第一章 決意 ──欠意── (2)
002
私立頭角学園の職員室にある人影は一つだけだった。時間は深夜の二時。普通に考えれば人影が一つあること自体が不可思議なことである。消灯された学校内には音が無い。暗闇と静寂に支配された空間は、学校という性質も合わさって不気味な存在感を放っていた。そんな空間の中で、明かり一つつけずに、その人影は居た。
西山和美。
この学園の教師の一人だ。
彼女は何かを待っているかのように、職員室の中で佇んでいた。
がらり、と扉が開く音が響く。
扉の方向へと目をやると、暗闇の中に、一人の人間がいるのが見て取れた。輪郭がぼやけている。ただ、彼女にはその人影が一体どんな人物なのかは分かっていた。分かっていないのは、その素性だけだ。
「西山」
彼女の名前を口にする。どうやら、男らしい。
「──寛木休未は元気か?」
男の口から洩れた人物名に、彼女は小さく体を反応させる。寛木休未。彼女の受け持つクラスに所属する、変わり者の少女の名前だ。変わり者というよりは、異端児と言うべきだろう少女の名前が、一体どうしてこの男の口から洩れたのか、理解できなかったのだ。
「えぇ。元気、よ。……多分」
多分そうだ、と思う。少なくとも、彼女自身の目にはそう見えた。そもそもがあまり、感情の起伏を表に出さない少女なので、その内面を見透かすことが、果たして担任教師である彼女にできることなのかどうなのか、そう問われると、彼女自身も自信を持って見透かすことが出来るなどとは口にできない。故に、返答には自身が無かった。だが男が、その返答を聞いて、「そうか。ならば、よかった」等と満足気に頷いて見せたので、正誤はともかく、その答えでよかったのだろう、と自分を納得させる。
男は自分のことを『救済者』だと呼んでいた。まるで怪しい宗教か何かの勧誘を行っているのかと勘ぐったが、実際はそうではないらしい。彼は、運命についてを調べて回っていると、そんな風に彼女に説明していた。運命──突拍子もない単語に、当初こそ驚きはしたものの、今の彼女にはその運命という物が一体どのようなものなのか、なんとなくではあるものの、理解できている。少なくとも、彼女はそう思っている。
「あの娘が元気なら、俺も、少しは気が楽という物だ」
なんせ、俺のせいであいつは大切なものを失ったんだからな。と、言葉が続いた。
大切なもの。
「それは、一体どのような物ですか? まさか、私の生徒に何かよからぬことを……」
警戒するように男に詰め寄る。男はしかし淡々と否定の言葉を放った。
「俺がお前の生徒に手を出すと思うか? ましてや寛木休未に手を出すと思うか? くだらんな。そしてつまらんな。面白くもないし、興味もない。俺は何せ、高校生のような成熟しきった女に、女になった女に興味の欠片すらもないのだからな。俺が手を出したのは、そう、あいつの彼氏の方だよ。それに手を出したというのも間違いだな。俺は間違いだらけの人間だからな。考えてもみろ。俺は運命の外にいる人間だぞ。運命に干渉することはできないさ。ましてや物語が始まっている以上はな。物語と言うのは起承転結でできているんだ。プロット通りに進まない物語はその時点で物語の体裁をなしていないと俺は考えている。そのプロットに俺が組み込まれていない以上、俺は迂闊にその物語に介入して物語を破綻させるようなまねはできんよ」
「その物語、という概念が私にはまだ理解できていないんですが」
「理解する必要があるのか? お前は未来を知りたいのか? 自分の運命を知りたいのか? ネタバレを見て読む推理小説ほどつまらない物を俺は知らない。本来、物語と言うのは自分でページをめくって、自分のペースで、自分の解釈で、解きほぐしながら読み進めていくものなんだ。だから別に、理解しなくてもいい」
ただ生きろ。そういって男は笑った。
西山は、未だ納得いかない顔で男を見つめていたが、やがて何かを諦めたように口を開く。
「それで、結局あなたは私に何をさせたいんですか。なんで私なんですか?」
「それは俺に訊くなよ。運命に訊け」
「運命にって……神様にでもですか?」
だとしたら馬鹿な話だ、と思う。まさか、神社に行って賽銭を放り込んで、願い事も願わずに運命について訊ねろ等と、もしそんな事を言われでもしたら、さすがに西山とて男に付き合い切れはしないだろう。
いや、そもそも西山は男に元から付き合う気などなかったのだ。男の話を与太話だと、単なる妄想による戯言だと、そう思っていた当初の彼女は、本来男の言に付き合う気など毛頭なかったのだ。
だったら何故彼女が男と一緒に居るのか。
それは単純に彼女が運命の片鱗を目にしたからだ。
それ以来、彼女の中には奇妙な存在が巣食っている。
巣食っているだけではない。それは確かに、彼女の中で蠢いて、成長しているのだ。
恐ろしい。とは思わなかった。
しかし、悍ましいとは思う。
「ふん。そうだな。寛木休未の安否を知れた時点で、今日はお前に用などないのだが──ああ、知っているか? 寛木休未と羽水礼治が『黒羊』と遭遇したらしいってことは」
「『黒羊』……?」
「そう。『黒羊』。世にも悍ましい変態野郎だ」
それを貴方が言いますか、と呆れながら、思い出す。
『黒羊』という名前。それの意味を。
知っている、はずだ。しかし、何故か思い出せない。
まるですっきりと記憶の中からその単語に類する記憶だけが抜け落ちてしまったかのような錯覚。
否、それは錯覚ではなかった。
確実に、彼女の記憶から『黒羊』という単語に類する部分が抜け落ちている。
