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39話

「ただいま~」


 アパートに戻ってきた俺は背広を脱いでハンガーにかけた。

 いつもなら、ここでいつの間にかあぐりが後ろにいるのだ。

 ……ふふふ、いつも驚いてるからな。今日ぐらいは逆に驚かせようかな。

 内心でほくそ笑んでタイミングを見計らう。

 部屋着に着替えていると、背中に気配を感じた。

 今だ!


「わ!」


 大きな声を上げながら振り向いた。しかし――。


「あれ? 誰もいない?」


 予想と違ってあぐりはいなかった。

 おかしいな。そろそろ声をかけてくる頃合いなのに。


「あぐり?」


 呼んでみたが、返事はない。


「おーい」


 叫びながら他の部屋を探し回る。

 だが、あぐりはみつからなかった。

 明らかにおかしい。

 部屋に戻ると、なぜか鞄があいていた。


「あぐり?」


 俺に無断であぐりが鞄をあけた?

 いや、そんなことする理由がない。そもそも鞄の中には書類と財布、あとはあぐりから借りた犬のぬいぐるみくらいしかない。

 勝手に出て行ったなんてはずもないしなぁ。

 ……あ、そうか。

 犬のぬいぐるみを返して欲しいから、あぐりが勝手に持っていったのか。

 言ってくれればすぐに返したんだけどなぁ。


「ぬいぐるみありがとうな。でも、一言言ってくれよー」


 怒っていないというように優しく声をかけた。

 あぐりなりに何か事情があるはずだ。


「おかえり」

「なさい」


 背後からあぐりの声が聞こえた。いつもよりも小さく、弱弱しい声。不思議に思いながら振り向くと。


「ど、どうしたんだよ! それ!」


 いつもよりも色素が薄い。というか、透明に近い。


「幽霊みたいだ!」


 いや、よく考えたら幽霊なんだけどさ。……でも、何が原因でこうなったんだ? 仕事に行く前に見たあぐりは普通だったのに。


「前から幽霊ですが?」

「昔から幽霊でしたが?」


 きょとんとした顔で小首を傾げるあぐり。いや、昔は幽霊じゃないだろ。


「って、そんなことはどうでもいい! 大丈夫なのか!? なんか栄養があるものでも食べるか!?」


 体調が悪い時って何食べてたっけ? お粥とかでいいのか?

