33話
高瀬博はごく普通の人生を送ってきた。
二十代後半で結婚、一人娘が生まれて部長に昇進。
絵にかいたような普通の人生だった。
そして、これが自分の幸せだと思っていた。
――だが、幸せは娘の反抗期と共に終わりを迎えた。
昔はお父さんと結婚すると言い張っていたのに、中学に上がると「お父さん、臭い」が口癖になった。
その度に口論になり、やがて口も利かなくなった。
妻との関係も冷え込み、成績不振から上司からの突き上げも厳しくなってきた。
何もかもが嫌になっていた。
何かで発散したかった。
そんなとき、部下の一人を小突いた。
やりすぎてしまったかと思ったが、部下の必死に謝る姿を見て気分がスゥ―っと晴れていくのが実感できた。
そのとき、気づいた。
上司が自分をいじめていいのなら自分も部下をいじめていいのだ。
※※※※※※
高瀬博が目覚めたとき、なぜか真夜中の社内で突っ立っていた。電話機のボタンやパソコンの画面の光だけが辛うじて周囲を照らしていた。
「は?」
なぜか記憶があやふやだ。
いつ出社したのだろう。部下はどこにいったのだろう。いつから残業しているのだろう。
色々な疑問が頭をよぎった。
「おい、誰かいないか!?」
だが、深く考えず高瀬は声を張り上げた。
面倒なことは部下にやらせればいい。
上司である自分が把握することではない。
「誰か早く説明しろ!」
いくら叫んでも誰も出てこない。
ますますおかしい。
ふと、パソコンの画面を見ると、子供たちが亀をいじめてる絵が壁紙になっており、『いじめ、ダメ、絶対』と書かれていた。
それを見ても、高瀬は何も思い至らない。
自分がやっていることはいじめではなく、愛のある説教だと本気で思っているのだ。
「は? なんだこりゃ! 仕事中に何やってんだ!?」
ストレス発散を兼ねてまた説教してやろう意気込んでいると。
離れた場所にあった椅子がガタンと揺れた。
「誰かいるのか!?」
音がした方向に向かうが、特に変わった様子は……。
「なんだこれ」
椅子の上には社員の代わりというようにぬいぐるみが置かれていた。手に取ってみると、微妙にぶさいくな中年男性のぬいぐるみだった。どことなく自分に似ているような気がした。
「ぬいぐるみ……。何かあったような」
記憶を探ると廉一郎のぬいぐるみを取り上げたことを思い出した。そして、殴りかかってきたことも。
「あいつ! 逆らいやがって!」
戻ってきたら首にしてやる。そう意気込んでいると。
「アオォォーーーーン!」
犬の遠吠えが外から聞こえてきた。この辺りはオフィス街になっており、犬を飼っているなんて話は聞いたことがない。
「な、なんだ!?」
窓に近づいて外を見るが、暗い空間が広がるだけだった。
そもそも今は本当に夜なのだろうか。街灯の光すら見えない。いつもの夜の闇よりも尚、深い。タールのような黒い靄が世界を覆っているようだ。
これじゃあ、まるで異世界のような。
「ォォォーーーん!」
「ひっ!」
また聞こえてきた。
そもそもここは二十四階だ。
犬の鳴き声なんて聞こえるはずがない。
「き、気のせいか?」
そんなはずはない。確実に何かがおかしい。
自分でもわかっているのに『こんなホラー映画のような非常識なことが現実に起きるはずがない』という先入観が邪魔をして上手く頭が働かない。
「き、気のせいだよな。そうに決まってる」
無理やり自分を納得させたが。
「ォォォーーン」
今度は明らかに背後から聞こえてきた。恐る恐る振り向くと、人間と同じくらいの大きさをした黒犬が佇んでいた。
凶暴な眼差し、低く唸る声、肌を突き刺す雰囲気。
夢とは思えないほどの強烈な危機感に、ぶわっと脂汗が一気に噴き出てきた。
「ひゃああああ!」
尻もちをつき、情けなく叫びながら後退する。
「来るなぁ! 来るなぁ! 誰か! 誰か来てくれ!」
辺りにある物を投げつけながら必死に叫んだ。
しかし、叫びは空しくオフィスに反響しただけだった。
一歩、また一歩と黒犬が高瀬に近づいてきた。
そのたびに嫌な気配が全身を包んだ。まるで見えない誰かに足を引っ張られているような気持ち悪さ。
眼前まで黒犬が近づいてくると生臭い獣の臭いに思わず顔を顰めた。
「グルルルゥ」
その態度に黒犬は険しい犬歯を見せて睨んだ。
「す、すみません! すみません!」
言葉が通じないのについ謝ってしまった。高瀬の心の中は恐怖で染まっていた。この時点で捕食者と被食者の立場が決まってしまった。
「助けてください。お願いします。五歳の娘がいるんです」
電気椅子に座り、死刑執行を待つ囚人のような気分で高瀬は命乞いをする。さりげなく娘の年齢を引き下げるあたりが小賢しい。
黒犬はそれを黙って見つめて。
「廉一郎に手を出すな」
人間の言葉で喋った。
思わず危機感も忘れて、ぽかんと口を開けた高瀬。廉一郎とは自分の部下である廉一郎のことだろうか。
「あの無能なゴミのことか?」
口を滑らせた瞬間、ダンッと黒犬が地面に勢いよく前足を叩きつけた。あまりの威力にオフィスがぐらりと揺れた。
「ひぃぃぃ!」
周囲に陽炎が上るくらい激しい怒りに高瀬は震えて身を縮めた。明らかな失言だったが、身勝手な高瀬はそのことに気づくことはなく、ただ怒りが収まることを願って怯えていた。
「グルルルルゥ」
噛み殺さんばかりの勢いで黒犬が唸り声を上げた。怒りに呼応するように何か嫌な気配が高瀬の体に絡みついてきた。
「い、い、命だけは。命だけは助けてぇ」
必死に命乞いをする高瀬に、黒犬は凍えるような視線を向けた。確実に何人か殺しているような殺し屋の瞳は、高瀬に死を覚悟させるくらいだった。
「彼はゴミじゃない。彼はあの子にお菓子をくれた。彼はあの子に安らぎをくれた」
虐げられて捨てられて傷ついたあぐりの傍に寄り添った。
他の霊を犠牲にしながらあの部屋に住み続けた。
あぐりの心の安寧のためになんでもやった。
それでも、あぐりは笑ってくれなかった。
「彼は私たちを家族だと言ってくれた」
それを廉一郎は癒してくれた。
まだ心からの笑みを見せてくれていないが、それでも魂は少しずつ安らいでいた。
誰にも出来なかったことをしてみせた。
「決してゴミじゃない!」
どれだけの感謝をすればいいのだろう。
この気持ちを伝えるには言葉では足りなかった。
あぐりが生前では得られなかった安らぎに必要な存在なのだ。
「もう一度ゴミと言ったら」
そこで言葉を切った。高瀬のごくりと生唾を飲み込む音だけが静寂に響いた。
「殺す」
決意を込めて高瀬を睨んだ。高瀬はもはや言葉にならない悲鳴を上げて失禁した。
それを見て、黒犬は興味を失ったかのように背を向けた。
なんとか生き延びることができたと心の底から安堵した瞬間、意識が遠のいていった。極限状態から気が緩んだせいで気絶してしまったらしい。
彼が最後に見た光景は闇の中に光る二対の眼光だった。
その恐ろしい眼差しは二度と忘れることはないだろう。
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