六話 悪魔と悪夢
我が麗しの姫の、そのしなやかな足に触れることは我が一生の誉れである。つま先で嬲られるのもいいが、やはり実際に唇を這わせ軽く食むのが、私としては最高の瞬間だろう。
その間、姫は冷ややかに笑みを浮かべ、見下すように見ている。
私や、私の次を願う者を、冷たい氷のような瞳で見るのだ。
その瞳は血潮の赤であるというのに、いかにしてこれほどの氷となったのか。その裏側を私はほとんど知らない。ただ、度し難いほどの絶望が、一人の魔女を《狂姫》へと変えたのだ。
彼女の心には、たった一人しか住まうことができない。
そしてそれを私や、私以外の誰かが得ることは、もう二度とないのだ。数少ない彼女の過去の中にその『たった一人』はいて、その誰かは《狂姫》となった時に死んだのだから。
あぁ、けれど嫉妬してしまう。
その才能、その美貌。そして彼女の心を満たす男。特に三番目の男が妬ましい。私が全身全霊をかけて傅き、その意のままに歌い続けたところで、私は彼の代わりにすらなれないのだ。
されどその喪失こそが、この地に狂姫をもたらしたのだから。
やはり感謝すべきだろう。
名も知らぬ、北の地で果てし青年の存在を、喜ぶべきなのだろう。
――『ニルヴェルヘーナ一門創立者の日記の一部』
ファリはひたすら走る。
目指しているのは村の外れ、ファリの家とは反対側の、何もない場所だ。普段は使わない力を使ったせいで、身体中が悲鳴を上げている。けれど、そんなことはどうでもいいことだ。
「トウヤ、トウヤトウヤトウヤ……」
裸足のまま雪原を踏み荒らす。人々が集まって、走ってきたファリを見て目をそらした。彼らにとってファリは、悪魔にだまされたかわいそうな女の子、だからだ。
未だその支配下から逃れられていないと、思われているのだ。
そんな人々を押しのけ、ファリは前に進んだ。
人々が見ていたのは――悪魔の処刑。
突然言われた、悪魔の疑い。よその村からも長やそれに匹敵する立場の人が来て、彼らはトウヤを連れて行った。彼は何も言わず、抵抗もせず、ファリの前から姿を消した。
彼女は真っ先に村長の元に向かう。
トウヤはそういう存在じゃないと嘆願するため。なのに彼女は数日、その屋敷に閉じ込められてしまった。何を言っても聞いてもらえず、外で何がどうなっているのかさえわからない。
しかし親しい知人がこっそりと、外のことを教えてくれた。
その知人からトウヤが今日処刑されると聞き、ファリはついに逃げ出したのだ。
普段は使わない魔女の力、魔女として彼女がうまれ持った力を使って。こうなったら彼をつれて逃げるしかないと、いや彼だけでも逃がさないと。思い、ファリはひたすら走り続ける。
だけど。
「トウヤ……」
彼女がたどり着いたのは、何もない場所だった。何もない。遺体も、残骸も。ただ赤い体液だけが残されている、真っ白い雪の上。がくり、とファリは膝をついて座り込んだ。
誰かと誰かと、更なる誰かがぼそぼそとささやく。
――かわいそうに、悪魔に魅入られて。
――怪しいと思っていたんだよ、妙なヤツだった。
――悪魔とか、まじ怖い。目をつけられなくてよかったぁ。
何を、彼らは言っているのだろうか。トウヤにいろんな作業を手伝わせて、あんなに感謝していたくせに。彼にきゃあきゃあ騒いで、勝手にこっちに嫉妬を向けていたくせに。
これ見よがしに、ファリの肩に手を置く男がいた。長の息子だ。逃げ出した彼女を追いかけてきたらしい。そんな彼が何かを、実に楽しそうに言っているのが遠くから聞こえる。
強引に立ち上がらされて、抱きしめられた。
――けっこんしきをしよう。
ぴくり、とファリの身体が震える。けっこんしき、けっこんしき。したかったよ、と心の中で誰かが泣いていた。でも相手はこの男じゃない。もう、相手はどこにもいないのだと。
「――」
きれいな音がした。それが最後だった。
残されたのは残酷な赤が一つ。
それを最後に、ファリという一人の少女は、この世界から消え去り。
その代わりに生れ落ちた。
――後に、ニルヴェルヘーナの狂姫とも呼ばれる、魔女が。
■ □ ■
彼女を見つけた、と聞いたのはファリの世界が終わって二年後だった。みっともなく逃げ出して生きながらえていた、諸悪の根源――村長の娘だ。
