気付き
カフェの裏口に立ち、千尋は冬の冷たい空気を感じながら息を吐いた。
バイトが終わったばかりなのに、なぜか心が落ち着かない。
(奏汰と……待ち合わせ……)
いつものことなのに、今日はやけに意識してしまう。
それはきっと、佐伯さんの「逃しちゃダメよ?」という言葉のせいだ。
(……違う。私はそんなつもりじゃ……)
軽く頭を振って雑念を払おうとしたその時——
「おつかれ」
低く響く声とともに、奏汰が姿を現した。
「お、おつかれ……!」
いつものように手ぐしで無造作な髪を整えながら、少し眠たそうな顔をしている。
夜の街灯の光が、彼の横顔を優しく照らしていた。
(あ……)
これまでも何度も見た光景のはずなのに、今夜はなぜか違って見える。
なんとなく、鼓動が速くなっている気がした。
「……どうした?」
奏汰が首をかしげる。
「な、なんでもない!」
慌ててそう言ったものの、ますます挙動不審になってしまう。
(やばい、今まで普通だったのに……意識しちゃうと、なんか、変にドキドキする……)
「ふーん?」
奏汰は深く追及することなく、ポケットに手を突っ込んで歩き出した。
千尋もその隣に並んで歩き出す。
***
「冬休み、バイト以外の予定は?」
奏汰がふと尋ねた。
「え? うーん……特にない、かな?」
千尋は少し考え込む。
「家でゆっくりしたり、たぶん咲良と遊んだりはすると思うけど……」
「そっか」
奏汰はそれ以上何も言わなかったが、千尋はなんとなく彼の横顔を盗み見る。
(奏汰は……冬休み、どう過ごすんだろう)
気になったものの、何となく聞きづらい。
二人の足音だけが、冬の夜道に響いた。
そんな時、千尋の視界にふとあるものが飛び込んできた。
「——あっ!」
思わず足を止める。
「ん?」
奏汰もつられて立ち止まると、千尋の視線の先を見た。
そこには、最近オープンしたばかりのラーメン屋があった。
「ここ、最近できたお店だよね……!」
「……ああ、そういやそんなこと言ってたやついたな」
「ずっと気になってたんだよね。でも、一人じゃ入りづらくて……」
ラーメン屋の暖簾を見つめながら、千尋はちょっとだけ唇を尖らせた。
すると、奏汰がふっと息を吐いた。
「……食っていくか?」
「えっ、いいの?」
「ダメな理由ある?」
そう言って、奏汰は店の入り口に向かって歩き出す。
(……あれ? なんか、こういうの、今までにもあったような)
いつも自然に誘ってくれる奏汰。
それが当たり前だと思っていたけれど、今夜は違って感じる。
「うん!」
千尋は嬉しそうに頷き、彼の後を追いかけた。
(こういう何気ないやりとりも、なんか……今までと違って感じる……)
胸の奥が、じんわりと温かくなっていくのを感じながら——。
冬の澄んだ空気の中、千尋と奏汰は並んでラーメン屋の前に立っていた。
暖簾の奥からは湯気とともに、食欲をそそる醤油と出汁の香りが漂ってくる。
「……めっちゃいい匂いする」
千尋はふわっと笑みを浮かべながら、店の前に漂う湯気をくんくんと嗅いだ。
「そんな顔するほどか?」
「だって、お腹空いてるときにこういう匂い嗅いだら、もうおいしいって確信できるじゃん!」
「それは……まあ、わからなくもないけど」
奏汰は呆れたように肩をすくめながら、店の入り口で立ち止まった。
すでに数組の客が並んでいて、店内からはズルズルとラーメンをすする音が聞こえてくる。
千尋はわくわくしながら順番を待ち、何度も店内を覗き込む。
(ああ、早く食べたい……)
順番が来ると、二人はカウンター席に案内された。
店員に注文を済ませ、千尋はメニューを見ながら楽しみにしていた。
「どんな味かなぁ……」
「そんなにラーメン食うタイプだったっけ」