思い出そうと、考えれば考えるほどに、鈍い痛みが彼女の頭を襲った。
脳が割れるような、という痛みではない。脳が押しつぶされるかのような痛みだ。高くはない、低い。それは『黒羊』の性格を如実に表している。
根暗野郎。と、男が言った。
その意味も、西山には分からない。
思い出せない。
「おいおいおいおい、なんてこった。あの根暗野郎、この学校に潜んでやがるぜ。夜中だってのに不法侵入じゃあねえかよ」
それも貴方が言いますか、と、頭を押さえながら西山は言う。考えるのをやめようとする。その分、意識はそちらに向いてしまい、頭痛はより一層ひどくなっていく。
別のことを考えろ、と男は言った。別の事。それはなんだろう? そう考える。答えは出てこない。別の事とは、何を考えればいいのか。何について考えればいいのか。考えているうちに、痛みはやがて薄れ、溶けていった。
「はぁ……はぁ……」
「大丈夫か? お前がその様だったら俺が介入せざるを得なくなるだろうが」
「か、介入って、なんなんですか?」
「物語は進んでるんだよ。俺たちはページをめくっているんだ。この学校は物語の舞台、なんだぞ? あいつだって登場人物なら動くさ。恐らく奴がいるのは図書塔だ。図書塔──まずいな。あいつが関わるのだけは避けたい。俺が寛木に合わせる顔がなくなるからな」
「寛木さんに?」
「良いから走れ! 図書塔に向かうんだ!!」
怒鳴る様に言って、男が職員室を飛び出す。一瞬、きょとんとしていた西山も、それを追う様にして飛び出した。
意味が分からなかった。
本当に。心の底から。理解が出来ないというよりは理解したくなかった。
自分がおかしなことに巻き込まれているという状況を。決して理解したくなかった。それは防衛本能のようなものなのだろう。
本来、彼女は幸せを手に入れるべき人間だった。
その為の努力を惜しんだことはなかった。
努力は報われるはずだった。
はずだった。
校庭を駆けて図書塔へと走る。
夜中の学校は静かだ。それは校舎外にも通じる。特にこの辺りは車の交通があるわけでもない。図書塔は真っ暗闇のはずだった。まるで廃墟のような石造りの塔。大人である西山にとってしても、あまり好んで近づきたくはない場所だ。その内部から何故か、明るい光が漏れ出ていた。男が入口の傍に立って西山を待っている。西山は足元が震えるのを感じた。
恐怖している。
それは自分でも理解できる。鮮明に。恐怖とは心の隙間だ。心の余裕を失った際、それはあらゆる形で、隙間として表れる。
怖い。
その感情に気づいてしまえば、なし崩し的に前進はその感情に支配されてしまう。
満ちてきた。
恐怖が、彼女を満たす。
指先から震えが走る。
がくがくと。
その足は震える。
「早くしろ!!」
と、男が叫ぶ。
その声にようやく彼女は顔を上げた。
いつの間にか恐怖に満たされていた体を、確固たる決意を込めて前に進める。
恐怖を呑みこむことはできない。
それでも彼女が前へと進んだのは、単純にそれ以上の恐怖に値する存在が現れたからだ。
彼女にとって、男は恐怖を超えた存在だった。
「いいか。この扉の向こうに『黒羊』は居る。居るはずだ。居ないわけがないからそれはつまり居るはずなんだ」
行け。と言われて、彼女は木造の扉に手をかけた。
重い。
押しあけて中に入る。
光が目をくらまして、反射的に目を閉じた。
それが、起点となる。
とんと軽い音と共に何かが飛んだ。
飛んだという表現はしかし正しくはない。
跳ねた。
そしてそれは西山の目の前に着地する。
奇抜な服装をした男だった。
髪の毛の質感がまるで羊の毛のようだ。
服装は、紫を基調にしたスーツ。しかしスーツの袖は破られていて、少しサイズが小さいズボンの裾からは、毛玉の取り付けられた糸が数本垂れ下がっている。
男のスーツの胸ポケットに入った携帯から、何やら音楽が流れている。
『羊は安らかに草を食み』。
バッハの作曲した楽しき狩こそ我が悦び、通称狩のカンタータの九曲目だ。恐らくは、男はそれを自分を現すテーマ曲とでも考えているのだろう。
しかし、そもそも西山にクラシック曲への関心は薄い。知っているのは運命くらいだと言っても差し支えはない。運命。もしもあの男が何かを自分のテーマ曲とするならば、恐らくは運命を選ぶに違いはないだろう。
「おやおや淑女よ。一体何の目的でここに?」
丁寧且つ緩やかな動作で、『黒羊』は問う。
「それは、こちらの質問よ。私はここの教員。問うべきは私でしょう?」
「それは──失礼をば。では名乗っておきましょうかね。山之上棺と申します。以後、お見知りおきを」
恭しく頭を下げる。ふわふわとした髪の毛の一部が、綿のように宙に舞った。
「以後お見知りおきしたくはないわ。出ていきなさい。警察を呼びますよ」
「警察。それは困りますよ。しかし出ていくことはできません。なぜなら私はここに用があってきているのですから」
「わざわざどうして? 夜中に不法侵入までして達成しなきゃいけない用事なんてあるのかしら?」
「それは勿論ですよ。でなければそんなことはしませんよ」
確かに、棺の言葉は理に適っていた。しかしそれはあくまでも社会的規則を無視すれば、の話だ。
「引く気はないわけね」
腹を括るかのように拳を固める。
力が抜けないように足に意識をやる。
「──そちらも、引いてはくれませんか」
あくまでも穏やかな調子で『黒羊』は言うと、頭を振った。
白い、綿のような毛が舞う。
胸ポケットの中の携帯から流れる音楽が、終わり、最初に戻った。
最初に戻った。