偶然にもよその村に行っていたらしく、そこからさらに逃げ出して異国まで至ったらしい。
縄で自由を奪われ、天井のはりを使って吊るされている。別にそこまでしろと命じた記憶はなかったのだが、これはこれでいい眺めだった。彼女が陥れた『あの子』も、同じようなことをされたのか、よく縄のすれた痕を手首や足首、いや全身の至るところに作っていたから。
「よくもお父様やお母様を!」
と、ファリを見るなりわめく姿は、実に品のないものだ。ぎし、ぎし、と身体が揺れ、縄がきしむ音がする。吊るされた高さはちょうど、爪先立ちになれば地面に接する程度。
後ろ手に縛られ、コルセットの上からさらに縄を巻かれ。
吊るされているが、それほど痛みはないらしい。
「お前は悪魔よ! やっぱりあの時、八つ裂きにされていればよかったんだわ……っ」
「悪魔、ね」
「兄さんがほしがらなきゃ、あんたなんてとっくの昔にっ。兄さんの温情で生き長らえていたくせに、この恩知らず! お前のせいでみんな死んだ、お前が全部全部悪いのよっ」
「別に誰のせいでもいいじゃない。誰のせいでも、現状は変わらないわよ?」
左右にゆれる少女を眺め、その視線を扉に向ける。
先ほど、彼女がここに入るためにくぐったものとは違う扉に。
それにあわせて、扉がゆっくりと開き始めた。鈍く響く音と振動は少女にも伝わり、彼女もまた同じように扉を――その向こう側を見る。薄暗い向こう側には、数人の影が見えていた。
青年らしい一人は椅子に座り、それ以外が彼に侍る構図。
一瞬、その光景に嫌悪したらしく、少女が視線をそらして目を閉じる。
「ちゃんと見てあげなさい。ずっと一人ぼっちで、身体だけを売って生きてきたかわいそうなお姫様。神子のように薄汚れて、なのに彼女のように労わってくれるお友達もいないお姫様」
「う、うるさい……っ」
「本当のことじゃない。……で、どう?」
促され、少女はしぶしぶと言った様子でもう一度、椅子に座る男を見た。
目を凝らし、数秒ほど見つめて。
「え……?」
その目が見開かれ、吐息のような声が漏れた。理解できないのだろう。とっくに、自分を捕らえた魔女に殺されたと思っていた家族、兄がそこにいることを。
もっと理解できなかった、いや理解したくなかったのは、兄の現状だ。そこには妹として慕っていた兄の姿などどこにもなく、あえていうなら――彼女のお客のような男が、いた。
兄に侍っているのは、女達だった。どれもこれも、裸に近い姿をしている。身体を売るような生活を続けてきた少女ですら、あんな格好をしたことも、望まれたこともなかった。
そんな女達は、ひたすら兄だった彼に侍り、何かを欲して笑っていた。腕に足に、まるで蛇のように絡み付いている。彼女らに触れられていない箇所など、存在しないほどの濃密さで。
もちろん触れるだけではない。
彼女らは、彼の肌に舌を這わせていた。
指を食んで、つま先も食んで。
それから、それから――。
「い、いやあああああっ、兄さん、兄さんっ!」
少女の声から絶叫が走る。
ぎしり、と縄をきしらせて彼女は兄を呼んだ。しかし彼は反応しない。反応があっても、彼は少女を妹とみなさないだろう。もしも彼の元に少女を連れて行けば、周りにいる女達と同類と認識されて、その先にあるのは彼女にとっての更なる悲哀だ。
長い長い、ただ貪られるばかりの生活で、その中身は完全に壊れていた。
いや――実にシンプルな形に、作り直されたというべきか。
「彼はね、あそこにいる『彼女達』のお気に入りなの。魔法式の才能はないけど、それ以外が優れていたから。それでずっと、気になっていたのよ……妹は、どういう感じなのかって」
ねぇ、とファリは傍らの男を見る。
黒い外套を纏い、フードをかぶる男を。
好き放題する彼女を補佐し、より好き放題し易くしてくれる男。あえて言うなら秘書という感じだろうか。そして、長の息子の『使い道』を教えてくれたのも、彼だ。
失った『彼』の代わりにはならないが、傍に置くことを許せる程度には大事に思っている。
その彼が、にやりと、ファリが喜ぶ笑みを浮かべた。
「こちらは魔法式の才能に、優れているようですな」
