三話 異世界人との生活
ウルは欲しかった。
ただ、あの白く強い少女が。
ひと目ですべてを奪われてしまい、しかしその傍らに立つ黒い影に阻まれる。ウルとそう変わらない容姿をした、飄々としているようで狡猾なところもある、青年というべき彼に。
だから、彼は必死に青年と少女の仲を引き裂こうとした。
街に広まっていた噂すら、利用して。
だが――それがいけなかったのだ。彼女は愛する人を失い、自分すらも失い、親しんだ町は跡形も無く消え去って。血の海に変わった街の中心で、彼はようやく己の罪に気づいた。
ウルはこうして、初めての喪失をその身に刻む。
好きだった、好きだと思った。
彼に負けられない、自分こそが彼女を守ると。
だけど結局彼女を守ったのはあの青年で、それに比べて自分は――。
「お前は大事なものを、ちゃんと守れるようになれ」
旅立つ幼い弟に、彼は何度もそう語る。すでに妻を持ち、末弟より年上の子を十人ほど持つ父親となった彼なのだが、未だに若い頃の致命的過ぎる過ちを、悔い続けている。
妻となった同じドラゴン種の彼女は、すべてを知った上で彼と結婚した。
それだけのことを悔いもしない男なんかより、ずっとずっといい。
などと、笑って。
彼は、あの魔女を本気で愛していたのかと問われると、今は違うと言い切れた。
当時はまだドラゴン種と呼ばれる存在は、余りにも少なく。雪に覆われた世界に生きる雪のような容姿の彼女、その神秘さに、まるで同類のように思ってしまっただけなのだろう。
あれは愛でもなければ、恋ですらなかった。
いっそそうであったならば、まだ何かの救いになったのかもしれない。
だからこそ、彼は他の兄弟にも末弟の所在を伏せた。彼がもっとも大事にする少女と、一緒にいたいと願ったから。まぁ、父は何となくだが、すべてお見通しだったような感じだが。
長兄として、何もできなかった者として。
年の離れた弟のために、せめてできることだけでもしたかった。
――『竜王子ウルの懺悔』
「トウヤ、納屋から薪取ってきて」
「ん、わかった」
ファリの言葉にうなづき、厚手の外套を羽織って外に出て行く後ろ姿。それを、薬草を抱えた状態で、ファリは静かに見送った。彼が戻るまでの間に、残りの準備をしてしまおう。
水を張った大鍋に、抱えた薬草を丁寧に入れる。これを数日煮込み、煮詰め、全部を丁寧にすりつぶして混ぜ合わせることで、ありとあらゆる薬の原料にするのだ。
いつもなら自分ひとりですべてこなす作業も、彼がいるとずっと早く終わる。
彼と暮らし始めて数ヶ月。
奇妙なほどの居心地のよさを増しながら、ファリの日常は過ぎていた。
■ □ ■
あの日、ファリが家に運び込んだ青年。
彼はトウヤと名乗った。ニホンという場所から来たらしく、着ているのは通っていた学校の制服なのだそうだ。さすがにそれはわかった。遠い異国に、学校があるのを知っているから。
そういうところでは制服が支給され、在籍する生徒はみんなそれを着ているという。
まぁ、それはともかく。
ニホンという単語を、これもまた知識上でファリは知っていた。
南にあるエルディアという国に住む、ヒメモリと呼ばれる一族がいる。
彼らは集団で異世界よりこちらに迷い込み、そのまま定住し始めた者達だ。彼らには元から魔法式のような力があり、魔法式を実際に会得するのにそう時間はかからなかったという。
そんな彼らの故郷の名がニホン。
ヒメモリの家の者は、黒髪に黒目というワリと地味な色合いの容姿を持つ。おそらく、彼らの故郷とこの青年トウヤの故郷は同じなのだろう。時代まで同じなのかはわからないけれど。
「えっと、それで僕はそこにいけばいいのかな?」
「……行けば?」
ぴしゃり、と切り捨てたファリは、さっさと背を向ける。
拾って帰ったので面倒は見てやるが、さすがにそこまでは手を出せない。決して裕福ではないのだし、そこまでの旅費ぐらいは自分で稼いでもらわないと困る。
とはいえ目が覚めたばかりの彼を、何も知らないまま街に放りだすのも忍びなく。しばらくの間だけという条件で、ファリは彼の面倒を見ることにした。衣食住と、知識を提供する。
別に見返りがほしかったわけではなかったのだが、動き回れるようになったトウヤは主に力仕事を自ら買って出るようになった。薪割など、ファリが日ごろ苦労しているものを中心に。
どうして、と思う。
街は若い人手を欲していて、エルディア王国にあるヒメモリ自治領までの旅費なら、ひと月も働けば余裕を持ってためることができるし。何より、同年代の男なのに。
