第二の序章 S村
1
バスから降りると懐かしい故郷の地面を踏んだ。澄んだ空気が肺を満たし、体を循環する。頭が冴えわたるような錯覚を感じて、少年は足元をよろめかせた。
肩にかかった鞄の重さを確かめるように、ずり下がったそれを上方向へと移動させると、ようやく彼は一歩を踏み出した。
少年の名前は、富阪葉次という。彼はつい先日、ここS村からバスで二時間ほど離れた梅沼市の高校を退学することで、このS村に帰郷してきた。
退学した理由を訊かれたときそれに対する返答をどのようにするか、とそんな下らないことを考えながら、葉次はその場にしゃがみ込む。
S村は本来、存在するはずがない村である。そんな風に言えばまるで何らかの別世界であるかのようにも思えるが、しかしその事実としては単純に、此処S村がどんな地図にも記されていないという、その一点に尽きるだろう。
田んぼや畑に挟まれた細い道の真ん中で、しゃがみこんでいる葉次を見かけて、西樹白木はバイクのスピードを落とした。
エンジン音に気が付き、葉次が顔を上げると、白木は小さく口元に笑みを作って、その白い歯をのぞかせる。
「久しぶりだな。葉次」
「おうっ。迎え、サンキューな」
笑い合って拳を重ねる。まるで古臭い青春漫画のようなそのやり取りを、しかし笑う者はいなかった。見ている者がいなかったから、当然ではあるのだが。
「ほら。荷物持ってメットかぶれよ」
フルフェイスのヘルメットを放り投げて、白木は言う。それに葉次は訝しげに眉をひそめた。
「なんだよ。お前、被ってねえじゃねえか」
「当たり前だろ? こんなど田舎で誰がノーヘルなんて注意するんだよ。白バイだっていねえぜ?」
「白バイはいなくても警官はいるだろうが。派出所の、ほら、あのおっさん」
「あ~あ。村木さんね。村木さんなら、許してくれるべ」
端から被るつもりなどなかったのだろう、白木はヘルメットを一つしかもっていなかった。葉次は白木の言い分も最もだとヘルメットを白木に手渡す。
「ったく。事故っても知らねえぜ?」
「事故ったところで落ちるのは田んぼか畑だろ。大した怪我はしねえよ」
「それもそうだ」
ヘルメットを引っかけると、バイクが走り出す。古い物だからか、エンジン音は大きいがスピードは対して出ていない。それでも、頬を撫でる風にはどこか、冷たくも温もりのようなものを持ち合わせているような、そんな錯覚を感じて、葉次は目を閉じた。
「おいおい。寝るなよ? マジで落ちるぜ?」
「寝てねえよ。風を感じてるだけだ」
言ってから自分の失言に気付き、葉次ははっと目を開けた。おちおちと感傷に浸ることさえできないのかと、軽くため息を吐く。
「風を感じるって、中学生かよお前は……志奈に話す土産話が増えたな」
「ちょっと待て。志奈には言うな。何を言われるかわかったもんじゃない」
「だからいいんじゃねえか。わっかんねえかな~?」
意地悪そうな笑みを浮かべて白木は言う。心底、楽しげだ。葉次は良い加減うんざりとしてきたのか、力無さげに首を振り、「あー、ったく。もーいいよめんどくせえ」と唸るように声をあげた。
「なんだよー。怒ったの?」
「怒ってねえ」
「いやいや、その言い方は怒ってる見たいですぜ」
「──疲れてんだよ」
なーるほど。と、まるで両手が自由であったら手のひらをぽんと叩きそうなノリで白木は言う。まったく……と葉次は心の中で呟いた。──まったく、変わっていない。それは勿論、良い意味でだ。そして、そんな変わっていない友人の姿を見ながら、思う。自分は、果たして、変わらずにいれているのだろうか? と。だが、その疑問に答えを出す余地もなく、バイクは速度を落とし、やがて一軒の家の前に止まった。
「ほら、降りろ」
小さな一軒家。都会では凡そ目につかないような木造建築の平屋だ。まるで時代の流れに置いて行かれたかのようなその家の、玄関の戸を開く。ガラガラと、音を立てて開いたとの向こう。そこに、彼女は立っていた。
「久しぶりだな、志奈」
「うん……。久し、ぶり、だね……」
目じりに涙を浮かべて、志奈は言う。
「おうおう。見せつけてくれるねぇ」
茶化すような言葉を放つ白木の顔にも、穏やかな笑みが浮かんでいる。
「ようちゃん──」
こらえきれなくなったのか、目じりに浮かんでいた涙の滴を落とし、志奈は葉次に抱きついた。
「──お帰りなさい、ようちゃん」
──ただいま。
2
世次の年。そう呼ばれている年代がある。現代から凡そ五百年ほど前の時代の事だ。その時、S村はこの国の中にありながら、しかし、この国に属してはいなかった。世次の年が終わりを告げるとき、このS村は突如として表に姿を現した。正確には、突如としてこの国の人間の認識の範疇に現れた。それでも、あくまでもそれは認識の範疇に現れただけであって、決して、全員が全員に知れ渡っているという事でもない。この村は、外界と絶たれていてなお、外界と繋がっている。それは、村の人間にとっての常識である。いわば、別世界のような、ものなのだ。地図にも載っていないし、交通機関も通ってない。なのに何故か、電気やガスなんかは通っている。不可思議でありながら、しかし不可思議であるからこそ、誰かが何らかの疑問を呈するという事はない。あったとしても、誰も、答えられないのだ。
それに、別に、S村から出ることが出来ないというわけでもないし、S村に入ることが出来ないというわけでもない。出る分には、S村から車で一時間ほど走ったところにある桐ケ谷市から電車に乗れば、都会に出ることもそう難しいことでもないし、入るのに至っては、前日から予約していれば、桐ケ谷氏から少し離れたところからバスに乗ることで入村はできる。歩いてでも、道さえわかっていれば時間こそかかれど、辿り着くことはできるだろう。
