無色透明のケンジに乾杯
その事故は、ケンジが生放送をしている最中に起こった。
生放送と言っても、いわゆる民放局が電波に乗せて発信し、ご家庭のテレビで受信するような立派な生放送ではない。
ネットでちょっと有名なミ=ゴ・ミ=ゴ動画の、一機能としてのリアルタイム動画配信サービスを利用した、個人が娯楽として行うようなこじんまりとした、視聴者が30人も居れば「俺、結構見られてる」と言う様なLVの放送だ。
その最中に事故は起きた。
ケンジが気が付いた時既に、モニタの中に、半透明人間が映っていたのだ。
ケンジは箸置きに箸をおく事すら忘れて、ただ茫然と目の前の揚げナスの煮付をつまんだままに、モニタに映る半透明人間を見る。グロい。皮膚組織とほとんどの筋肉組織、骨の大部分が半透明な人間がモニタに映っていた。ケンジが揚げナスを茫然と口に運ぶと、半透明人間も同様に口に揚げナスを口に運んだ。咀嚼。なすが原型を失うまで咀嚼して、汚らしい黄土色の流動する物体になった後、嚥下して飲み干した。ケンジと同じ動き。箸をおく。半透明人間も箸をおいた。
半透明人間の透明度が、更に上がっていた。透明度に比例するがごとく、視聴者数も十倍の300人突破。突破した途端内臓がはっきりと見えた。薄いピンクの胃腸がぬらぬらとテカっていた。
やべえ僕だ。と、半透明人間が口を動かしていた。
ケンジが立ち上がると、薄らと半透明に透けた薄桃色の食道から胃へと、よく咀嚼されてながれこむくっきりとした元ナス状物質をモニタは映す。同時に『なんだこれ』『超グロい』『タグ詐欺?』『SFX?』『クチャラー死すべし』等のコメントが普段の百倍、流星の如く流れていた。視聴者数3535。三千突破。やべえ、どうしよう。と口にした時点で、ケンジはもう止まるのではないかと勝手に思っていた視聴者数がヤバかった。ヤバい勢いで視聴者数のカウンターが回っていた。普段30人も見れば十分なはずの視聴者数が、化学反応を起こしたかのごとく激烈に回っている。その数30503。三万オーバー。
「やべえ」
ケンジの口は今、やべえ以外の言葉を発せれない心境だ。ヤバイ。他の言葉で言いなおすなら超オイシイ。30人、そう、毎回視聴者が30人も居るというのは、全くの素人としては、結構面白い事をやっていると言っても過言ではないのだが、それが三万に増加した。百倍だ。
三万ちょっと。例えるならちょっとした地方都市に住んでいる人全部が、ケンジの事を見ているのだ。
「やべえよ」
クラスの人気者だって、毎回何か面白い事をしゃべったとしても、クラスメイト全員に注目される事は稀だ。精々声の大きい取り巻きが「しゃっべーっすよ」「やべーおもしれー」と馬鹿騒ぎするから仕方がなく見る――と言う事も結構ある訳で。
それがクラスの人気者。
たった30人から注目される者。
されど30人。
毎回30人に注目されれば、クラスの人気者というカテゴリ内では最強になる。
ケンジはそれを心の支えに、生放送を続けてきた。
「超やべえ」
それが三万人。いや、気が付くと今や三十万人。一万倍。地方の街どころか、下手したら新幹線が止まる街の人口全てがケンジを見ている。マキシマムやばい。
ケンジの生放送のタイトルは「男子高生の日常」。
飾る訳でもない、男子高生の自室での日常を余すことなくダダ漏れにさせる、というコンセプト。何故かそれがウケた。
視聴者30人。ケンジはここ一年ミ=ゴ・ミ=ゴの生主として活動してきたけれど、そこから先がなかなか開けない。ここ最近のケンジの悩みどころだった。
それが今や視聴者三百万人。
ケンジの住む街の人全部を合わせたよりも尚多くの人が、今のケンジを見ている。
だが、しかし、だ。
ただただ、放置するだけでは、これ以上の衆目を集められないのではないか、と言う焦りをケンジは抱いた。
――マンネリを打破するために何をすればよいのか。
半透明人間になる直前、ケンジは親父に相談した。
三十人の壁を破ることが出来ずに悶々としていたケンジにとって、全く別の視点からのアプローチが必要であったのは事実である。
ケンジの父はケンジがミ=ゴ・ミ=ゴの生主である事は知らない。だが、ケンジは知っている。父が生主である事を。
「洋の東西を問わず、一番安直にウケを取るのならば、脱衣下ネタエログロが良いだろう。大体高校生のお前に出来るのも、その程度の体を張ったことだろう?」
と親父はしかめっ面で言った。人生の酸いも甘いもかみ分けたかのような雰囲気を親父は醸し出していた。
あまり役に立ちそうもないアドバイスであった。
