アドルフ・アイヒマン
「僕はアドルフ・アイヒマンです」
その日、不思議な夜の訪問者はそう言いました。この部屋には、奇妙な何かがよく訪ねてくるのですが、そんな風に積極的に話し掛けられる事も、自分からそうやって名乗ってくる事も初めてだったので、わたしはやや竦んでしまいました。
「アドルフ・アイヒマン?」
その日の"それ"は朧気で、白い霧に籠もったような姿をしていましたが、それでも充分な存在感があって、わたしはそのギャップに戸惑います。
「というと、あの、ナチスドイツの?」
ガス室を利用し、大量のユダヤ人を虐殺した(この表現が適切なのかどうかは分からないけど)官僚………。
「そうです。その通りです」
その白い霧は、あっさりとそう答えます。
「僕は、アドルフ・アイヒマンです」
それから、その自称アドルフ・アイヒマンは、ガス室を作る事になった過程をわたしに話して聞かせました。最初は、銃殺をしていた、しかし、それでは効率が悪く、また、執行者の精神に障害が生じてしまう為、直接には触れず間接的に、そして、大量に人を殺す事のできるガス室を開発するに至った、と。
そして、そこまでを語って、そのアドルフ・アイヒマンは言うのです。
「ですがね、このガス室は実はそんなに珍しい存在ではないのです」
わたしは、それを聞いて目を見開きます。
「このガス室は何処にでもあります。例えば、保健所で大量に殺される犬達。幼児虐待で苦しんでいる子供たち。幼児虐待をしてしまって苦しんでいる親たち。リストラをされて、或いは負債を抱え込んで自殺をしてしまう人々。戦場で苦しんでいる人々。飢えと渇きで、骨と皮だけでなって死んでいく人々。その他幾らでも、幾らでも、そんな例はたくさんあります。そして、僕らはその痛みを実感する事はありません。だから、見殺しにしているとも、また、自らの手で殺しているとも、自覚する事はありません。まるで、ガス室というシステムによって、罪悪感を感じずに大量のユダヤ人を殺していった、ナチスの人々のように」
アドルフ・アイヒマンのように。
わたしはそこまでを聞いて尋ねました。
「あなたはアドルフ・アイヒマンではありませんね?」
すると、その彼はこう答えます。
「いいえ、僕はアドルフ・アイヒマンです。ですが、もちろん、あなただってアドルフ・アイヒマンです。この地球上に住む人々の中で、アドルフ・アイヒマンでない人間なんて、ほとんどいません」
わたしはその答えを聞いて黙しました。
「そんなガス室が存在する事を、僕は否定する事をしません。だって、それがなければ皆はきっと狂い死んでしまう。皆、悲劇に対する鈍感さを必要としているのです。ですが、それは必要な分だけ必要なのであって、ただ闇雲に鈍感であれば良いという訳ではないのです。ですが、人々はその鈍感さに必要以上に頼ろうとします。何故なら人々は、自らの世界を護っていたいと欲するからです。もしも、悲劇を減らす為に自らの世界を傷つけなくてはいけないという現実が転がっていたなら、人々はその悲劇から目を逸らします。そして、より鈍感であろうとします。例えば、世の中を救えるだろう方法が、近くに転がっていたのだとしても、自分の現実と一致しなければ、人々はそれを無視します」
僕は……
彼は語りを続けます。
「僕は憤りました。その現実が嫌だったから。僕はアドルフ・アイヒマンでいたくはなかったのです。だから、抗いました。必死に、必死に抗いました。自分では、抗っているつもりだったのです。でも、僕は……」
それから、その彼は止まりました。
「でも、僕は、それでもやっぱりアドルフ・アイヒマンだったのです」
彼はとても哀しがっていました。わたしにはそれがとてもよく分かりました。そして、だからこそ、彼がここにやって来たのだという事も。
どうして、あなたはそんなにも哀しがっているの?
自分がアドルフ・アイヒマンである事が、そんなにも哀しいの?
それとも……
「ほとんどの皆は、自分がアドルフ・アイヒマンである事にすら気付いてはいません。だから、自分に罪がある事など思いもせず、とても傲慢です。ですが、それでも、それでも僕は、皆の事を本当の意味で非難はできないのです。何故なら、彼らがそのガス室に閉じ込めてしまっている人々の中には、彼ら自身も含まれているからです。皆は残酷であるが故に、鈍感になり、そして悲劇を無視しているのではないのです。ただ単に、そういった人間という生物の性質を抱え込んでしまっていて、そして、それに抗えないで従っているだけなのです」
わたしは、その彼の語りが終わる頃にこう尋ねました。
「あなたは何故、自分をアドルフ・アイヒマンだと思うのですか?」
すると、彼は即答をします。
「僕は死にたがっています。安らかな死を望んでいます。この世界のどんな場所で、どれだけの悲劇が生まれていようと、これ以上苦しみが続くのであれば、僕は安らかな死を望もうするのです… だから、僕は、アドルフ・アイヒマンなんです」
「あなたは苦しんでいるのですか?」
わたしは、それを聞いて今度はそう尋ねます。すると、彼はこう答えました。
「苦しんでいます。とても、苦しんでいます。でも、この苦しみが消えたなら、僕はきっと、本当にアドルフ・アイヒマンになってしまうのです」
わたしは、それにこう返します。
「そうですか……、それならば大丈夫ですよ。あなたはまだ死んではいません。あなたが、アドルフ・アイヒマンであるかどうかはまだ分かりません。あなたは、この現実世界で、まだまだ何かを為す事ができます」
わたしがそう言った途端、その白く籠もった霧は消えました。