 幽霊に効くかどうかわからないけど。


「体調は」

「悪くないかも?」


 言葉自体はごく普通だ。

 でも、虐待されていた子は体調が悪くても隠すケースが多いと聞いていた。

 油断はできない。


「しいて言えば、ちょっと疲れたから?」

「しいて言えば、ちょっと大変だったから?」


 あぐりとぬいぐるみが顔を合わせて『ねー』と可愛らしく言葉を合わせた。……可愛いな。くそ。

 それ以上のことを話したがらず、明らかに何かを隠している態度だ。

 これ以上の追求なんてしたくないと思えてしまう。

 いや、そんなわけにはいかない。


「大変って……何かあったのか?」


 家の中は特に変わった様子はない。ということは、誰かが侵入したとかそういうトラブルじゃないだろう。


「大変だったのは」

「そっちでは?」


 あぐりは全てを見透かすような目を向けてきた。まるで今日の出来事を全て知っているようだ。


「な、なんのことだ?」


 とぼけてしまったが、よく考えれば特に誤魔化すようなことは……。


「またね。お兄さん」


 脳裏にエリサが思い浮かんだ。いやいや、エリサは親しくなった幽霊というだけでやましい関係はない、はずだ。

 落ち着くために俺は冷蔵庫のミネラルウォーターを飲んだ。


「電車の中で?」

「出会った?」

「ぶっ!」


 驚きのあまり水を吹き出してしまった。


「な、なんでそれを!?」


 もしかすると、実際に見ていたのかもしれない。

 幽霊であるあぐりならば透明になってついてくることだってできることだ。


「あぐり、正直の答えてくれ」

「はい」

「なんでしょうか?」

「俺の後をついてきたのか?」

「あぐりはついてきていません」

「私はついてきていません」


 無表情で断言するあぐり。嘘を言っているようには見えない。

 そもそもあぐりは嘘をつくような性格じゃない。

 どんな過酷な環境にあっても嘘をつくぐらいなら耐える性格だ。

 それこそ餓死するくらいに。


「じゃあ、どうしてエリサのことわかったんだ?」

「エリサ?」

「あの電車の子ですか?」

「そうそう」


 あれ? 名前はわからなかったのか。


「電車の中のことは」

「聞きました」

「え、誰に?」


 あの場には誰もいなかったはずだ。

 あぐりは俺に背を向けて、こそこそと何かを喋っている。『言っちゃう?』とか『頃合い』という単語が聞こえてきた。

 またぬいぐるみと相談しているようだけど。

 いつもと毛色が違うような。


「お兄ちゃん」

「言いたいことがあります」

「なんだ?」

「それは――」

「実は――」


 あぐりが言い終わる前に。


「あぐり! か、体が透けてる!」


 さっきよりも色が薄くなっている。あまりにも透き通った体は瞼を閉じるたびに一瞬、見失ってしまう。


「どうやら」

「限界みたいです」

「冷蔵庫にポカリあったから持ってくるから待っててくれ!」

「実体化が限界というだけです」

「すぐ戻ります」

「いいから!」


 やっぱり体調が悪いのを隠してるのか。

 慌てて冷蔵庫に向かい、冷えピタを取り出した。風邪引いたときに使おうと買っておいてよかった。……幽霊に冷えピタって効くのかわからないけど。そもそも霊が体調悪い時の対処法すらわからない。

 戻ってくると、あぐりとぬいぐるみがこそこそと話していた。『心配してくれる?』『優しいね』『ね』と聞こえてきた。


「心配するのは当たり前だろ。家族なんだから」


 声をかけると、あぐりはじーっと俺の顔を見つめてきた。


「な、なんだ?」

「調子が悪いことで心配されたのは」

「初めてなのでびっくりしています」

「こんな当たり前のことでびっくりされてもなぁ」

「私にとっては」

「当たり前じゃなかったので」

「それなら、今日からはこうして心配するのが当たり前になるな」


 そういうと、あぐりは黙ったまま動かなくなった。……ちょっと台詞が臭かったかな。


「~~~~~っ」


 あぐりはなぜかその場でくるくると回りだした。どこからともなくラップ音も聞こえてきた。


「ど、どうしたんだ?」

「なんか胸が熱くなったので」

「すごくドキドキしたので」

「「動きたくなりました」」


 嬉しいという気持ちを表現できなかったのだろう。微笑ましい行動だ。あぐりの体調が悪くなければ、俺だって一緒に回りだしただろう。


「とりあえず、落ち着いて……って、また透明になってる!」


 透き通り始めたあぐりの手に掴んだ。どうやら、見えないだけであぐり自身はここにいるようだ。


「ほら! これ飲んで! あとは休んでろよ!」

「休む? 地面に座ってればいいですか?」

「その場で蹲ったほうがいいですか?」


 あぐりにポカリを手渡したが反応は薄かった。どうやら、体調が悪くなったらベッドで休むという習慣がないからどうしたらいいかわからないのだろう。……仕方ない!

