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35話

 部屋から出た高瀬は逃げるようにトイレに向かった。

 途中で出社してきたばかりの社員たちが部長に挨拶するが、心に余裕がない部長はそれに気づかない。

 部長が思っていたのは廉一郎のことだった。


 普通の社員。無能ではないが有能でもない。

 そんな特に何かがある社員というわけではないはずだった。

 逆らってきたからといって大したことはない。

 それなのに。


「すみません! 早くトイレに行ってきてください!」


 あの言葉の後、廉一郎の背後には黒い犬がいた。最初は幻覚かと思った。なぜなら、廉一郎や他の社員たちは黒犬を見た様子はなかったからだ。

 だが。


「あ、あの黒犬は間違いなくあの場にいた。わ、私を見ていた」


 声が聞こえてしまった。

 廉一郎に手を出したら殺すと。

 思い出した瞬間、身震いが止まらなくなってしまった。

 もう二度と廉一郎の目を見ることは出来ないだろう。

 恐怖を植え付けられて、圧倒的な敗北感に陥った。


 ※※※※※※


「ということがあったんだ」


 会社が終わり、駅に向かう道すがらあぐりに電話をした。会話の中心は部長との出来事だが、あぐりの反応は初めて知ったというような対応だった。


「あぐりが部長に何かしたんじゃないよな?」

「私は何もしていませんが?」


 声に嘘はないように聞こえた。やっぱりあぐりが何かしたというわけではないようだ。ちょっと疑って悪いことしたな。

 単純に部長のメンタルが弱い可能性だってあるよな。


「だとしたら、このぬいぐるみが助けてくれたのかもな」

「かもしれません」


 ……沈黙するあぐり。ちょっと嬉しそうな言葉の響きにも感じられた。


「お礼を言ってあげてください。あの子から一緒に行くと言い出したので」

「ああ、そうだな。ありがとうな」


 鞄の中に入っているぬいぐるみに話しかけた。もちろん、返事はない。代わりにあぐりが『えっへん』と胸を張ったような声を出した。

 ほんわかした雰囲気になりかけたが――。


「……っ」


 苦しそうにあぐりが息をついた。


「大丈夫か!? あぐり!」

「だ、大丈夫です」


 とても大丈夫には聞こえない苦しそうな声だった。


「ま、まさか病気か!?」

「疲れてるだけなのでお気になさらず~」

「それならいいけど。……今日は少し早めに帰るから。何か買ってきて欲しいものとかあるか?」

「特には。でも、二人に会いたいです」


 二人? ……ああ、ぬいぐるみのことか。


「ああ、必ずぬいぐるみも連れてくるよ」


 力強く言うと、安堵したような気配が電話越しに伝ってきた。自分の半身ともいえる存在がいなくて、よほど心細かったのだろう。

 辛いことに慣れているあぐりがここまで感情を出すなんて初めて見た。

 そこでようやく俺は気が付いた。


「もしかして、ぬいぐるみがないから不調なのか?」

「そんなことはありませんが?」


 と言いつつも、あぐりはちょっと苦しそうだ。どうやらぬいぐるみがあぐりの心の均衡を保ってくれていたようだ。

 ……そんな思いをしてまで俺にぬいぐるみを貸してくれた。

 俺が会社で辛そうだったから。

 弱音を吐いたから。

 自分の気持ちよりも俺を優先してくれたのか。

 途端に自分がふがいなく思えてきた。

 本来なら、今まで辛い思いをしてきたあぐりを慰めるのは俺の役割だと思っていた。

 立場が逆じゃないか。

 今すぐあぐりを愛でたい気持ちが胸中に湧き上がってきた。


「――すぐに家に帰るから。そうしたらぬいぐるみを返すよ。……今日は早くあぐりの顔が見たいんだ」


 強い意志を込めて告げると、電話の向こうのあぐりがちょっとほほ笑んだような気配を感じた。


「待ってます」

「じゃあ、また後で!」


 電話を切り、俺は走り出した。

 今ならぎりぎり次の快速に間に合うかも。



「面白い!」



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