13話
翌日の朝、ピンポーンという音がテレビを見ていた吉田の耳に届いた。
「はいは~い」
お菓子を食べる手を止めて吉田はぱたぱたと玄関に向かった。玄関ドアの覗き穴から外を見ると。
「あれ?」
何故か誰もいなかった。いたずらかと思ったが、念のためドアを開けてみる。
「おかしい――」
「おはよう」
「ございます」
「きゃああ!」
すぐ目の前にあぐりが立っていた。見落としていたなんてことは絶対になかった。思えばあぐりと出会ってから妙なことばかり起こっているような気がする。
「驚かせて」
「ごめんなさい」
「ううん、こちらこそ、気づかなくてごめんなさい」
穏やかに言ったつもりだったがあぐりの表情は暗くなっていく。不思議と周りの空気も重く感じるように思えた。
「……」
無言のままのあぐり。不審に思っていたことが態度に出てしまったかと思い、吉田は誤魔化すように無理やり笑顔を作った。
「今日もハンバーグ作るんでしょ? がんばろ~」
わざとらしく手を振り上げた吉田をあぐりは黙って見つめた。ますます雰囲気が重くなっていく。朝だというのに何故か薄暗い。
未だに無言のあぐりに明るい性格の吉田も『早く何か喋って~』と心の中で叫んでいた。
「実は」
「困っています」
ようやくあぐりが重い口を開いて、吉田はほっと胸を撫で下した。
「どうかしたの?」
「昨日からおかしいんです」
「胸がもやもやします」
「もやもや? もしかして、胃もたれじゃない?」
昨日、試作のハンバーグを作った際、吉田は合計三個しか食べられなかったハンバーグをあぐりは五個も食べていた。
見た目によらず大食するほうだと感心していたことを吉田は思い出していた。
「それは関係ありません」
「むしろまだまだいけました」
「そ、そうなの。今時の子ってよく食べるのね~」
「でも、失敗したハンバーグのことを思い出すと」
「もやもやします」
そう言って胸を押さえるあぐり。その切ない表情が彼女の苦悩を物語っていた。行き場のない感情に戸惑うあぐりの姿を見て、吉田はかつて担当した子供たちを思い出した。
(あの子たちも上手く感情を表現できなくて苦労していたっけ)
「昨日もお兄ちゃんに酷い態度を取りました」
「昨日もお兄ちゃんに合わせる顔が無くてすぐ逃げてしまいました」
「それで?」
「自分のことが情けなくて」
「嫌になりました」
悲しそうに言うあぐりに、吉田は優しく頭を撫でた。
「それってつまり『悔しい』ってことね~」
「悔しい?」
「わかりません」
「今までそんな風に思ったことある?」
過去のことを思い出してみる。
お母さんから責められたときも。お腹がすいてどうしようもなかったときも。
こんな風に思ったことは一度もなかった。
「ありません」
「なかったです」
新しい感情の芽生えにあぐりは困ったように首を傾げた。見た目ではいつもの無表情だが、あぐりにとってこれが最大限の困惑なのだ。
「どうすればいいでしょうか?」
「何をすれば消えますか?」
「そういうときはね。素直に『悔しかった』って言えばいいの」
「悔しかったです」
「悔しいです」
「そして、『今日こそハンバーグを完成させる』っていうの」
「今日こそハンバーグを完成させます」
「今日こそお兄ちゃんに食べてもらいます」
そう決意した瞬間、あぐりの胸の中にあるもやもやが薄れていった。感情の発露を初めて経験したあぐりはあまりの感動に声にならない声を漏らして感動した。
「あなたが神か?」
「あなたがメシアか?」
あぐりが南無南無と拝みだした。むずがゆいほどの賞賛の視線を浴びた吉田は照れ隠しするように頬を手に当てた。
「ただの人妻だからね。そ、それより、改めてがんばりましょうね」
「はい」
「がんばります」
素直に頷くあぐりを見て、あの不思議な現象に悪意はなかったと確信できた。
悔しいということすらわからなかった少女だ。
怒りや憎しみもうまく育まれていないのかもしれない。
そう考えると他人を憎むということもわからないだろう。
あんなたちの悪いいたずらをして喜ぶような子ではない。
きっと何かの勘違いに違いない。
吉田はそう結論づけた。




