5話
出来上がったパンを食べる。うん、良い焼き加減だ。……味に文句はない。でも。
「食べてる」
「食べてるね」
黙って見つめられると食べにくいんだけど。気恥ずかしさからパンを食べる速度が早くなった。
味がしないパンを無理やり飲み込む。
「15回しか噛まないね」
「ね」
「数えないでくれよ」
※※※※※※
昼、友達のいない俺が一人でFPSをしているときも。
「さっきからショットガン構えて曲がり角で待っているだけだね」
「ね」
「……エイムが苦手なんだから仕方ないだろ」
「手榴弾投げ込まれたね」
「死んだね」
「くすくす」
「くすくす」
「……煽らないでくれる?」
※※※※※※
夜、風呂に入る際に服を脱いでるときも。
「……一緒に入るつもり?」
内心ちょっとドキドキしながら問いかける。あぐりが躊躇なく頷いたとき、俺の心臓は早鐘のように打って、言葉に詰まった。
「幽霊だから」
「濡れません」
「おかまい」
「なくー」
……服着たままなのね。って、それだと風呂の意味ないじゃん。
「じゃあ、俺が風呂に入るところだけみたいの?」
「おかまい」
「なくー」
「ますます気になるからやめてくれ」
どこか不満そうなまま表情であぐりの姿が煙のように消えた。……ようやく一人になれた。
浴室に入り、シャワーで軽く身体を流した後、風呂に入り一日の疲れを取る。
なんともいえない至福の時。
……のはずだが、どこからともなく視線を感じる。
振り向いても誰もいない。
一瞬、消える直前のあぐりの物欲しそうな視線が頭をよぎった。
いやいや、さすがにあれだけ言えば、あぐりだって見に来ないだろう。
気を取り直して、シャワーで頭を洗う。
目をつぶりごしごしと髪を洗っていると、頭皮に何か違和感があった。
俺の頭を誰かが一緒に洗っている。
この指は……。
「あぐりだろ?」
「いいえ」
「違います」
あぐりじゃん。
なぜかわからないけど、とにかく一緒にいたいようだ。……仕方ないな。
「……ふぅ」
「めいわく」
「でしたか?」
軽く息をついた俺の様子に気づいたあぐりが不安そうに声をかけた。俺が怒っていると思ったのだろう。
暗くなりかけた雰囲気を変えるためにあえて俺は明るい声を出した。
「そんなことないよ。そのまま髪洗ってくれないか?」
ほっと安心したようなあぐりの気配を感じた。
「おまかせ」
「あれー」
頭を洗う指が増えた。細いしなやかな手の感触。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ。って、多くね? 美容室の過剰なサービスを受けてる気分だ。
「あのさ、洗ってるのあぐりだけだよな?」
「……」
「なんか言ってくれよぉ!」
※※※※※※
翌日、俺は眠気が残ったまま、目元をこする。
「ふぁぁぁ~」
昨日の夜中はあぐりが枕元でじっと見つめてくるから眠れなかった。あぐり一人だけなのに、なぜか視線は二人分だった。
「眠いの」
「ですか?」
「ちょっとな。……あぐりは本当に寝ないんだな」
幽霊だから寝ないのはわかっていたけど一晩中見つめられるとは思わなかった。
「暇じゃなかったか?」
「いいえ」
「ぜんぜん」
「二人で」
「お話していたので」
ぬいぐるみとあぐりが顔を合わせる。
「ね」
「ね」
いや、実質一人じゃん。とはいえ、あぐりにとってはぬいぐるみは別の自分で友達みたいなものなのだろう。
……たまに動いてるような気もするけど。
「じゃあ、会社に行ってくるから」
「ご飯は?」
「食べましたか?」
「食べてる時間ないからいいや」
本当は朝食を食べておいたほうが元気出るんだが、はっきりいってご飯を支度している時間まで寝ていたいという気持ちが大きかった。
「ひそひそ」
「ひそひそ」
なにやらあぐりたちが俺に聞こえないように相談している。辛うじて聞こえてきた会話には『栄養が』『面倒くさがり』みたいな単語が聞こえてきた。
やがて、二人が何かを言いたそうに俺を見た。
「……次からなんか食べるよ」
「何も」
「言っていませんが?」
さっき言ってただろ。
おっと、こうしている間にも出社時間だ。俺は鞄を手に取り、ネクタイを締め直す。サラリーマンの戦闘準備は万全だ。
「行ってきます」
「いって」
「らっしゃい」
声はするが、姿は見せず。いつものことだと思い、マンションを出る。
「……」
「……」
数歩歩きだしたところで、
「会社行くんだけど」
後ろからついてきたあぐりに声をかける。可愛らしく小首を傾げたあぐりは不思議そうな顔をした。
「いって」
「らっしゃい」
「あ、ああ」
再び数歩進んで、――振り向いた。そこには先ほどと全く同じ距離で全く同じ表情のあぐりがいた。『デジャヴかな?』と一瞬我が目を疑ってしまった。
「なんでついてくるんだ?」
「おかまい」
「なくー」
「いや、普通に構うよ。会社に行くんだって」
それが何か? みたいな顔をすんなよ。
「だからさ。家で待っててくれよ」
家族と一緒に出社なんてきいたことない。……あぐりの場合、幽霊だから消えたままついてくるなんて方法もあるだろうけど。
いや、そうなった場合、俺が仕事に集中できない。
「家族は」
「一緒にいるものではないのですか?」
家族と認識できなくなるほど虐待を受けていたせいで、どういうものが家族かわからないのか。
……あぐりにとっての家族は『どんなときでも一緒にいるもの』なのだろう。
「いつでも一緒というわけではないかな。だって、学校だって親がついてくるわけじゃないだろ?」
「学校」
「あんまり行かなかったので」
そういえば、資料に学校にはあまり行かせていないって書いていたな。……悪いことを聞いてしまった。
とはいえ、幽霊を連れて出社するわけにはいかないしなぁ。
「迷惑」
「でしょうか?」
戸惑っている俺を見て不安になったのだろう。あぐりが上目遣いで問いかけた。
「……それは」
「わかりました」
「ここで待っています」
俺が何かを言う前にあぐりが無表情で返答した。あれ? やけに聞き分けがいいな。もう少し食い下がると思ってたんだけど。
「それでは」
「いってらっしゃい」
「なるべく早く帰ってくるよ」
「ほんとう」
「ですか?」
「ああ、ちゃんと待ってたらお土産にプリン買ってくるよ」
あからさまに機嫌がよくなったことを隠そうともせず、あぐりはぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。
プリンという誘惑に対抗できる子供なんていない。
「楽しみだね」
「ね」
「くすくす」
「くすくす」
二人はすぅーっと消えて行った。やがて、どこからともなく二人の忍び笑いが聞こえてきた。あからさまな幽霊ムーブなのに、怖さは全くない。
あぐりは害をなさないと信じられるからだろう。
そんな風に思っていた。
でも、俺は忘れていた。
あぐりは幽霊だが、前の住人を何人も部屋から追い出した悪霊であることを。