8話
あるものを買って帰宅。
気が付けば、午後九時を過ぎていた。
「ただいま~。って、うわ!」
玄関から入った瞬間、目の前にはあぐりが立っていた。
「おかえり」
「なさい」
相変わらずの無表情。だが、どこかすがるような視線を感じた。
「遅くなってごめんな」
「いいえ」
「気にしてません」
この言葉も嫌われたくないから出てきた言葉なのだろう。
「二人とも留守番ありがとな」
きょとんした顔のあぐり。そんな驚くこと言ったかな。
「留守番してた」
「だけですけど」
「それが心強いんだって」
「見ての通り」
「か弱い幽霊ですが?」
「ポルターガイスト使える幽霊はか弱くないって。あぐりがいれば泥棒だって追い払ってくれるだろ。それに『おかえり』って言ってくると嬉しいからさ」
頭を撫でると、あぐりは無言になった。しまった。ちょっと図々しかったかな。
「お兄ちゃんは」
「いつも欲しい言葉をくれますね」
よかった。喜んでいたみたいだ。ここでもう一押し。
「はい、お土産のプリン。それと実はプレゼントがあるんだ。きっとプリンより喜ぶと思うよ」
「プリン」
「以上?」
あぐりは不思議そうに目をぱちくりさせて小首を傾げた。これ以上のプレゼントは想像がつかないようだ。
「はい、スマホ」
鞄から新品のスマホを手渡した。
「どうして?」
「ですか?」
「今日仕事行くとき寂しそうだっただろ。でも、これがあればいつでも連絡できるからさ」
約束だったから吉田さんから聞いたなんてことは言わない。
いや、まてよ。
「やっぱりいつでもは困るかな。仕事中に電話されても困るかも」
「……」
「……」
二人の沈黙が重い。
もしかして、的外れだったかな。
「ひそひそ」
「ひそひそ」
ぬいぐるみと話し合うのやめて。
「だ、ダメだった?」
恐る恐る問いかけると、真顔でこちらに向き直る。基本、無表情だから喜んでいるか全然わからない。
「ありがとう」
「ございます」
言い終わるや否や、俺の胸に飛び込んできた。冷たい体の感触が彼女を幽霊だと告げていた。
「えっと、嬉しかったの?」
「当たり前」
「ね」
顔を俺の胸に押し付けているため、あぐりの表情はわからない。でも、声は震えていた。
吉田さんと会話した後、すぐに思いついた。わざわざ携帯ショップまで行くのが大変だったけど。
……買ってよかった。
「これでずっと一緒だから。もう不安に思わなくてもいいからな」
「知っていた」
「のですか?」
「ま、まぁな」
『おぉ~』っとあぐりとぬいぐるみが同時に声を上げる。……すごい腹話術だな。
本当は吉田さんのアドバイスのお陰だけど。あの人にはもう頭が上がらないな。
「あなたは」
「神か?」
「いや、神じゃないけど」
「ありがとう」
「ありがとう」
あぐりが手を合わせて拝んでくる。いや、立場逆だろ。
「ただし、スマホゲームは一日一時間だからな」
「実は」
「スマホは初めてです」
「え、そうなの?」
今時の子はみんな持っていると思ってた。
「ネットはノートパソコンで見てました」
「興味はありましたが、スマホは外に出る必要がないから持たせてくれませんでした」
そういえばそうだった。
資料を見た限り、生前のあぐりは外出どころか登校することすらあまり許されていないようだった。
「でも」
「実は」
そのとき、俺のスマホが震えた。どうやら着信があったようだけど。
「あれ?」
何も書いていない。妙だ。
非通知設定をしていても普通なら『非通知』と書かれるはずなのに。
とりあえず、出ないようにしようと思ったが。
「出ても」
「いいかも?」
「いや、怖いんだけど」
「大丈夫」
「かも?」
なんで断言できないんだ。でも、あぐりは今まで信用できないことを言う子じゃない。
あぐりを信じて電話を取る。
「もしもし」
「くすくす」
「くすくす」
少女の笑い声がサラウンドで聞こえる。
夜中聞けば怖そうだ。……くぐもった声で聞きとりづらいが、どこか聞き覚えがある声だ。――そう、これは。
「あぐり?」
「うん」
「そうです」
「え、なんで?」
あぐりのスマホにはまだ俺の連絡先を入れていない。あぐりのはずはないのだが。
「なんとなくできそうだったので」
「やりました」
なんとなくで出来る心霊現象なのか?
「もしかして、スマホいらなかった?」
「そんなこと」
「ありません」
あぐりはスマホを大切そうに抱える。感激したように紅潮した頬、そして、その目には僅かに涙が滲んでいた。
「スマホはスマホで嬉しいです」
「私たちのことを考えてくれた証なので」
声もわずかに弾んでいるように聞こえた。
他の人から見ると無表情のままのようにも見える。虐待された子の多くは無表情の子が多いとネットに書いてあった。
だが、無表情だからといって感情がないわけではない。
ただ感情の起伏が乏しいのだ。
「それならよかった」
「大事にします」
「家宝にします」
安物のスマホだからそこまで大事にしなくてもいいんだけど。
「毎日お祈りします」
「仏壇に飾ります」
「いや、使ってくれよ」
俺に促されて、あぐりがやっとスマホの操作を始める。操作自体は現代生まれなだけあってスムーズだ。
これなら俺が何を教えてやる必要はないだろう。
スマホに夢中のあぐりを尻目に、一安心した俺はスーツを脱いでテレビを見ながら晩酌をする。この一杯のために生きてるって感じがするなぁ。
十時を過ぎた頃、妙に体が重くなっている気がした。
一瞬、『幽霊は他人から精気を吸い取る』という言葉を思い出した。
いやいや、そんなはずはない。
ただ疲れが溜まっているだけだろう。
「あぐり、そろそろ寝るけど」
「……」
なぜか不思議そうな顔で見つめられる。
「ど、どうかしたか?」
「寝るのが」
「早くないですか?」
あぐりが妙に思うのも仕方ない。いつもなら夜中の一時くらいまで起きているのだが。
「ちょっと眠くなっちゃって」
正直に体が重くなったとはなぜか言えなかった。もしかすると、心の奥底ではあぐりが『精気を吸い取っている』と思っているのかも。
いやいや、そんな馬鹿な。
俺が迷っていると。
「少し」
「いいですか?」
そんな俺の迷いを感じ取ったかのようにあぐりがそっと俺の手を取る。冷たい感触だが、あぐりの心配する心が伝わってくる。
「つらそうなので」
「かわいそうなので」
「添い寝して」
「あげます」
「いや、別にいいよ」
さすがにこの年になって女の子に添い寝してもらうのは恥ずかしい。
……ほんのちょっと心が揺らいでしまったんは内緒だ。
俺が断ると、あぐりは目元を伏せて表情を隠すようにうつむいた。悔しそうに握られた拳からあぐりの悔しさが伝わってくるようだ。
「スマホのお礼に」
「何かしたいです」
「ああ、お礼なら別にいいって」
「でも」
「何かしたいです」
珍しく食い下がるなぁ。
どうやらあぐりは内から湧き出る感情を表現できないもどかしさがあるようでそわそわと落ち着かない様子だった。
断る理由はないのだが、何かが心にひっかかり、いまいち素直に頷けない。
そのとき、気づいてしまった。
……もしかして、俺はあぐりを怖がっているのか?
『精気を吸われるかもしれない』と。
だとしたら、俺は自分で自分が許せなくなる。
「よし、じゃあ、一緒に寝ようか」
「「やったー」」
無表情のまま、あぐりとぬいぐるみが両手を上げる