はろー・はろー
大人になると、子供たちの嬉しそうな歓声が素直に聞けずに
「うるさいなぁ、黙っていてくれないかなぁ。」
って思うことがある。この日のサエコ先生もそうだった。
サエコ先生は明るく晴れ上がった陽ざしを浴びながら思った。
(これこそ、遠足日和というものよ。)
春はもう終わりを迎えかけて、初夏の陽ざしと呼んでも良かった。肌にじりじり染み込んでくる強い日差しが、サエコ先生と生徒の周りにある近代的な建物と古風な建築物を一緒に照らして、京都という歴史の重みの中に融和させていて、違和感を感じさせない。
京都の人たちは、1000年も前の建物と、近代的なビルディングが一緒くたなのを、ちっとも変だと思ってない。この人々は誇り高くって、自分たちだけじゃなくって観光客にまで、この入り交じった景色が美しいと感じなさいって主張する。
サエコ先生はそんな奇妙な調和の中を、大名行列みたいに、担任の子供たちを引き連れて行進している真っ最中だった。男の子と女の子がそれぞれ列を作り、幾分、忠誠心の低い男の子は、女の子の監視下にあって、手を繋留められている。
「はろぉー」
という叫びが上がった。
(あの声は、信二クンね。)
と、サエコ先生は思った。信二クンは英語が話せるわけではないけれど、その『はろー』という言葉が、挨拶の言葉だと知っていた。
「はろぉー」
「はろぉー」
と、秀夫クンや健一クンの声が続いたので、サエコ先生は振り返った。
金髪で青い目の女の人が二人、子供たちの傍らを足早に歩いているのだった。旅慣れた雰囲気の若い女性で、手には観光ガイドブックや地図を持っていて、背中には大きなリュックを背負っている。金髪の娘たちは、彼らに手を振って応じた。生徒たちは自分たちの挨拶が通じた事を知って、うれしさに歓声を上げた。
金髪が子供達より少し早足に過ぎ去ると、サエコ先生は前方の高橋先生のクラスから少し遅れたのに気付いて号令をかけた。
「さあ、もう少し急いで。でも道路に飛び出しちゃだめよ。」
サエコ先生はもう一度、子供達の方を振り向いて、要注意人物の何人かを指さした。
今度は、その信二クンと手をつないでいた久美ちゃんが手を挙げて叫んだ。
「はろぉー」
子供たちは次の外人を見つけたのだ。久美ちゃんが声をかけた方向を振り返ると、その外人はサエコ先生のすぐ隣にいた。子供を連れた初老の紳士だった。彼女はその見事な奇襲ぶりと、いかにも、自分に用事があるのだという態度に恐れを抱いた。
紳士には周りの雰囲気から、サエコ先生がこの子供達の先生だろうと言うことは容易に想像が付く。そして、たぶん、この紳士は学校の先生なら外国語がしゃべれるに違いないと、迷惑にも勝手にそう思いこんでいるに違いなかった。彼女は学生時代の英語やドイツ語の成績を考えてゾッとした。そして彼女の想像どうり、初老の金髪は妻と子を従えて、彼女に向かって早口でまくしたてた。
(これはきっと英語だわ。)
サエコ先生は居直りきってそう思った。
(たぶん、京都駅へ行きたいんだわ。)
でも、サエコ先生は英語が苦手だ。彼女の語学力では、そんなことを説明しきれっこないのだ。彼女はそう確信しているのだ。紳士の妻と子が、父親勝りの早口で父親を援護し始めるに至って、サエコ先生のそんな落ち着きも急速に萎み始めた。紳士の言葉だけでも頭の中に溢れそうなのに、その妻や子供まで、ちっとも要領を得ないサエコ先生を責めるみたいに話しかけて来るのだ。
サエコ先生の悪運の強さが発揮されたのはその時だ。サエコ先生は、彼女のクラスに続いていた今井先生を見つけたのだった。
(これこそ、私の日頃の行いの良さというものだわ。)
と、彼女は自信を持って考え、手を振って叫んだ。
「今井先生、今井先生。」
サエコ先生は外人の親子に軽く会釈してから、しっかりと今井先生を指さした。
「今井先生、この人達が京都駅へ行く道を教えて欲しいんですって。」
彼女はそのまま自分の生徒を追うそぶりをしながら、外人の親子を今村先生に押しつけてその場を逃げだした。彼女はすっぱりと割り切った。
(そうよ、デリケートな私と違って、今井先生はずぶとい神経の人だから、なんとかなるわよ。)
「淳クン。」
サエコ先生は列からはみ出したやんちゃ坊主を指さして、列に戻るように命じた。彼女の家来は、余り、彼女に忠実とは言えないのだった。まっすぐで単調な道に飽きた彼らは、サエコ先生のスキを伺っているのだ。
でも、すぐに彼らの興味を引くものが現れた。彼らは次の外人を見つけたのだ。
「はろぉー。」
今度は、金髪ではなく、青い目でもなかった。彼は頭にターバンを巻いている。たぶん、彼はインド人なのだ。彼は子供達に哲学者の視線を注いで、後ろを歩いていた妻らしい女性を振り返って何か言った。子供達にとってインド人もアメリカ人もないのだ、ただ『はろぉー』の挨拶があるだけだ。
(金髪であろうがなかろうが、あんまり外人を呼び寄せないでちょうだい。)
と、サエコ先生は心の内で叫んだ。実際に、子供たちの「はろぉー」の遊びが、外人を呼び寄せるに違いないのだった。
平坦でまっすぐな道の所々には、彼らを待ち受けるように外人が現れて、子供たちを飽きさせない。
子供たちが「はろー」の遊びを始めるたびに、サエコ先生はさっきの親子を思いだして冷汗をかいて、今度の外人とは視線を合わせまいとしてうつむくのだった。再び、
「はろー。」
と、彰クンの声がした。続いて、健一クンと秀夫クンの声が響いて、次の外人を呼び寄せたのだった。サエコ先生は外人と視線を合わせないように、顔をそむけたが、子供達の声の高まりと共に、その外人が自分に近付いてくるのを知った。彼女は再び学生時代の英語やドイツ語の成績を思った。思い出せる限りの単語を思いだそうと試みた。
でも、、、。ムダな試みだった。それは英語でもドイツ語でも、中国語でもなかった。
サエコ先生に道を尋ねてきた相手は、赤黒い大きな頭の下に直接ついた8本か、それよりずっと多い足の何本かを使って、訳の判らない言葉とジェスチャーで京都駅への道を尋ねてきたのだった。
瞼のない大きな目が二つ、ほかに頼る者が無いかのように、まるで、哀願するようにサエコ先生を見つめていた。その外人の背後の駐車場には、観光バスに混じって銀白色の宇宙船が駐車しているのが見えた。このタコのような姿の外人は、ほかの星からやってきた観光客に違いなかった。
サエコ先生はあいそ笑いをして、今井先生の方を振り返った。でも、さっきの一件で懲りた今井先生が、自分の生徒を連れて逃げて行くのが見える。この外人を呼び寄せた子供たちは好奇心に満ちた目でサエコ先生を見守るだけだ。
もう、彼女が逃れるすべはない。
彼女は肩を落としてため息をつき、上目づかいに外人を見ながら小さく呟いた。
「ああ、私ってなんて孤独なの。」