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34話

「――ひぃぃぃぃぃ!」


 いきなり大声を上げる部長に驚いて俺は拳を止めた。え、そんなに俺が殴りかかるのが怖かった?


「ひぃぃ! ひぃぃぃぃ!」


 怯えて尻もちをつき、殴られまいと必死に腕で顔を隠す部長。情けないというよりも、妙な違和感のほうが大きい。

 なにせ部長は明らかに俺を見下していた。俺が反抗したところで『クビにするいいチャンスだった』と余裕で言い放ちそうだった。


「も、もうやめてくれ。悪かった。俺が悪かった」


 消え入りそうな声で必死に許しを請う姿に周囲の社員たちも戸惑いを隠せない。


「だ、大丈夫ですか? 部長」


 俺が声をかけると、はっと何かに気づいたように顔を上げた。そのまま黙って俺の顔を見つめる。

 女の子に見つめられるのは嬉しいけど中年男性に見つめられるのは嬉しくない。


「ど、どうかしましたか?」

「い、今のは夢か?」

「? 何がですか?」

「今のを見なかったかと聞いてるんだ!」

「は? な、なんのことですか?」


 俺が本気でわからないとわかったらしく、部長は徐々に落ち着きを取り戻していった。


「ゆ、夢。そうか。夢……だな」


 小言で『夢……夢に決まってる』と言い続けている。マジで大丈夫か?

 あまりにも情けない部長の姿に哀れみを込めた社員たちの視線が向けられた。


「いくらなんでもダサすぎない?」

「散々威張ってたのにちょっと反抗したら怯えるんだ」

「部長、前は暴走族の組長やってたとか言ってたのに」

「え、私は高校で番長だったって聞きましたけど」

「どっちにしても情けなさすぎだろ」


 社員たちの失笑混じりの会話を聞いて、部長の目に色が戻ってきた。ようやく元の部長に戻ったようだ。

 安堵していると、いきなり俺の顔を睨みつけてきた。


「お前、俺に殴りかかろうとしたな!?」


 情けない姿を誤魔化すように激しく唾を飛ばしながら俺の胸ぐらを掴んできた。

 も、元の部長に戻ったみたいだけど。正直、落ち込んだままでよかったなぁ。


「あ、いや、俺はただぬいぐるみを返してもらえれば」

「ぬいぐるみ? こんなもの!」


 部長が手にしたぬいぐるみを見た瞬間。


「ひぃあああああああぁぁぁ!」


 悲鳴を上げながら、部長は手にした二つのぬいぐるみを放り投げた。

 え、二つ?

 慌てて俺はぬいぐるみを拾った。

 一つは犬のぬいぐるみ。これはあぐりが大切にしている友達だ。

 でも、もう一つは。


「な、なんで!? ゆ、夢じゃなかったのか!?」


 中年男性のぬいぐるみだった。これは確実の俺のものじゃない。おそらくは部長のものだろうけど。……控えめに言って可愛くない。


「これ、部長のものですよね。いつの間に出したんですか? 全くわかりませんでしたけど」


 そう言って、中年男性のぬいぐるみを差し出して返そうとしたが。


「ち、違う。俺のものじゃない!」

「いや、でも」

「いいから近づけるなぁ!」


 俺が持っている中年男性のぬいぐるみを手で弾き飛ばした。なんだよ。折角、拾ったのに。

 もう一度拾うために部長の足元に落ちた中年男性のぬいぐるみを屈んで手に取った。

 そのまま立ち上がろうとしたときに気づいた。


「部長、なんか股間濡れてませんか?」


 部長のスーツは紺色のため目立ちにくいが、股間付近にお漏らしみたいな跡が見えた。


「あ、いや、こ、これは」


 不自然なくらいしどろもどろになりながら股間を手で隠す部長。どうやら本当に漏らしたみたいだ。

 ここにいる社員たちのそのことをバラせば部長の権威は更に地に落ちるだろう。


「部長なんで股間押さえてんの?」

「まさか漏らした?」

「まっさかぁ」


 いや、そもそも俺がバラさなくてもこの調子ならいずれ誰かにバレる。

 そうすれば、きっと俺もパワハラされず過ごしやすい環境になるはずだ。

 一瞬、俺の中の悪魔が囁いた。だが――。


「部長、すみません!」


 謝罪と同時にテーブルに置いてあった水を手に取り、部長にぶっかけた。


「な、何をするんだ!」


 突然のことに今までの恐怖から正気を取り戻した部長が叫んだ。


「すみません、手が滑ってしまって!」

「どうしてくれるんだ! 高いスーツなんだぞ!」

「すみません! 早くトイレに行ってきてください!」


 そこでようやく俺の意図がわかったらしく、真意を探るように見つめられた。その視線に対して俺は裏なんて何もないというように真摯に見つめ返した。

 すると部長は突然、何かに気づいたように目を見開いた。

 俺……ではなく、背後を見てる?


