32話
電車を降りた瞬間、駅で混雑する人ごみを掻き分けて、会社に向かった。
これなら普通に間に合いそうだ。
「はぁ、はぁ!」
運動不足の体に鞭を打って走る。日頃からもっと運動しておけばよかった。
後悔しながらもようやく会社にたどり着いた。
なんとか会社が始まる三十分前にはたどり着いた。
いつもの出社と大体、同じ時間だ。
内心ホッとしつつ、社内に足を踏み入れた。その場にいた社員たちが一斉に俺を見つめた。いつもより緊迫した雰囲気に汗が少し引っ込んだ。
「お、おはようございます」
頭を下げてあいさつした瞬間、
「おい!」
待っていたのは部長の怒声だった。怒りで顔が赤く染まった部長がリノリウムの床をつかつかと鳴らしながら近づいてくる。
え、なんで怒ってんの?
「え、えっと何か?」
「普通は一時間前に出社するもんだろ!」
「え、でも、前は三十分前に出社しろって……」
「は? そんなのはケースバイケースだろ! なんでわかんないんだよ! 社会人なら常識だろ!」
それってつまり部長の気分次第ってことだろ。わかるかよ。
「少なくても俺はそうしてるぞ!」
部長は家に居場所がないからだろ。
「すみませんでした!」
内心、毒づきながらも必死に頭を下げた。それを見ても、部長は眉一つ動かさない。俺の謝罪は見飽きたのだろう。
この説教は長くなりそうだ。
「かわいそうに」
「部長また娘さんと喧嘩したらしいよ」
「またかよ」
社員たちのひそひそ声が耳に入ってきた。俺はまた八つ当たりされてるのか。
「そもそもなんでそんなに汗だくなんだ!」
「すみません、走ってきたもので」
「走ったくらいで汗をかくな!」
いや、無理だろ。幽霊ならまだしも人間なら走れば汗は出る。
もはや、部長が怒鳴って説教出来れば理由なんてなんでもいいんだろう。
「すみません」
それでも立場が弱い俺は従うしかない。
「こんな軽い鞄を持って走ったくらいで――」
俺の鞄を手に取り、持ち上げた瞬間、
「おわっ」
思った以上に重かったらしく体が揺らいだ。いつもはもうちょっと軽いのだが、最近は仕事量の増加に伴って家に持ち帰ることも多くなっていた。
そのせいで、鞄はいつもの倍以上の重さになっていた。
「うぐっ!」
体勢を立て直せず尻もちをつく部長。俺よりも運動不足だ。
あまりにも情けない姿に周囲の社員たちから失笑がこぼれた。
俺もちょっとざまぁみろと思ったが、顔に出したら絶対に怒られるため、なるべく無表情で手を差し出した。
「大丈夫ですか? 部長」
ぽかんとした表情で俺の手を黙って見つめていた部長だったが、徐々に顔色が赤く染まっていった。
「うるさい!」
気恥ずかしさを隠すように部長は声を張り上げて立ち上がった。
「か、鞄がこんなに重いわけないだろ! 大方、鞄に余計なものが入ってるんだろ!」
「あ、ちょっと!」
俺が止める間もなく、勝手に鞄を開けられた。仕事関係の書類しかないから別に構わ――。
「なんだこれは!」
鬼の首を取ったかのように犬のぬいぐるみを鞄から引き出した。
そうだった。あぐりのぬいぐるみがあるんだった。
「いや、それはうちの妹のもので」
「こんなものがあるからお前は仕事が出来ないんだよ!」
愉悦に顔を歪めながら部長がぬいぐるみを握りしめた。一瞬、ぬいぐるみの顔が苦しそうに歪んだ気がした。
それを見て、あぐりが苦しんだ姿が思い浮かんだ。
頭に血が上り、相手の立場を忘れて詰め寄った。
「おい、やめろ!」
「なんだその言葉は!」
「いいから返せ!」
「ひっ」
俺の鬼気迫る剣幕に、部長は怯んだが。
「う、うるさい!」
すぐに俺よりも立場が上だと思い出して、怒鳴り声を上げた。それでも引くわけにはいかない。
「その子は俺の家族だ!」
あぐりが持っているただのぬいぐるみ。
そんな認識だったはずだが、なぜか言葉が溢れてしまった。ずっとあぐりのように話しかけてきたからあぐりと混同してしまったのか。それとも。
「こんなもの!」
部長がぬいぐるみを高く上げて地面に叩きつけようとする。それを見て、自分の内から怒りが溢れてきた。
今までは部長に怒られても耐えてきた。
俺の容姿や職歴のことを馬鹿にされても怒りを殺してきた。
首になったら今後の生活のことや職歴に傷がつくからと言い訳をしてきた。
でも、家族を傷つけられてまで我慢はできない。
「やめろって言ってんだろ!」
対して、俺は拳を握りしめて部長に殴りかかる。社員たちの悲鳴が聞こえてきた。騒然とする社内で俺の拳は部長に向かって走り――。
そして。
「面白い!」
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