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引っ越しのご挨拶

作者: 朝枝 文彦

「やかましいんじゃコラァ!」

 午後十時。マンションの廊下から、半狂乱の怒鳴り声が響いてくる。茶髪の良雄と黒縁眼鏡の忠則は、同時に体をこわばらせ、ゲーム機のコントローラーを握りしめた。

 先ほどまで、大学生二人の視線を釘付けにしていた三十二型の液晶テレビは、チカチカ、ピコピコしながら、心躍る大冒険へのゴーサインを待っている。

 しばしの沈黙を破ったのは、良雄の方だった。

「ごめん、オレ、声、大きかった? 」

「うん。ちょっと……」

 忠則はそう言いながら、自分も興奮して、大分と大きな声を出してしまっていたであろう事を思い、視線を落とした。

 怒鳴り声は鳴りやまない。

 掃除用具のロッカーを、蹴飛ばす音が聞こえる。

「謝れ! 謝れや! なんとか言わんかいコラァ! 」

 この部屋の住人である忠則は、意を決して立ち上がり、玄関に向かった。

 ドアノブを、手汗と共に握りこみ、扉を開けた。

 白髪混じりの頭、くたびれたジャージを着た、不自然なほどに猫背の後ろ姿が、階段に向かうのが見えた。隣に先週越してきた、長嶋だった。

「あの、うるさくして、すいませんでした! 」

 忠則は、勢いよく頭をさげた。

「こんにちは! こんにちは! うん、うるさかった! すごくうるさかった! でも もう大丈夫だよ! こらしめてやったから!」

(……こらしめた?)

 忠則は訝しんで、ゆっくりと顔をあげた。そこには、ギラギラと輝くような笑顔を浮かべた、長嶋が立っていた。

 忠則は、長嶋が越してきた日の事を思い出した。その日も長嶋は、この満面の笑みを浮かべながら、引っ越しの挨拶に訪ねて来た。

「つまらないものですが!」

 そう言って、長嶋は洗濯用洗剤を差し出した。忠則は、普段なら遠慮するところだったが、もたげた頭のこぼれ落ちそうな目玉で、ギョロギョロとのぞき込まれて面くらい、結局、ろくに礼すら言えないまま洗剤を受け取ってしまった。オレンジの香りのするその洗剤は、今も洗濯機の中で回っている。

「えっ。こらしめた?」

 忠則は得心のいかない表情を長嶋に向けた。

「そーそーそーこらしめた! あのジジイ初めて会ったときから嫌い! こっちが笑顔で洗剤渡してやってるのに、うんともすんとも言いやがらない! さっきも自分がうるさかったのに、うんともすんとも言いやがらない! だから、白髪頭ひっつかんで、思いっきり蹴ってやったの! むかつくよね! すごくむかつくよね! なんであんなやつが隣なんだろうね! 」

「あ、あぁ、そう、ですね……」

 忠則がそう言い終わるのを待たずに、長嶋は踵を返して階段を降りていった。


「……どうだった? 」

 良雄は、へたりこむようにイスに座った忠則に、気まずそうに訪ねた。

「いや……なんか……オレらがうるさかった訳じゃないみたい。隣の……だから……向こう隣の人が、うるさかったんだと思う。蹴ってやったって……」

「蹴った!? マジで!? 」

 良雄の驚きの表情を見て、忠則はハタと我に返った。長嶋の、あの敵意が、自分に向けられなかった事への安堵感から放心していたが、蹴ってやったというのは、あまりに酷すぎるのではないか。「……えっ?」

 忠則の脳裏に、一つの事実が浮かび、忠則は思わず立ち上がった。

(向こう隣は、空き部屋……)

「いや……いや……うそ……」

 忠則はそう言いながら、先ほど頭を下げた時に、視界の端にあった光景を確かめる為、靴をつっかけて廊下に出た。

 忠則の部屋と長嶋の部屋との間に、掃除用具を入れるロッカーがあり、ひしゃげた扉の下から、白い粉がこぼれている。

 忠則は、生唾を飲み込みながら足早にロッカーに近づき、扉を開けた。

 広がる、オレンジの香り。

 ロッカーの底には、洗剤がぶちまけられ、二つに折られたモップが転がっていた。


                   (了)


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