第一章 決意 ──欠意── (3)
003
「解せねえよな~」
学校からの帰り道、礼治はそう嘆いた。それに新月は何がかと訊く。礼治はんーと唸ると、「だってよ。イマイチ納得できねえだろ。運命だとか言われたところで、そんなもん納得しろって方が無理だ。意味がわからねえよ」と言う。
「でも、休未ちゃんが何の意味もなく変なことを言うとは思えないよ」
「それはお前があの先輩と仲が良いからだよ」
俺は初対面だったんだぞ、と続けると、そうだねーと納得するように新月は顔をかくんかくんと動かした。
「それで、礼治はどうするの?」
「どうするって、別に、何もしねえよ」
「私に何かあったら?」
「そん時は助けてやるさ。お前はおれの──」
「ん?」
なんでもないよ。そう言って頭を掻く。
一体自分は何と言おうと思ったのだろうか? そんなことを考えると、気が滅入る。
新月は、一体自分にとって何なのか。の答えは、漠然としていた。ただの幼馴染だと、言ってしまえばそれだけだが、しかしどこか、礼治の中ではただの幼馴染ではいたくないという思いが燻っている。例えそれが、叶わぬことだとしても。
「ねえ礼治、どこか寄ってく?」
「どこかって、今からか?」
「そ、今から今から」
学校から二人の住む住宅街までの道はそう長くない。どこかに寄り道をするということは、必然的に帰り道から外れることになってしまう。
「別に、いいけど」
何処に寄るんだよ、と尋ねようとしたその時、新月は一人で走り始めた。
「休未ちゃーん!」
手を振るその先には、確かに読んだ名前通りの人物が立っていた。立ってた──歩いていたわけでもなく、走っていたわけでもなく、文字通りにそこに、立っていた。
その姿は優雅と言って差し支えないだろう。
流れるような動作で呼んでいたらしき本を閉じて、寛木休未は二人の下へと近づいてくるかと思いきや、走っている新月とすれ違って、一直線に礼治の下へと歩み寄った。
「待ち伏せかよ」
「美人な先輩に待ち伏せされるというシチュエーションは不服かな?」
「別に、何とも思わねえよ」
「そうか。新月ちゃんは愛されているようだね」
「愛とかじゃねえよ」
ねえよ。否定の言葉に疑問を持つけれども、しかしその疑問は飲み込む。
「休未ちゃん! 無視しないでよ!!」
むくれたように新月が休未の下へと近づく。「ごめんごめん」と休未は新月の頭を撫でた。
そっと、優しく。
撫でる。
「何の用ですか?」
「昨日の電話の通りさ」
新月が危ないかもしれない。そんな曖昧な情報。信用に値するのかどうかさえも疑わしい情報元の情報を又聞きしただけの礼治には、イマイチ現実味のない話だった。当の本人の新月でさえも、特に何かに違和感を覆えるでもなく、いつも通りの平凡を送っていた。
「休未ちゃんも寄り道してく?」
「寄り道?」
「だから、何処に行くつもりなんだよお前は」
「本屋とか」
「本屋ぁ?」
「ああ。そういえば新月ちゃんは蜘蛛畳女郎のファンだったね」
訳知り顔で頷く休未を見て、礼治はため息を吐く。どこか、つかみどころがない。隙が無いというべきだろうか。兎角、まるで本心を表に出していないような、何か仮面をかぶっているような、そんな不気味さを兼ね備えていると、そんな風な印象を持った。
「蜘蛛畳女郎って、あのくどい文章の推理小説作家だろ? 先月もハードカバーで何か出してなかったか?」
「女狐の尻尾だね。面白かったよ。礼治も読めばいいのに」
「タイトルから醸し出された昼ドラ臭がなかったら読んだかもな」
「新月ちゃんは女狐の尻尾を読んだのか。私はあれは内容が合わなくて挫折したよ。どうも、人間関係の複雑な絡まり合いは見ていて気持ちのいいものではないからね」
「そうかな~。犯人の動機とか、すごいと思ったよ。すごくリアル。ネタバレは主義じゃないから言わないけど」
──やっぱりドロドロしてんじゃねえかよ。
心の中で突っ込みを入れて、二人の会話を傍観する。
気が付けば三人で本屋へと足を向けていた。
しかし。
違和感を感じる。
微かな違和感だった。
小さな違和感。
まるで、誰かに見られているかのような、不快感とも言い換えられるそれに、礼治は少し緊張したように意識を集中させる。
昔から、新月の周りをかぎ周る変質者は多かった。
小学生の頃には何度か、身代金目当ての誘拐事件に巻き込まれかけたこともある。それは新月が、本家とは言わないまでも、夜闇家の血筋を受け継いでいるからなのだろう。
夜闇家。