そんな、中途半端に外界と繋がっているS村の歴史において、特筆するようなことはそう多くはない。それはこの村がそれだけ平和で、平凡な村だったからだという事を裏付けているだろう。しかし、世次の年だけは、別だ。世次の年だけは、いずれ特筆すべきはいけないだろうし、また、語らなければならないこととなるだろう。
世次の年──
それは、S村の歴史上、最も波乱な時代であり、また、現代に繋がる『物語の原型』でもある。また言えば、『運命』の物語においても、深く、絡み付いた物語でも、ある。
しかし、世次の年を語るにおいて、今はまだ、時間が早すぎるというのもまた、事実だ。事実──、その言葉が果たしてどれ程信用に足る言葉なのか、それ自体も、決して計り知れぬところではあるが……。
ただ一つ、言えることがあるのは、S村において、過去の記憶というのは全て過ちのない、一つの記憶なのだという事だけは、ここに、注記するべきであろう。
3
S村に降り立つと同時に、違和感を感じた。沖宮紅葉は小さく辺りを見渡すと、S村の表記の彫られた岩の上に腰を掛けた。肩の力を抜くように深呼吸をすると、汚れの少ない空気が肺を満たした。それのお返しにとばかりに汚れきった二酸化炭素を吐き出すと、紅葉は胸ポケットから煙草を取り出し、その中から二本を口に咥えて火をつける。紫煙が空へと舞い上る。
不思議な村だと思う。虫や鳥はいるのに、何故か人は近寄らない。まるで何らかの結界が張ってあるような──
そして、その憶測は、正しい。それをしかし紅葉は知らなかった。自分の憶測があくまでも憶測の範疇であり、決してそれ自体が正解なのである、と。そんなことを決して紅葉は知らなかった。ただ、紅葉はあくまでも、その可能性が高いと、そう思っているだけだ。
紅葉は一気に煙草の残りを吸うと、吸殻を地面に落として踏みつけた。彼にとって、地面とは灰皿と同義なのだろう。
そんな彼に、後ろから声がかかる。
振り向くと、若くて綺麗な女性が立っていた。女性、とは言うものの、しかし、どこか幼さを兼ね備えているようにも見える。そして何より彼の目を引いたのはその女性の服装だった。豪奢な着物、のようでもある。その服のことを巫女服と呼ぶのだというとを、紅葉は知らない。何より不思議なのは、彼女の周りに、彼女と接するかしないかの感覚を開けて、細長く透き通るような布のようなもの(羽衣、というのも彼は知らない)が浮かんでいるという事だった。
「何か、用ですか?」
S村という、存在自体があやふやな村において、何が起ころうと動揺しない程度の精神力は、紅葉を持ち合わしたうえでこの村を訪れている。紅葉の問いかけに、彼女は無言で視線を地面にやった。
「…………」
無言。
しかし、だからこそ、その圧力というのは大きい。紅葉がつられて目を地面にやると、つい先ほど紅葉が捨てた煙草の吸殻が落ちていた。
ああ、と紅葉は納得する。
村を汚すな、というわけか。
「こいつは、ええ、失礼しました」
出来る限り柔らかな物腰で、柔和な笑みを浮かべながら、紅葉は謝罪の言葉を口にした。女性は、それを聞いて、なお無言を貫き通している。
美しい、それでいて、可愛らしい。それが紅葉の下す彼女への評価だった。そして、そんな評価を下したからこそ、彼は思う。
──グチャグチャにしてやりたい、と。
彼は、柔和な微笑みのまま、捨てた吸殻を拾い上げた。そして、しゃがむような恰好のまま、ゆっくりと、息を吸い、止めて──
駆けた。
風を切り、女性の下へと、一直線に。
それに、女性は無言のまま目もくれず、姿を──かき消した。
「あら、ららら……」
と、矢張り動揺することはなく、紅葉は苦笑を浮かべた。
どうやら、彼女が捜している人物なのだということに確信を持って、紅葉はポケットの中の携帯電話を取り出し、自分の仲間へと電話をかける。
「あ~。みつけましたよぉ。可愛らしい神様を~。ど~しますかね。殺したい? 犯したい? 縛りたい? 痛めつけたい? 傷めつけたい? まぁ、色々とやぁりたいことはあるんですがぁ……」
まずはぁ、と、妙に間延びした声で、続けた。
「とりあえずぅ~。『グリフレポート』についてぇ、調べましょぉか~」
4
本来。物語という中に生きている以上、最低限の事件──そう呼ばれるような、もしくはそう呼ばれるに値するような出来事に遭遇する機会というのは、少なからず、ある。存在する。それが何時、何処で、何故、起こるのか、もしくはそれと遭遇するのか、それ自体は知るべくもないことであり、また、知っていたところで特に、意味のないものではある。それでも、葉次は知っておくべきだっただろう。たとえば、誰かが急に、突然、目の前で死ぬことになるとしても──それを葉次は、知り、把握し、受け入れておくべきだったのだ。無理な話でも、不可能な話でも、それさえできていたならば、或いは、それさえできていなくても……。
歴史の動く瞬間というのは一瞬だ。
瞬間というのだから、それは一瞬で間違いないのだろう。
しかし、事態が起こるのにかかる時間は、事件が終息するまでにかかる時間は、決して、一瞬とは呼べるものではない。
世次の年──
過去の時代の歴史。
それは現代においても尚──続いているのだという事だけが、今、現時点で言える、断言できる、一つの事実である。