「そう……あわせる?」
「いえ。直接は濃くなりすぎますゆえ。今は。もう少しすれば血を薄める方法も、編み出すことが可能かと思われます。それまでは……ばらばらに、お使いになるのがよろしいかと」
そう、と答えて、ファリは手を伸ばす。
みすぼらしい娼婦の装いをして、そう呼ばれるに値する手段で生きてきた『女』に。
「大事な大事なお兄様と、ずっとここで使ってあげるわ」
捕らえるときに暴れたのか、だいぶぼろけていたドレスの胸元を強引に開く。男から差し出された短刀を、その適度に育った胸元の、ちょうど谷間と呼ばれる位置につきたてた。
深すぎず、けれど浅くない。
その痛みに絶叫が響くが、誰一人として助けは来ない。
彼女が救いを求めるように見た兄は、そもそも妹の存在すら認識していないだろう。今はまだ中身をつめていないから、生きているだけの道具の状態だ。
「あっちの中身、入れておけばもっといい歌声が聴けたかしらね」
笑いながらファリは短刀を引き抜く。赤黒いそれは、柄の部分に大きな宝石があった。引き抜かれて数秒、無色だった宝石がわずかににごり、色をともす。
この短刀には悪魔――そう呼ばれる精霊が宿っている。彼らの中には悪食なものがいて、何よりも絶望や悲しみといった、負の感情を食らいたがるものがいた。
それこそ、そのためならば一つの肉体を、永遠に生かし続けることができるほど。悪魔の力が宿った宝石がにごるのは、悪魔が生贄として少女を気に入った証拠である。
それを確認してから、ファリは男に短刀を渡した。
鈍い痛みにあえぐ少女に、にっこりと笑みを向ける。
「よかったわね。もう老いることはないわ。死ぬこともない。冥府に落ちることもないだろうとは思うけど、ついでに天国にいくこともない。ずっとずぅっと……ここで使ってあげる」
ファリはその頬を、まるで慈しむかのようになでた。
背を向けた彼女はそのまま部屋を出る。入れ替わりに、数人――いや、数十人の男がぞろぞろと部屋に入っていった。まって、何をするのよ。そんな声を最後に、扉は閉ざされる。
「どれくらい長持ちするか、楽しみね」
笑い、ファリは立ち去った。
■ □ ■
結局、少女は三日後に死んだ。
実にあっけない終わりに、ファリは非常に不満を溜める。
そんな彼女に答えるように、男は一つの手を用意してくれていた。その用意のよさと、中身のすばらしさをたたえ、ファリは彼の眼前に素足を晒す。好きにしろ、と命じながら。
豪奢な椅子。
はべる男。
ファリは足を差し出しながら、ただじっと愉悦の笑みを浮かべて見ていた。
彼女を苦しめた兄妹が、死んでは目を覚ますのを。
二人は二度と死ぬことはない。代わりになる、よりすばらしい『道具』が見つかるまで、誰かの父となり母となり続け、壊れたらあらかじめ保存していた中身を複製して入れなおして。
命を作り出すことは、やはりできないことのようだ。
しかし、命、魂と呼ばれる部位の『中身』は、少しの工夫で操作できる。
男は少女の魂から、その中身を取り出した。こうすることで身体は意思を持たぬ、生きているだけの人形になってしまう。そこへ複製した中身を入れることで、また元通りになるのだ。
これもまた、件の悪魔のなせる所業。
彼らはあの生贄を、ファリ達の想像以上に気に入ったようだ。
なぜそうするかというと、実に簡単なこと。
反応がないと、やはりつまらないのだと言われたからだ。
そうすると悪魔は絶望を啜れない、ゆえにそういう風にしたのだろうと、男は言う。事前に別の生贄で同じことが起きていたからゆえに、兄妹にも同じことをした。
もっとも兄の方は少し違う。現状把握能力はないに等しいが、彼なりに割りと今を楽しんでいるようだ。どうやら彼と契約した悪魔は、絶望より愉悦などを選んだらしい。
まぁ、どちらでもいいことだ。
呪いによって身体を生かし、魂すら縛り、永遠に生き長らえさせる。彼女からすると、目が覚めると永遠に悪夢が続いているようなものだ。そして数日で壊れてしまい、また元に戻す。
悪魔が彼らに飽きない限りは、ずっと繰り返される。
「もう、いや……」
聞き飽きた断末魔に笑みを深くして、ファリは目を細めた。
悪夢は終わらない。
ファリの夢は、まだ覚めない。