくれれば誰でもいいリーゼロッテは、そのうち代わりを見つけて来るかもしれない。それを恐れ、義手は断固として拒否した。
馬鹿で愛おしい主人は、どんどんと罪悪感を抱き続けている。腕の通っていない服の袖を見るたびに、リーゼロッテは罪悪感からレイを捨てられなくなるだろう。
社交の場への共は必ずした。よくない男がつかないように。いい縁談があればレイがそれを邪魔するわけにはいかない。だがせめて、手放す時はリーゼロッテを幸せにできる男のもとへ。
一年もすぎるころには復讐のことなどすっかり忘れた。それよりも、根っからの騎士になろうと決意した。
こんなことになるならば、早々にリーゼロッテのもとを離れ、憎きかつての仲間に復讐を果たしておくべきだった。
左腕のなかで、泣きながら目をつむったリーゼロッテを見つめ、名前を呼ぶ。けれど目はいつまでも開かない。
リーゼロッテを床に寝かせ、自分の上着を枕にさせる。リーゼロッテの腹元には、血がじんわりと滲んでいる。
恋しいリーゼ様。死んだらどうか、私も貴女のもとへ。
「冗談だろう。俺を迎えに来たんじゃあない。逆だろ。城を襲うのが初めからの目的だったろうがよ」
久しぶりにこんな喋り方をした。逆におかしくないか心配だ。三年前まではこうだったのに、今喋ると違和感を感じる。
頭の男は下卑た笑いでレイの言葉を肯定した。
「そりゃあそうだが、ついでだ。帰ってこい。お前は一番の戦力だったからなあ」
もうお前らの戦力ではない。
嘲笑してから、剣を一振りした。
リーゼロッテを刺した男を無残な姿に変える。
それからはあっという間だった。
片腕でもなんとかなるものだ。あるいは、無二の宝を奪われた怒りが自分を奮い立たせたのか。
次に我に返った時には、かつて家族同然に思っていた連中の誰も、この世から去っていた。
***
リーゼロッテが目覚めると、心配そうに自分を見下ろす騎士の顔が見えた。
「……全部夢だったのでしょうか」
「いいえ……。五日間お眠りになっていました。傷はまだ痛むはずです」
起き上がろうとするリーゼロッテを、レイはやんわりと止めた。
「先ほどまで宰相閣下もいらしたのですが、なにせ多忙な方ですので…」
自分が生きていたことに驚いたが、五日、ということは全て終わったのだろう。賊の始末も、レイの決断も。
「訊くことは酷かもしれません。レイは……」
「人を殺めました。何人も。軽蔑されますか?」
「いいえ……」
辛いですか?と問うのはそれ以上に酷な質問だ。
「復讐したのではありません。リーゼ様の騎士として、戦ったのです。後悔はありません。騎士として戦える自分になれたのですから」
片腕の騎士は、五日前よりもっとずっとボロボロになっていた。彼一人で、戦ったのだ。
「きちんと手当をしましたか?痛いところは?」
「ありません。お優しいリーゼ様」
信用ならない。あとでまた二人で医者に見てもらおうと思った。
ふと、思う。
「きっとお手柄だったのでしょう?王家直下の騎士団へ入団を促されたのではありませんか?」
レイの強さを証明したはずだ。うまくすれば、騎士団の中でも相当の地位につける大出世になる。
「私はリーゼ様の騎士です。誰になんと言われてもお傍を離れません」
「けれど……」
レイの左手の人差し指が、リーゼロッテの唇にあてられた。
「そういえば、陛下や閣下曰く私は一時化け物のように見えたそうです。そのせいでしょうか、王女殿下や王子殿下にはどうも怯えられてしまったのです。しばらくは、リーゼ様にはお近づきにならないでしょう。私は、朗報と、はっきり言える身分ではありませんが」
悪戯っぽく笑ったレイは肩をすくめておどけてみせた。
「リーゼ様…どうか私よりも先にお亡くなりになりませんよう。貴女のいない世界で生きるのは、私には不可能なことなのです」
「それは……私も、貴方のいない世界は辛いです」
「ええ、存じています」
いつも優しい微笑をうかべるレイが、今は、見たこともない意地悪い笑みを浮かべている。不思議なくらい色気が合って、ほぅっとしてしまう笑み。
「『大好き』だと、うかがいましたので」
「…?……!……それ…は…」
朦朧としながら言ったかもしれない。今更焦っても何も変わらないが。
額に、音を立ててキスをされた。レイにだ。
「あ……あ……」
声が言葉にならず、呻くだけになる。
「結婚をするとなると、騎士団の団長までになれば身分の障害もなくなるでしょうか」
「騎士団…は…断ったのでは…」
「返事は保留させていただいています」
「ですけど、ずっと私の騎士と…」
「騎士団に入っても、私は国の騎士ではなくリーゼ様の騎士です。……しかし語弊がありました。いずれは、夫ということになりますね」
***
五年後、二十八という異例の若さで騎士団の団長に上り詰めた男は国中どころか世界中を驚愕させた。若さ故ではない。
片腕だけの騎士団長。
就任と同時に妻をもらった彼は、自身はこの世でもっとも幸福な人間であると胸をはって言ったらしい。