失敗勧誘
休憩時間が終わり、千尋はエプロンの紐を結び直しながらホールへ戻った。
——モヤモヤする。
まだ頭の中にさっきのやり取りがこびりついている。
「クリスマス、空いてる?」
それを聞かれた瞬間、確かにドキッとした。それに—— 「じゃあ開けといて」 ってどういう意味だったんだろう?
奏汰の言い方はまるで当然のようだった。だけど、だからこそ千尋の心は落ち着かない。
(デート……なの? それとも……?)
答えが出ないまま、ホールに戻った千尋だったが、すぐに客足が増え、考え込んでいる暇などなくなった。
「いらっしゃいませ!」と笑顔で声を出しながら、オーダーを取りに行く。いつも通りのはずなのに、どうにも気持ちがふわふわしている。
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「すみません、このコーヒー、砂糖とミルクなしを頼んだんですけど……」
「あっ、ごめんなさい! すぐにお取り替えします!」
焦ってテーブルからカップを回収し、すぐにカウンターへ戻る。
すると、奏汰がカウンター越しに手を差し出し、「どした?」と尋ねてきた。
「えっと、お砂糖とミルクを入れちゃったみたいで……」
「そっか」
奏汰は特に何も言わず、新しいコーヒーを準備し始めた。
(……落ち着かなきゃ)
そう思いながら、再びフロアへ出る。しかし、千尋の集中力はまだ戻っていなかった。
「失礼しま——きゃっ!」
バランスを崩し、トレーを落としそうになる。
しかし、寸前で誰かの手が伸び、千尋の手元を支えた。
「おっと」
奏汰だった。
「大丈夫か?」
低い声でそう言われ、千尋は顔を上げる。
すぐ目の前に奏汰の顔。距離が近い。心臓が跳ねる。
「……だ、大丈夫」
そう言いながらも、千尋の顔は熱くなっていた。
(なにやってるの、私……)
自分でも呆れるほど、今日はミスばかり。
その後も、お皿を置く位置を間違えたり、お冷を出し忘れたりと、細かいミスを繰り返す。
そのたびに奏汰がさりげなくフォローし、「ほら、これ」と言ってさっとミスをカバーしてくれる。
けれど、それがまた千尋の心をざわつかせた。
⸻
「千尋、今日どうしたの?」
休憩明けの忙しさが少し落ち着いた頃、調理担当の同僚がふと奏汰に尋ねた。
奏汰はカウンターでグラスを拭いていたが、視線を上げることなく「さあ……?」と適当に返す。
「さっきからぼんやりしてるし、ミスも多いし。何かあったんじゃない?」
「さあな」
奏汰は肩をすくめ、それ以上話を広げることもなく、再び作業に戻る。
それを横で聞いていた千尋は、こっそりと溜め息をついた。
(……私のせいだよね、たぶん)
自分の不注意をフォローしてもらっているのに、奏汰にまで気を使わせてしまっている。
余計に気まずさが増して、千尋はさらに気持ちを引き締めるのだった——。
夜の喫茶店の閉店作業が終わり、千尋はカウンターの隅でエプロンを畳んでいた。
(今日は……何をやってもダメだった)
自分のミスの数々を思い出しながら、そっと溜め息をつく。
——それもこれも、奏汰のあの一言のせいだ。
「クリスマス、空いてる?」
あれを聞いた瞬間、一瞬でも「デートに誘われたのかも」なんて期待してしまった自分が恥ずかしい。結局、ただのバイトのシフト確認だったというのに。
そのショックをまだ引きずったまま、千尋はぎこちない手つきでエプロンをしまった。
⸻
「お疲れ」
奏汰の何気ない言葉に、千尋は「おつかれさま」と小さく返す。
喫茶店を出て、二人並んで帰路についた。
冬の夜の空気は冷たく、吐く息が白くなっている。
奏汰はポケットに手を突っ込みながら、何気なく口を開いた。
「今日、やたらミス多かったな」
「……うん」
「なんかあったのか?」
「……別に」
そっけない返事に、奏汰は片眉を上げる。
千尋がここまで会話を続けないのは珍しい。いつもなら何気ない話題でも、それなりに返してくるのに。
(なんだ、機嫌悪いのか?)
奏汰は少しだけ考えたが、深追いするつもりもなかった。
しばらく沈黙が続く。
足音だけが、アスファルトに響く。
千尋は、自分があまりにも不機嫌そうに見えていないか心配になった。けれど、今はどうしても普通に振る舞うことができない。
(空いてるって……バイトのことならともかく、本当にデートのお誘いだったらって思うと……)
そう思うと、ますます口を開けなかった。
⸻
「……ジュース奢るから、ちょっと寄ってけよ」
「……え?」
不意に、奏汰の声が響いた。
千尋は驚いて顔を上げる。
奏汰は、特に気にした様子もなく、近くの自販機を指差していた。
「ほら、寒いし何か飲めよ」
「え、でも……」
「いいから」
奏汰は小銭を取り出し、自販機に投入する。
「何がいい?」
千尋は、少しだけ迷ってから「……じゃあ、ココア」と小さく答えた。
奏汰は黙ってボタンを押し、缶ココアを取り出すと、千尋に手渡す。
「ん」
「ありがと……」
千尋は受け取った缶の温かさを感じながら、少しだけ顔を伏せた。
——なんだろう。
さっきまでモヤモヤしていたのに、奏汰のこういう何気ない気遣いに触れると、それが少しだけ薄れる気がする。
「ちょっと座るか」と奏汰が言い、公園のベンチへ向かった。
千尋も静かにそれに従う。
吐く息の白さが、冬の夜の静けさを際立たせる。
奏汰は缶コーヒーを開け、一口飲んだ。
「で? 何があった?」
千尋の肩がピクリと揺れる。
心の奥が、少しだけざわついた——。