ケンジの親父はリストラされて暇でミ=ゴの生主になった様なロクデナシだ。母が家を出たのもやむなしと思える程度のダメ親父だ。そんな事判ってるが、ケンジは知っている。
『激論!女装中年オヤジ政治漫談』が毎回六百人前後の視聴者をたたき出している事を。
PV数は正義だ。
今更ケンジが脱いだところで誰が得するのだろうか。そんな事は判らない。判らないがとにかくケンジは脱衣して事に及んだのだ。
故に、ケンジは全裸だ。全裸故に半透明人間になったことにいち早く気が付かれたのだ。怪我の功名である。
何しろ今ではケンジは半透明人間。全裸の上に更に一枚か二枚位脱ぎ捨てているようなものだ。うけないはずがない。ケンジの心臓が震えた。ケンジの心臓は限りなく透明に近づいて行っているのだが、半透明の心筋が全力で自己主張をしていた。震える手でWebカメラを心臓に近づける。乳首の色の方が濃い始末だった。
カメラを机の上に置く。置いて深呼吸。
ケンジは「男子高生の日常」という生放送タイトルを、震えながら神経節だけ浮かんでいる手で修正した。
『半透明人間になりました』
カチャカチャ、ターンッという軽快なタッチのドヤ音とともに、ケンジは野暮ったい日常という、慣れ親しんだタイトルを変えた。
タイトルを変えた途端『釣り?』や『いや、マジ』だの更にコメントが加速する。今の所『釣り』派閥が優勢だ。声が上手く出ない。普段絞り気味のマイクの音量を開く。
「やばいですが、全部マジです」
ケンジは泣きそうだった。注目され過ぎて紅潮しそうな頬も完全に透明だ。ヤバイ。
『涙透明キメエwwwwww』
ケンジは泣いていた。透明の涙が透明の頬を伝って、桃色内臓と乳首の上を流れるのは確かにキモイ。男子高校生半透明人間が涙声でフルフル震える姿は、文字通りキメエなんてもんじゃない。
「マジきめえっすね」
泣き笑いながら、ケンジは瀬戸際に立っていた。
ケンジは今、下手したら、地球上で誰よりも注目されている。
『泣くなよwww』
「マジ泣きたいわ」
弾丸ジェットコースターの様に流れる無責任なコメントの嵐の中、ケンジは何故半透明人間になったか、判らない。
『あー、ナス食い始めたら』
『どんどん透明になって行ったよな』
「まじか」
最初の三〇人、ケンジを初期から見ていた名無しの誰かがそうコメントした。ケンジは箸をもう一度ナスにつける。口に運ぶ。『ぐwwwろwwwいwww』コメントを無視してナスを胃に流し込む。
より一層透明度を増した半透明人間がそこに誕生した。
「ナスか」
『ナスwwwwwwww』
『wwwwwwwwwwwwwww』
視聴者数が三千万を突破した。
タグに「食べると透明度が増す揚げナス」が追加された。
ケンジは今、世界中の人間から注目されている。
己の肉体の透明度に比例して、視聴者数が二次関数的に増加する快感を味わった時点で、ケンジを止める術は無かった。
ナスをくえばくうほど、ケンジは透明になる。皿に残っていたナスは残り一本。
さらにもしゃもしゃと残りを喰うごとに、半透明人間が半透明どころではなく、ほぼ全透明としか言いようのない透明なケンジ。
残るナスは後一口。
――これを食い切った時、僕は間違いなく透明人間になってしまう。
ケンジは既に内臓すら透けていた。直感は外れない事だろう。
視聴者数が回り続けているのを見て、ケンジは躊躇する。箸が止まった。
それでも――僕は。
段々とモニターの向こう側の人達の目が、飽きてきているのがケンジには判った。
早く、次の一手を打たねばならない。
単純だ。最後の一口に手を付ければよい。
震えるハシを持つケンジの手はもはや視認する事が難しい。恐らくミ=ゴ・ミ=ゴのエコノミーモードからでは、単純に宙に浮いている、ナスを挟んだハシにしか見えない事だろう。
恐らく、透明人間になったら、誰からも視認されなくなる。
完全に見えなくなった時点で、ケンジの半透明人間という見世物を期待してきた人々は興味を失うだろう。
それは物語の完結と共に、忘れ去られる本と似たような――
ここで食べきって伝説になるか、それとも半透明人間として世界中に内臓を晒し続けるか――ケンジの躊躇が、視聴者に更なる興奮を誘う。
『食え』
『食え』
『食うな』
『食うな』
『消えちゃう』
『どうせフェイクだろ』
『食え』
『食え』
『食うな』
『食え』
『やばくね?』
『OH……』
『Fuxx!!』
『食え』
「ああああああああああああああああ!」
ケンジは――
――放送終了ボタンを、クリック。
モニターに映る人影はなく、がらんと空いた机に椅子、後は空っぽの皿。
放送終了後にタグが一つ追加された。
『無色透明のケンジに乾杯』