「いや、特別好きってわけじゃないけど、新しいお店とか食べたことないメニューってワクワクするじゃん」
「ふーん」
奏汰は興味なさそうに流しながらも、なんとなく千尋の嬉しそうな表情を眺めていた。
***
やがて、湯気の立ち上るラーメンが運ばれてくる。
「お待たせしました、特製醤油ラーメンです」
「わあ……!」
丼から立ち上る香ばしい匂いに千尋は思わず顔をほころばせる。
スープの表面にはキラキラと脂が浮かび、チャーシューや煮卵が美しく盛り付けられていた。
「よし、食べよっ……」
千尋は箸を割り、髪をまとめようと鞄を開く。
しかし——
「あれ……?」
髪留めのゴムを探すものの、どこにも見当たらない。
(おかしいな、確かに入れたはずなのに……)
不安になり、もう一度鞄の中を漁る。だが、やはりない。
「どうした?」
奏汰がラーメンのスープを一口すすりながら、ちらりと千尋を見る。
「ゴム、忘れたみたい……」
「は?」
「ラーメン食べるとき、髪結びたかったのに……」
しょんぼりしながら髪をかき上げる千尋に、奏汰はくつくつと笑った。
「輪ゴムならあるぞ」
「輪ゴム!? そんなの痛いじゃん!」
思わずムッとした顔をすると、奏汰は面倒くさそうに自分のカバンを漁り始めた。
(え……まさか、本当に輪ゴムとか出してこないよね?)
と、千尋が怪訝そうに見ていると——
「ほら」
奏汰の手から差し出されたのは、紺色のシュシュだった。
端には小さな星のチャームがついていて、控えめながらも可愛らしいデザイン。
「……え?」
「クリスマスプレゼント」
「え、うそ、なにこれ」
思わず言葉を失った。
奏汰は相変わらずぶっきらぼうな表情のまま、シュシュを無造作に千尋へと押し付ける。
「伸びるぞ」
「いや、そういう問題じゃなくて……」
千尋は慌ててシュシュを受け取り、改めて手のひらの上で見つめた。
「……なんで?」
「なんでって、前にお前が星のチャームついたアクセ好きって言ってたから」
「あ……」
言われてみれば、そんなことを言った気がする。
だけど、それを覚えてくれていたことが意外すぎて、千尋は思わず奏汰をじっと見つめた。
「お返しとか、何も……」
「別に見返り求めてねーし。ほら、早く食え」
奏汰はさっさとラーメンをすすり始める。
千尋は少しだけ戸惑いながら、シュシュを髪に通し、器用にひとつ結びにした。
「……どう?」
「まあ、いいんじゃね?」
奏汰は顔も上げずに言う。
その適当さに、千尋は思わずくすっと笑ってしまった。
(まったくもう……)
スープを一口飲み、ラーメンの麺を箸で持ち上げる。
だが、千尋は食べながらもどこか落ち着かない気持ちだった。
(奏汰、普通にしてるけど……私、なんか変に意識しちゃってる……)
ぼんやりと考えていたその時——
「お前、今日変じゃね?」
奏汰が何気なく言った。
「そ、そんなことない!」
千尋は思わず慌てて否定する。
(変……じゃない。たぶん、今まで気づかなかっただけ……)
ふと、カウンター越しに座る奏汰をじっと見つめた。
クールだけど、さりげなく気遣ってくれる。
一緒にいると、なんだか安心できる。
そして——
(よく考えたら……私、星のアクセサリーが好きって言ったこと、そんなに大事な話でもなかったのに)
なのに、奏汰はちゃんと覚えていた。
それって、つまり——
「……」
千尋の頭の中で、佐伯さんの言葉がふと蘇る。
『あんないい男、そうそういないよ? 逃しちゃダメよ?』
ラーメンの湯気がふわりと上がる中、千尋はそっと目を伏せた。
(もしかして……私、奏汰のこと……)
そう考え始めた瞬間、心臓がぎゅっと音を立てるように跳ねた。