「……なんで、何もしないのよ」
一つ屋根の下で暮らし始め、しかし彼はファリがどきりとする行為を一つもしない。
そういう下心がある素振りすら、見せない。
そんなに自分に、女としての魅力が無かったのかと少し落ち込むが、街に行くと声をかけられるので彼の好みに合わないだけなのかもしれない。もちろん、襲われいわけでもないし。
もしや男が好みなのかと、そういう人なのかと思い始めた頃だった。
迷惑極まる存在が、彼女を訪ねて飛んできたのは。
■ □ ■
空に大きな翼を広げる、その巨体。誇り高きドラゴンと、弱き人間種の間に生れ落ちた稀有な命。その艶やかな黒い鱗は、竜帝と呼ばれる存在の血を受け継ぐ証だった。
竜王子と呼ばれるそのドラゴンは、家の外に出たファリの前に優雅に舞い降りて。
「我が麗しの花嫁、ご機嫌はいかがかな」
王子と呼ばれるに値する動作を持って、ファリの手を取りその甲に口付けた。
ウルという名のこの王子は、数年前からこうして度々ファリを尋ねる。そしてかつては彼の父がしたように、と本人がいうからそうなのだろうが、あの手この手で口説いてくる。
「あたし、あなたの花嫁じゃないんだけど」
結婚する気もないけど、とぼそりと言いつつ、ぱっと手を払う。
ましてや、相手は竜王子と呼ばれる存在。そんな者と庶民が結婚したら、要らぬことで苦労するのは目に見えている。苦労と感じられるならまだいいが、きっとそれは『苦痛』だ。
だいたい、彼らが暮らしている渓谷はずっと遠い。
ファリの知識は、この大雪原を基準にしたものばかりだ。つまり、寒いところでなければほとんどの知識を生かせない。寒い土地に、完全に合わせている知識と研究なのだ。
彼についていくことは、ある意味で魔女であることを放棄すること。
何より――友人を見捨てていくことになる。
次に薬の調合を担う者が、彼女を思いやれるとは限らない。
できなければいいと、巷に溢れる粗悪な薬を与えるのだろうと言い切れる。
それは、どうしても許せない。きっと、彼女は笑顔で、心からファリの幸福を願って送り出してくれるだろう。しかしそれを彼女自身が、自らに許すことができなかった。
ファリが生きる世界はここだ。
ここでしか、生きていかないと決めた。
だから渓谷にしか生きられない彼と、一緒になることはできない。
何を言われても、何をされても。
「ファリ、お客さん?」
そこにタイミングがいいのか悪いのか、トウヤがひょっこりと顔を出す。手元を布で拭いているところから察するに、勝手に洗物をしていたのだろう。それくらいやるというのに。
何よりここに彼が出現するのは、更なる混乱をひきつけるエサでしかない。
「誰だ、この男は」
「えっと……」
案の定、トウヤ――男の存在に、ウルは目を細める。元が美形なため、そういう表情は凡人以上の凄みが出た。さすがのトウヤも、う、と小さくうめいて、数歩下がっている。
完全に逃げないのは、お客様とウルを認識しているのだろうか。
「あ、あの、ファリ、えっと……お茶、いる?」
「要らないわよ。すぐ帰るもの」
むしろ今すぐ帰れ、と心の中ではき捨てる。
トウヤとの同居を始めてから、いずれは来るだろうと思っていた。しかし、同時に絶対に来るなと願っていた。それがこの竜王子ウルとの遭遇。せめて彼がいない時だったら……。
しかし、こうなったからには仕方がない。
これも居候の宿代と、彼には諦めてもらおう。
「我が花嫁よ、この男は」
「あたしの恋人よ。だから、あたしはあなたと結婚しない」
えっ、とうろたえるトウヤの腕を抱え、その頬にキスをする。
ぴたり、とファリ以外の動きが止まった。
ウルは絶句して、軽く青ざめているようにも見える。そしてトウヤは真っ赤になって、実に情けない顔をさらしていた。それじゃ、この嘘の信憑性が疑われる、とファリは少し怒る。
こうなったらもう、自分が尻に敷いていることにしよう。
思うのと、強引にこちらを向かせてその唇を奪うのは同時だった。ぞわ、と殺気のような怒りのようなものが肌を舐っていくが、ファリはお構い無しにトウヤの唇を貪り続ける。
――これじゃ逆じゃないの。
心の中でぼやきつつ、必死にトウヤと恋人アピールを続けた。まぁ、トウヤはファリの雰囲気に飲み込まれて、ひたすら相槌を打ったり恥ずかしそうに頬を染めるばかりだったが。
一方のウルはというと、わなわなと怒りなどで震えているようだった。そのまま怒って帰ってしまえ二度と来るなとファリは思ったが、実際にウルが帰っていったのは数時間後。
諦めない、という言葉は聞かなかったことにした。