アニメや漫画、それこそ昼ドラに出てくるような金持ちのような嫌味を持ち合わせてはいないし、基本的には庶民的な新月も、結局のところ金持ちの、しかも特殊な家計の一人には変わらないのだ。
だから、狙われることもある。
そんな新月の隣にずっと立っていた礼治だからこそ、この小さな違和感に気付くことが出来たといってもいいだろう。
「──寛木先輩。誰かがつけてますよ」
小声で、囁くように告げる。
新月には聞こえないようにと細心の注意を払ったつもりだった。事実、新月は何も気にせずに小説の感想を一人で語っている。ネタバレをしないという本人の主義を徹底するためか、かなり遠回りな話し方だった。
「──ふむ。確かに、言われてみるとそんな気もしてきたね。一度、私が遅れて歩くから、二人はこのまま歩いていてくれ」
「いや、だめだ。それは俺がやるから、先輩は新月の話し相手をしててくれ」
制止を促すかのように何かを言って入る休未の声を無視して、歩く速度を緩める。と、間髪入れずに礼治は後ろ向きに走り始めた。
足を伝うコンクリートを蹴る感触。
尾行しているといっても、あくまでも人間のやることならば、隠れられる場所は限られている。
電柱の裏、ゴミ捨て場の影になるように、その男は隠れていた。
白色の、綿のような髪の毛。それは羊をモチーフにしているのだが、しかし礼治はそこには気づかない。
スーツの袖は破れていて、サイズの小さいズボンの裾からは、毛玉の付いた糸が垂れ下がっている。
男は穏やかな笑みで礼治をまじまじと見つめた。
まじまじと見つめて、そして礼治の下に何やら毛玉のような物を投げつけた。
「────ッ!?」
ドン、と、振動の砲弾が礼治を襲う。
重低音。
心臓が押しつぶされるかのような息苦しさを覚えて、礼治は思わず座り込んだ。
「カッ──ハッ──」
息が苦しい。
顔を上げると、異様な姿をした男が冷めた目で礼治を見下ろしていた。
「夜闇新月と、寛木休未は分かるんですけれど」
穏やかな口調とは裏腹に、その声は冷たい。
「貴方は知りませんねえ。何でしょう。貴方も登場人物と考えていいのでしょうか?」
登場人物。
と、男はそう言った。
まるで、生きている人間を物語の中にだけ存在する架空の人物かのように。
「う~ん。今は、鍵を手に入れるのが先決ですし。後はあの男と繋がっている寛木休未の対処も、まぁそこそこに重要なんですが」
参りました。と男は言う。
「いやいや。あの男は自分が運命から外れた存在だなんて思っているでしょうが。それが一番厄介で且つ重要な存在であるという事には、何も考えが及んでいないのでしょうかね」
意味が分からない。
心底からそう思う。
何を言っているのだろう。と、考えたところで、ヒントも何もないのだ。それでも、なんとなく、分かることはある。
この男を新月と接触させることだけはあってはならないと。
本能的に、そう思う。
「言ってることは分かんないけど……」
足元がおぼつかない。
恐らくは、この振動は先ほどの毛玉が原因なのだろう。そこまでは分かったが、しかしその原理については一切思いつきすらもしない。
十分だ。
別に、それを理解したところでどうという事もないだろう。
「新月に危害を加えるのはなしだぜ?」
「──素晴らしい」
男は、軽く頭を振った。
綿のような毛玉が、空中に浮かんで、制止する。
後ろを振り返ると、新月と寛木が驚いたような表情を浮かべていた。新月が礼治のもとに走ろうとしているのを、寛木が制止しているらしく、寛木が新月を羽交い絞めにしているような格好になっている。
「成る程。君は鍵の番人と言うところかな。どんな関係なのかは知らないけれども、しかし君は実に恰好が良い」
「そりゃ、お褒めいただいて、感謝極まりないですよ。それで、できればお世辞ついでに、目的とかなんとか、そんなのも話していただけると嬉しいんですけど」
「目的とは?」
「漫画、読まないんですか? 悪役はまず目的を声高々に宣言してから、その目的の為に動くじゃないですか」
「この世は漫画じゃない。現実ですよ」
「そりゃ、ごもっとも。じゃあ話し合いしかないですかね」
「──どうしてそうなるんですかねえ」
呆れたような口調。しかし、礼治からしてみれば話し合い以外に平和な解決法という物は思いつかなかった。──平和な解決法。
争わず。
わだかまりなく。
平和的に友好的に話しを進める。
「まあいいでしょう。そもそも別に、前提として、争うつもりなんでありませんし。つもりというか目的というならばただ一つ、夜闇新月という少女を手に入れることですかね」
「どうして新月を?」
