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30話

「じゃあ、会社に行ってくるよ」

 いつものようにスーツに着替えて靴を履いて出社準備を整える。

 不思議と家の空気が澄み切っており、心地よい朝を迎えられた。

 どうやら、俺が寝ている間にあぐりが掃除してくれたようだ。

 充実した気力のまま俺は家から出ようとしたが。


「忘れ物があるのでは?」

「忘れ物はなんですか?」


 え、忘れ物なんかあったっけ?

 慌てて鞄を見るが、特に何かを忘れているなんてことはない。


「いや、特に忘れてはないと思うけど」


 そう言うが。


「見つけにくいものですか?」

「鞄の中も? 机の中も?」

「「探したけれど見つからないのに~♪」」


 なんで歌ってるの?


「とりあえず、続きは帰ってから聞くから」


 やばい。そろそろ出ないと遅刻する。


「待ってください」

「お兄ちゃん」


 ここまで食い下がるあぐりは初めてだ。

 何かあるのかもしれない。

 『会社を遅刻すること』と『あぐりの様子がおかしい』ことが天秤にかかる。

 無論、どちらが大事かと言えば。


「どうしたんだ?」


 改めてあぐりに向き直った。あぐりのほうが大事だ。


「今日は私も一緒につれていってくれる約束では?」

「今日は私も授業参観につれていってくれる約束では?」

「いや、授業じゃないし。え、というか、そんな約束したっけ?」


 全く記憶にない。そもそも授業じゃないし。


「してたかも?」

「してないかも?」


 どうやら俺と会社に行きたいみたいだ。あぐりは姿を消すことができるから不可能ではないかもしれない。

 わがままを言わないあぐりにしては珍しい。

 家族としては嬉しい傾向だ。

 本音を言えばもっとわがままを言ってほしいくらいだ。

 何か食べたいとか何か欲しいじゃなくて、一緒に会社に行きたいっていうのは予想外だったけど。


「会社に行っても面白くないと思うけど」


 俺自身も見られていると思うとちょっと緊張する。

 それにあぐりのことが気になって仕事が手につかないかもしれない。

 ただでさえ、部長に目をつけられているのに、余計な波風を立てたくない。


「お兄ちゃんが仕事している姿が見て見たいのですが?」

「お兄ちゃんの恰好良いところを見て見たいのですが?」


 颯爽と仕事をしている姿どころか部長に叱られまくる未来しか見えない。

 そんな情けない姿をあぐりに見られたくない。


「い、いや、それはちょっと」


 ちょっと嫌な顔をしつつ断ると。


「わかりました」

「わかってしまいました」


 やけにあっさり引いたな。それなら別にいいけど。

 内心ほっとしつつ、俺は玄関のドアに手をかけた。


「じゃあ、会社に行ってくるから」


 そこまで時間はかからなかったから走れば会社には間に合いそうだ。


「待ってください」

「すぐすむかも?」


 再び呼び止めるあぐりの声。


「まだ何かあるのか?」


 振り向いた瞬間、あぐりの顔がすぐ目の前にあった。


「ど、どうしたんだ?」


 近くで見ると、端正な顔立ちと甘い女の子の匂いに一瞬、ドキッとしつつも内心の動揺を押し隠して問いかけた。


「ネクタイが曲がってるかも?」

「ネクタイが曲がってないかも?」

「どっちだよ」


 俺の言葉を無視してあぐりがネクタイに手をかけた。


「これでいいかも?」

「これでよかったかも?」

「あ、ありがとう」

「いえいえ」

「おかまいなく~」


 ネクタイの位置がさっきと比べても変わってないように見える。誤差レベルでしかネクタイは曲がってなかったんじゃないか?


「なにせ初めてやったので」

「上手くできたか微妙かも?」

「い、いや、そんなことないよ」


 よくわからないが、折角あぐりが俺のためにしてくれた行為だ。


「ありがとう」


 素直に礼を言うと、あぐりが真剣な眼差しで見つめてきた。


「お兄ちゃんは私たちに色々としてくれました」

「なので、私たちも何かしたいです」

「いや、こっちこそ色々としてもらってるからなぁ。俺のほうこそ何かしてあげたいんだけど。って、やばい! マジで会社行かないと!」


「もう用は終わったので」

「いってらっしゃい~」


 これだけのために呼び止めたのか。

 そんなにネクタイの位置が気になったのかな。

 妙だと思ったが、時間がない。


「いってきます」


 玄関から出て行く際、ちらりと背後を振り返った。そこには両手を振り上げたあぐりが見送ってくれた。

 俺はこのとき気づいていなかった。

 さっき話していたとき、途中からもう一人のあぐりの声がやけに近く感じていたこと。

 いつも手にしていた犬のぬいぐるみがなくなっていたこと。

 あぐりが俺を思う気持ちは俺が思っている以上に重いこと。

 これが後に続く事件の始まりだった。





「面白い!」


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