一話 魔女の嘲笑
「さぁ、これで自由よ、セーレイン。これからあなたは、どこでも好きなところにいける。あたしはそれを手助けすることはできないけれど、あなたの旅の無事を祈るわ。しあわせになってねセーレイン。あたしの大切な人の、最後の一人。あなたは絶対に幸せになってね」
そういって外に出してくれたのは、わたしの大事なお友達。真っ白い彼女は、どうしてか真っ赤に染まっていた。優しい色の赤い瞳は、同じくらい赤くて、怖くて。
でも、その手はいつもの彼女のまま。
だから、つい尋ねたの。
「どうして?」
この屋敷を取り囲んでいる人々が、みんな死んでいるのは。
無口なあなたが、そんなにも饒舌なのは。
街が燃えているのは。
「もう、セーレインは『神子』じゃないわ」
そういって彼女は、ファリ・ニルヴェルヘーナは去っていった。
残されたわたしはすぐに、一人の青年に救われました。彼らは偶然にも街の近くを通りかかった商隊で、彼らがいてくれたおかげで街の人々を埋葬することができました。
わたしを犯人だと疑わなかったのは、どうやらファリのおかげのようです。
白い髪に、赤い目の魔女が――わたしという生き残りがいると、言って去っていったと。
救われたわたしは、これからを思いました。わたしはもう、自由だから。行き場の無いわたしは彼らと共に別の街まで移動して、そしてあの日、見つけてくれた人と結婚したのです。
苗字すら持たなかったわたしに、名前が増えました。
家族が増えて、幸せを手に入れた。それは全部ファリのおかげなの。
わたしは――セーレイン・スノーホワイト。
後に《狂姫》と呼ばれる彼女が、殺戮を繰り返した彼女が、唯一救った存在。
わたしはそれを、生涯の誇りだと思います。
これこそ、彼女が本当は優しい女の子だということを、示す証拠に他ならないから。
――『セーレイン・スノーホワイトの証言』
ありふれた幸せを、存在を、跡形も無く壊すのは楽しい。
血を見るのがたまらなく、ゾクゾクするほど心地いい。たった一夜の、たった一回の逢瀬にも匹敵するほどの、恍惚とした何かが身体から込みあがってくる。
周囲から響くのは心地よい音色、歌声。
それに酔いしれ、少女はその整った顔に笑みを浮かべる。
「もっと泣いて。泣いて泣いて、許しを請うて、そしてその目に失望を灯して?」
絶望では足らないのだ。
自身を含む、すべてへの『失望』こそが至高。
だから彼女はその『沼』に、足をどこまでも沈めていく。といっても、沼はとても浅く、あっという間にそこに足がついてしまった。大体、人間の胴体の厚みほどの深さしかない沼だ。
それに苛立ったのか、彼女は沼を踏み荒らす。
周囲に泥を撒き散らして、何度も何度も踏みつける。
次第に沼は枯渇して、そこにはぽっかりとした穴だけが残された。
硬い沼の底を見て、少女はとてもつまらなさそうに息を吐く。
けれど、その目が別の方向を向くと、表情は再び花が咲くように明るくなった。少女とは対照的な表情を浮かべた男女が、背を向けて走っていくのが見えたからだ。
「……やっぱり若い方が、いいわよね?」
誰に問うでもなく、あえて言うなら中身を踏まれぶちまけられた老人に声を向ける。もちろん老人は何も答えないのだが、彼女には何か、声のようなものが聞こえたのかもしれない。
「楽しいわ、トウヤ。この世界は楽しいことだらけ。だからこそ壊しがいがあるの」
少女は笑って、次の場所へと移動していく。
■ □ ■
彼女の名はファリ。
ファリ・ニルヴェルヘーナという、一週間前までこの街の外れに住んでいた。
触媒無しに魔法式を構築できる血統を持つ、まだ十七歳の若き魔女。そして今は、かつて故郷と呼んでいた街を蹂躙する、悪魔にも等しき所業をたった一人で行っている破壊の使者。
すべては一週間前に始まった。
一週間前に彼女は何もかも失い、今に至る。
されど、彼女がもてあそぶ若い女は、そんな事情など何も知らない。当事者以外は口を閉ざしたことだから、一般市民であるこの女が知るはずもないことは、誰だって知っていた。
それでも同じだ。
彼女にとって自分以外のすべてが、同じだった。
正確には自分と彼以外、となるのだが――その『彼』はもういない。
「ねぇ、ねぇ、トウヤ。この世界は素敵よ、とっても素敵」
腕の中にある、そのほんのりとした温もりが残っている塊。
笑いながら一つ一つのパーツを指先で撫で、魔法式で動けなくした女の音色を楽しむ。
それを、魔法式により彼女の胃のままに動く蔦が捕らえ、縛り上げて宙吊りにしたほかの民衆が見たり聞いたりしている。何やらいい声で歌っているようで、ファリの笑みが増した。
やめてくれ、と男が叫ぶ。
「だけどやめてくれなかったじゃない」
この子だけは助けて、と女が喚く。
「彼を助けてって、あたしは言ったわ」
そのためなら、何をされてもいいと願い出た。めちゃくちゃの、ボロ雑巾みたいに扱われても構わないといって、だから彼を助けてほしいと叫んだ。悪魔と呼ばれた彼を、救うために。
身代わりに殺されたって。
見せしめに首を刎ねられたって。
――あたしは、それでもよかったのに。
知人に聞いて駆けつけた彼女の目に飛び込んだのは、雪原に散る赤。
遺体はなかった。悪魔だから埋葬などしない、獣に食わせたのだと、前からファリを愛人にしたがっていた長の息子が笑い、これから二人の結婚式の準備をすると笑った瞬間に。
善良な、魔女というよりも薬師に近かった彼女は、死んだ。
その華奢な器に残されたのは、毒々しいほどの極彩色を伴う狂気。
善悪など、もはやどうでもいいことだった。
どうでもいいことに、なっていた。
「ねぇ、どうやったの? どうやってトウヤを殺したの? これを、こうひっぱった? あぁでもあなた達にとってトウヤは『悪魔』なんだから、もっとすごいことをしたのかしらね?」
腕の中にある、ふにゃふにゃのイキモノを解体する。壊していく。イキモノはもう魂を入れた器ではないから何をしても、何もしない。だけどファリは、笑顔で解体を続けた。
小さいパーツ。
長いパーツ。
丸くて大きなパーツ。
一つ一つを本体から丁寧にはずしていって、這いつくばって涙をこぼす女の前に、一つ一つを放り投げていく。女は、もう歌っていなかった。耳障りな声に、ファリの目が細められる。
「うるさいわ」
ひゅる、と空気を裂く音がして、ファリの肌に赤が散った。白い肌に白い髪、衣服までもが雪の如き純白に染められた彼女の中に、瞳と同じその赤は目に痛いほど鮮やかだった。
うごめく蔦は、聞くに堪えない歌を続ける女の腹を割く。
返して返してと、かつての彼女と同じことを歌っていた女に。
「じゃあ、返してあげる。あたしは、優しいもの」
周囲に散らばった、女の子供だったものを、無造作にねじ込んでいった。
もしも彼女が『ヴィルドース血統』でなければ、そして人間種でありながらも膨大な魔力を有する、俗に言う天才でなければ。おそらくは、ここまでの行為が実現することはなかった。
けれどそれより何より、彼女から幸せを奪いさえしなければ。
腹を割かれ、臓物を引きずり出され悶え、そこに我が子の残骸を押し込まれる女など。
きっと、この世界に存在するはずも無かったのだ。