「い、犬が! あ、あの犬が!」


 振り返り、部長が見ていた視線の先を探るが、特に何かがいるわけではない。

 俺が何も見えなかったことに気づいた部長は顔を恐怖に染めた。


「ひぃ!」


 何故か知らないけど怯え始めた。本当に前までとは別人みたいだ。


「早く!」


 もう一度俺が促すと、


「あ、ああ、わかった」


 部長がひょこひょこと不自然な動きでトイレに向かった。『これでよかったのか?』というような視線を犬のぬいぐるみから感じた。

 大丈夫だというように俺は犬のぬいぐるみを撫でた。

 ……あぐりがこのぬいぐるみを人間扱いするから俺もつい人間扱いしてしまった。

 ぬいぐるみを愛おしそうに撫でる成人男性なんて普通の人間が見れば変態と思われても仕方ない。

 周囲の視線が気になって目を向けると、部長の様子を気にしており、こちらに目を向ける者はいない。

 部長の情けない姿を馬鹿にするような声も聞こえてきた。

 部長が部屋から出る直前、


「す、すまなかった」


 小さな声、だが、確かな響きを伴った謝罪は俺たちの意表をついた。

 一瞬の静寂(せいじゃく)を破るように部屋のドアがぱたんと閉められた。

 途端にわっと俺の周りに人が集まる。


「廉一郎さんってすごいんですね!」

「正直、すっとしました!」

「大人しそうな外見なのにすごいんだな」

「最近、やりすぎなんだよな。あの人」

「セクハラも酷くなってきたしね」


 部長に対しての不満が次々と出てきた。あまりの声量に他の部署にも聞こえてしまいそうだ。

 いや、むしろ聞かれても構わないというような態度だ。

 今までは部長がしてた行為をぎりぎり許容していたが、俺の行為によって堰を切ったように溢れてしまったのだろう。


「おはようございます」

「すみません、電車ちょっと遅れちゃってー」


 そのとき、早苗や他の女性社員たちが続々と出社してきた。


「聞いて聞いて!」

「今、部長がさー」


 俺の周りにいた社員たちは騒ぎを知らない社員たちに元に向かい、さっきの出来事を大げさに説明し始めた。

 その場にいた視線が俺に集まり、めちゃくちゃ落ち着かない。


「先輩、ちょっといいですか?」


 そんな中、早苗だけは深刻そうな顔でこっそりと近づいてきた。


「どうしたんだ?」


 渡りに船とばかりに社員たちから離れて、部屋の隅に身を寄せた。


「……この会社に入ってから寒気が止まらなくて。……やばいです。めっちゃやばい悪霊が近くにいますよ」

「はは、そんな馬鹿な」


 笑い飛ばしたつもりだったが、早苗の青ざめた表情を見て、俺も態度を改めた。


「何か変わったこととか起きてませんか?」


 そういえば、部長の態度も変だったしなぁ。

 変わったことといえば、


「このぬいぐるみくらいか」


 取り出したのは中年男性のぬいぐるみだった。

 犬のぬいぐるみもあるが、それよりも突然現れたこっちのぬいぐるみのほうが見た目からして怪しい。


「なんか部長に似ててなんか気持ち悪いぬいぐるみですね」


 それって部長が気持ち悪いって言ってるようなものだろ。気持ちはわかるけど。


「もしかして、部長の出て行った原因ってこれかなって思ってさ」

「その可能性はありますね。ちょっと借りてもいいですか? ハレルヤ様に見てもらいたいんですけど」

「あのインチキに?」

「インチキじゃありません。立派な方です。この前も霊水を一万円のところ五千円で売ってくれました」


 インチキじゃんか。ぬいぐるみを渡したところで何もわからなそうだけど。

 なにげなく手にした部長似のぬいぐるみを見た。ところどころ縫い目が荒い。ごく普通のぬいぐるみにしか見えないが。……そこはかとなく不気味なんだよな。

 出来れば持っていたくない気分にさせる。


「ハレルヤ様なら、きっと何かわかると思いますよ」

「わかったよ」


 重ねて説得を続ける早苗を見て、俺は仕方ないというようにぬいぐるみを差し出した。


「なにかわかったら連絡しますね」

「ああ、頼むよ」

 どうせわからないだろうけど。


「おいおい、二人で何してんだ? そういえば、よく二人きりで話してるけど付き合ってんの?」


「あ、いえ、その」


 早苗が恥ずかしそうに顔を伏せながら、ちらちらと俺の様子を窺う。言外になんとかしろよという圧を感じた気がした。


「いえ、そんなことないですよ」

「あー、そうなんだ。付き合ってるように見えちゃったからさー」

「ちょっと趣味が一緒なんで話してるだけですよ」


 俺なんかと誤解されたら早苗も迷惑だろうと思い、正直に話したが。


「……」


 早苗がなぜか無言で睨んできた。ぶっちゃけ部長よりも怖い。


「さっきの話さー。こっちに聞かせてよ」

「聞かせて聞かせてー」

「廉一郎君ってすごいねー」



 社員たちが続々と集まってきた。どうやら、今出社してきた人たちもいるようだ。俺と早苗があまり話さないタイプの同僚たちも興味があるようで、俺たちを囲んで次々と質問してきた。


「廉一郎君って拳だけで戦場を渡り歩いてきたって聞いたんだけど」

「獄中で生まれたってほんと?」

「頭の髑髏(どくろ)で酒飲んでるんだって?」



 噂の中の俺が戦闘民族みたいな進化してる。


「いや、誤解だから。部長だって、どちらかといえば正気に戻って出て行ったんだよ」

「またまた~」

「あの部長が自分の行いを反省するかぁ?」

「しないっしょ」


 正直に話したつもりだが、俺の言うことなど誰も信じていないというような態度だ。

 しばらくは誤解されたままだろうな。

 でも、悪い気分じゃない。

 今まではこれから先も辛いことが続くようなネガティブな思考に陥っていたが、今は今までとは違う何かが起こるような予感がする。

 新しい季節、まるで新学期になったような気持ちを彷彿させた。



「面白い!」



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