 俺はあぐりを抱えてベッドに向かった。


「お持ち帰りですか?」

「テイクアウトですか?」

「どこで覚えたんだよ!」


 呆れつつもベッドの上にあぐりを寝かせた。


「気分はどうだ?」

「悪くないかも?」

「悪いかも?」

「どっちだよ」


 一見元気そうに見えるが、たまにあぐりの体が透き通って見える。実体化ができないのだろう。



「上手く身体が動きません」

「力を使いすぎました」


 早苗の言い分では霊には精気が必要らしい。だが、あぐりは今まで精気を補充していない。

どうやら、ここにきてあぐりの精気が底をつきたのだろう。

 ということは精気を補充してやればいいのか。

 なら、答えは簡単だ。

 ここには生きた人間は俺しかいない。


「あぐり」

「なんでしょうか?」

「どうしましたか?」


 覚悟を決めてあぐりの手を取った。冷たい手だが、その心が温かいことは俺が良く知っている。


「俺の精気を吸ってくれ」


 そして、俺の決断を本当は好まないことも。

 それでも、弱っているあぐりを放っておくわけにはいかない。

 俺に出来ることならなんでもする。

 そのつもりだった――が。


「必要ありませんが?」

「別にいりませんが?」


 無表情のまま小首を傾げて、あぐりはきっぱりと断った。


「え」


 さすがにその答えは予想外だった。霊に詳しくない俺から見てもあぐりには精気が足りないように見える。

 かといって、強がっているようには見えない。


「い、いや、でも」


 戸惑っていると、あぐりがぬいぐるみといつも通り相談を始めた。……と、思ったが。


「……うん。うん……会社……電車……力使ったから?」


 いつもより、あぐりが聞き手に回っていることのほうが多いような気がする。

 やがて、相談が終わったあぐりがこちらに向き直った。


「少し休めば」

「大丈夫です」

「そう、なのか?」


 半信半疑で問いかけると。


「そろそろ霊が溜まってきたので」

「なんとかなります」


 珍しく自信満々で断言した。あぐりがそこまで言うなら問題はないと思うけど。


「でも、霊が溜まることとあぐりの体調に何か関係はあるのか?」

「あるといえばあるような」

「ないといえばないような」

「どっちだよ」

「ありま」

「すん」

「ますますどっち!?」


 あぐりとぬいぐるみが顔を見合わせた。あぐりは本当に何もわかっていないような表情で小首を傾げた。


「なぜか霊がいると体調が良くなるような?」

「そんな感じです」


 どうやらあぐりにもわかっていないようだ。

 色々と謎は多いが、俺自身も霊についてわかっていることは少ないから仕方ない。


「でも、霊って溜まるものなのか?」

「溜まります」

「重なります」

「え、じゃ、じゃあ、もしかして、この部屋にも?」


 周囲を見渡すが何かがいるような気配はしない。俺に霊感があればわかるんだろうけど。


「その辺にもいます」

「あの辺にもいます」


 部屋の隅や天井のシミを指さす。やはり俺には何も見えない。というか、霊ってそんな汚れみたいな扱いなのか?


「いっぱいいるのか?」

「はい」

「もちろんです」


 もちろんなのかよ。そういえば、早苗が霊道がどうのこうの言ってたな。


「なんか退治する方法とかあるのか?」


 そう言うと、あぐりはこくんと頷いた。


「それは――」


 何かを言いかけたとき、あぐりの袖が何かに引っ張られたように見えた。

 ……今、ぬいぐるみが引っ張ったような。……やっぱり気のせいかな。

 不思議に思っていると。


「それは困るそうです」

「それは困るみたいです」

「え、誰が?」


 あぐりはぬいぐるみを指さして、ぬいぐるみはあぐりを前足で互いに示した。ぬいぐるみの前足を動かしているのはあぐりだと思うから、結局困るのはあぐりだけということになる。

 ……あぐりが困るならやめておくか。

 もしかすると、退治する方法は霊であるあぐりにも影響があるかもしれない。


「わかった。とりあえず、退治はやめるけど」


 何もしないというのも気になるなぁ。よく見れば、天井のシミは知らないオッサンの顔にも見えて気味が悪い。

 黙って見つめていると、カビた臭いまで漂ってきた。


「とりあえず、目立つところはファブリーズかけておくか」

「あ、それは」

「ちょっと待って――」


 あぐりが止める前に近くにあったファブリーズを手に取り、シミのところに吹きかけた。すると、『ぎゃあああああ』という断末魔の声を聞いた気がした。


「……」


 思わず無言になってあぐりを見つめた。珍しくあぐりは困ったように動きが止まった。

 完全にフリーズしてる。

 もしかして、やっちゃった?