「鍵、と言ったら伝わるのか…。伝わらないでしょうね。貴方はグリフレポートについてもあまり詳しくないようですし」
「生憎、まったくですね。なんですそれ? 大学の課題ですか」
戯けたように言う。
「運命ですよ。文字通りにね。世界が持つ物語の原本です」
「…………」
「反応しにくいでしょうが、まあでもそれが実在するんですよ。管理しているのは『運命楽団』とかいう組織なんですがね、いや、名前についてはあまり言及しないでいいでしょう。所詮形だけの組織です。そしてまあ、その組織が管理している『グリフレポート』を手に入れる鍵が、夜闇の血を引き継いだ夜闇新月だと、ただそれだけの理由で、ただそれを手に入れたいだけの目的ですよ」
淡々と男は言う。
礼治は勿論その言葉の意味を半分も理解できていない。ただなんとなく、危険だとは思った。思った、と言うよりは感じたというべきか。潜在的な恐怖。第六感的な危険察知能力。少なくともこの男があらづきに危害を加えるであろう何かであると言うことは、理解できた。
「言っておきますけど──、新月に危害を加えるなら、俺は容赦はしませんよ」
「それはさっきも聞きましたね。そしてそれはできない相談だ……と言いたいところですけれど」
言葉を区切る。
言葉を区切り、どこかを見ている。
いや、どこか、ではない。それは礼治を通り越したその先、新月と寛木を見据えているような──
「伏せて‼︎」
不意に、後ろから怒鳴られた。その怒声を聞いて、反射的に礼治は体を屈める。それこそ第六感的な危機察知能力、危険察知能力による行動と言えるだろう。
先程とは違う、また別の轟音が響いた。
耳が震える、というよりは、体全体が震えた。肌で音を感じるという感覚を味わう。礼治が顔を起こすと、男と礼治の間に寛木の姿があった。しかしその姿はどこか異様なもので、思わず自分の目を疑いそうになる。
まっすぐに、何かが伸びていた。
寛木休未の背後の、何もない空間から何かが伸びていた。
黒く、紅い。
光を吸い込んだような黒でありながら、しかし紅い空気のようなものを纏っている。纏っている、というよりは、放っているのか。「礼治君は下がっていてくれ」
言って、寛木は男と対峙する。
礼治は言われるがままに後ろへと下がった。そこに新月が駆け寄ってくる。しかし新月に怯えた様子はない。ただ少し複雑そうな表情は浮かべていた。
恐らく、なんとなくは知っているのだろう。
今の現状を説明できるような何かを。
「寛木休未……あの男の関係者でしたねぇ」
「あの男とは関係しているけれど、ただそれだけだよ。何も教えてもらっていないし、ね」
「『グリフレポート』についても?」
「名前だけ、あとは何も」
「ならば貴方もあの少年と同様に、まだ物語の中心に立つべき人物ではない」
ある周波数を超えると、人間の耳は音を認識できなくなる。勿論その範囲には個人差、個体差はあるが、しかし音と言うのは振動であり、震度である音が鳴っている以上、聴覚で感じることはできなくとも人体に影響を与えることはある。
そして、礼治も寛木も、そして新月もまた気づいてはいないことだが、男が放って宙に浮かんでいた毛玉──のような物──は今なお振動を続けていた。それは人に聴こえない音を発し続けている。そしてその音量が大きくなれば……結果は安易に予想できる。
「休未ちゃん!」
新月が叫んだ。
悲鳴のような、悲痛な叫び。
新月の身体から血が吹き出る。
まるで身体の内部を傷つけられたような──
「大丈夫だよ、新月ちゃん」
恐らく、普通の人間ならば膝をついて息を吐くのだろう。息を吐いて、もしかしたら苦しげに呻くのかもしれない。人体と言うのは痛覚によって簡単にその管理権を放棄してしまう節がある。凄まじい痛みを受けたら、そのコントロールは容易ではない。コントロールを体が受け付けないというよりは、体がコントロールする権利を、意志ではなく痛覚に明け渡してしまうのだ。勿論、しかしそれは比喩である。確固たる意志があれば、そのコントロールの権利、管理権は取り戻すことができる。物理的な限界さえなければ、どれ程の痛みがあれども体は動かすことができる。だが大抵の人間はそれができない。何故か。単純に意志の力と言う物が薄弱だからだ。確固たる意志があればできると言うのは、逆説的に確固たる意志がなければできないということに繋がるのだから。
そして状況を寛木休未に当てはめるならば寛木休未は確かに、痛覚から身体の管理権を取り戻す程度には強い、確固たる意志を持ち合わせていた。