五話 二人っきりの結婚式
あたしは、幸せだった。
――『ファリ・ニルヴェルヘーナの独白』
小さな集落は、狂気を孕む。
娘が娘ならば息子も息子。長の長男は公然と村人や旅人を言葉巧みに誘い、そして食い物にするとんでもない男だ。……まぁ、父親含む身内が全員、そういう類の人間だったが。
そんな男が狙っているのが、ファリだった。
誰とも馴れ合わないところが、やけに気に入ったなどと日々言われている。
普通なら、権力者に気に入られるのはいいことかもしれないが、彼の身内が問題だ。娘や妹の言いなりになって、一人の少女を食い物にするどうしようもない連中。
そこに君臨する『王女様』もまた、憂鬱にさせる。
彼女の要求はすでに逃れられぬものとなり、数日中にトウヤは彼女のおもちゃにされる。飽きれば捨てられるだけの――捨てられればマシだろう、おもちゃに。
こんな時に限って、あれほど頻繁に来ていたウルはこなくなってしまった。
何度も求婚を断っているうちに、愛想をつかされてしまったらしい。こんなことなら、彼に事情を話して、トウヤをここから離すべきだった。こうなる前に、そうするべきだったのに。
あまりに、居心地がよかったから。
ずっと一人で生きてきて、一人であり続けて。
そのまま消えていくと、思っていた。そこにトウヤはやってきて、ファリをそのちっぽけな世界ごと包み込むように傍にいてくれて。離れたくない、離したくないと思ってしまった。
そんな自分のわがままが、彼を害すると薄々わかっていながら。
しかし、もう迷わない。
「……トウヤ、今すぐ旅に出なさい」
「え?」
勝手に必要なだけの荷物をかばんに押し込んで、外から帰った彼に押し付ける。もちろんいきなりそんなことを言われたトウヤは、何を言われたのか理解できず唖然としていた。
だが、理由を説明しているヒマなどない。早く彼を、ここから出さなければ。次の村へと向かわせて、さらに次へ。この大雪原から、一刻も早く離さなければならない。
かばんの中には数日文の食料と、路銀となる金銭など。
それからいろんな薬。さらに地図。それから何着かの着替えも入れた。
あとはこれを手に彼が旅立てば、それで全部終わる。
きっと、ファリはただではすまないだろう。娘に、そして妹に弱い長一家は、ファリを決して許さない。どんな目にあうのかは、セーレインを見ればよくわかる。二度と日の目を見ることはないのだろうが、それでもかまわないと思った。
――だって、彼女を見捨てていけないから。
ここでトウヤと一緒に逃げれば、ファリは幸せになれる。村のしがらみから離れ、自由を得ることができる。しかし、彼女がいなくなったことで、省みられなくなる存在もいるのだ。
誰からも守ってもらえないセーレインを、置いていくなんてできない。
助けることも、できない。
彼女は、きっとファリに逃げろというだろうし。逃げても責めない。
それがファリは、悲しかった。
彼女が、自分がそういう扱いをされるものだと思ってしまっていることが、悲しかった。
「知ってるでしょう? 長の娘が、あなたを婿にほしがっている……でも、きっとそうなったらあなたは不幸になるから。だから早く、ヒメモリ自治領に行きなさい」
「え、長の……?」
「知らなくてもいいのよ。いいから早く、ここを出て行くの、旅に出るの!」
かばんを押し付け、ぐいぐいと外へたたき出す。
トウヤは戸惑ったまま、少しずつ後ろへ下がっていった。
わからないなら、それでいいのだ。
狂ったこの村のことなど、彼は知らないままでいい。自分がいなくなったこの場所から、一人の魔女が消え去ることすらも、何も知らないまま、遠くで幸せになるべきなのだ。
なのに。
「ファリは、どうするの?」
彼は核心を突く。
まるで、最初から何もかも知っていたかのように。
「あたしは残るわ。友達が……いるから」
「長って、すごい権力者なんだろう? その『命令』にそむいたら、きっととんでもないことになるような気がするんだ。こういう集落なら、なおさら」
「……」
「ねぇ、ファリ。もう一度、尋ねるよ……君は、どうなるの?」
「……どうにもならない。あたしは」
大丈夫、と。
言わなければいけないのに、その前に抱きしめられた。どさり、と床にかばんが落ちる音がして、首筋に熱い息を感じてやっと、ファリはトウヤの腕の中にいることを自覚する。
こんな風に抱き締められたことなど、一度もなかった。
遠い昔、家族の誰かにそうされたような、気はするけれどはっきりしない。
逃れようともがくも、トウヤの腕の力は強く。
抗うファリの力は、ないに等しいほど弱かった。
「そうだね、きっと君は大丈夫だろう」
だけど、とトウヤは笑って。
「僕がダメだから……一緒に来てくれるよね?」
身体が離れ、正面から目を覗き込まれた。黒い瞳が、射抜くようにファリをうつす。もう無理だと思ったのと、唇がそっとふさがれたのはほぼ同じタイミング。
早く彼を放さなければいけないと思いながら、押し寄せる欲求に抗えない。
幸せだった。
朝まで、朝が来るまでは。