「ご、ごめん、あぐり。ま、まさかファブリーズで除霊ができるなんて思わなかったんだ!」


 こんなことなら除菌しないタイプのファブリーズにしておけばよかった。


「……とても強力な霊だったそうです」

「……とても育った霊だったそうです」

「そっか。ごめん。まさか育った霊だったなんて――って、え? 霊が育つとなんで困るんだ?」


 聞き返すが、あぐりは『そんなこと言いましたか?』みたいな顔で小首を傾げている。

 誤魔化したいなら詳しくは聞かないけど。

 あの霊はあぐりにとって大切だったようだ。


「悪かった。……俺に何かできることあればなんでも言ってくれ。お詫びになんでもするつもりだ」


 あぐりとぬいぐるみは視線を交わした。互いの意思が同じであることを確認すると。


「何もしなくて大丈夫です」


 あぐりが一足先に告げて。


「電車に乗ってみたいです」


 ぬいぐるみが腹話術であぐりとは違うことを言った。

 すぐにぬいぐるみをじろりと睨むあぐり。どういうつもりだと言わんばかりの視線だが、当然ぬいぐるみは答えない。

 どうやら上手く意思疎通ができていなかったようだ。

 ……珍しいな。でも、本音を言っているのがぬいぐるみのほうだとしたら、あぐりはどうやら電車に乗ってみたいということだ。


「それくらいならいくらでもしてやるけど」


 一瞬、あぐりが嬉しそうに目を輝かせたのを俺は見逃さなかった。やっぱり電車に興味があったんだな。


「でも、どうして電車に?」

「……」


 俺の問いにあぐりはぬいぐるみで顔を隠して答えない。どうやら言いにくいようなことだろうけど。

 でも、なんとなく検討はついた。


「俺が電車でエリサと話してたから同じようにしたい、とか?」


 ぴくりとあぐりの体が震えた気がした。

 どうやら当たりみたいだけど。


「遠慮しないでくれ。家族だろ?」


 ……それにしても、初めて出会った頃に比べれば、あぐりの感情がわかるようになってきた。

 俺があぐりに慣れてきたのか。

 それとも、あぐりが変わってきたのか。

 どちらかはわからないが、個人的には良い兆候だと思う。


「でも……」


 それでもあぐりは何故か戸惑っていた。今度は余計なことを言わないようにあぐりはぬいぐるみの口を手で押さえている。

 何かを言いたそうにぬいぐるみがもごもごと口を動かしているように見える。

 ……本当に動いているようだ。

 あのぬいぐるみ、たまに生きているように感じるんだよなぁ。


「……」


 長い沈黙が俺たちの間に漂う。

 どうやら、俺に遠慮してあぐりは話すつもりはないようだ。わがままを言っても嫌いになんかならないんだけどなぁ。

 虐待されていたころの傷はそう簡単に消えないということだろう。

 未だにあぐりは俺に対して一歩踏み出せないのだろう。

 それなら、俺が一歩踏み出すしかない。


「どうしたんだよ。俺は家族じゃないのか?」


 ずるい聞き方だ。案の定、あぐりは困ったように視線を彷徨わせた。

 でも、こういう言い方をすれば、優しいあぐりなら――。


「家族です」


 観念したようにあぐりが呟いた。


「電車ならいくらでも載せてやるからさ」


 俺が手を伸ばして頭を撫でようとした瞬間、あぐりの瞳は恐怖に染まった。思わず手は止まり、狼狽えた。


「ごめんなさい」


 あぐりが謝ると同時に姿が消えていく。


「あ、ちょっと待ってくれ!」


 慌てて引き留めるが、既にあぐりの姿はどこにもない。おかしい。いつも通り頭を撫でようとしただけなのに。

 もしかすると、殴られると勘違いされた?

 なんで今になって? 勘違いするなら、最初に頭を撫でたときじゃないのか?


「あぐり? おーい!」


 何度も叫んだが、そのあと、あぐりが出てくることはなかった。

 こんなことは一度もなかった。

 とりあえず、電話で早苗に相談してみた。『プリンでもお供えしておけばすぐ来ますよ』というからプリンを用意したが、結局あぐりが出てくることはなかった。

 訳が分からず、その日はそのまま寝てしまった。




「面白い!」


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