26 そして彼女はすべてを語る
時刻は午前零時過ぎ。
須弥川を渡すほとけ橋のあたりには、人の気配などない。
車の通りもほとんどなく、まばらな街灯だけが辺りを照らす、そんな橋を脇に逸れて、堤防縁の階段を使って、河川敷に降りる。
空には満天の星。
青褪めた月が、流れる川をまばゆく照らしている。
河川敷は、梅雨時らしく、濃密な湿気で満たされていて、周りに茂る丈の高い草が、視界の半ばを覆い隠している。
あたりを見回して、それから橋の下に視線を向ける。
街灯の光が届かない闇。その中に、白い光が灯されている。
等間隔に、四つ。
四方をランタン型のライトに囲まれて、中央に座る人の姿がある。
白い。
と見えたのは、空手着だ。
空手着を身にまとい、三木真里絵はそこに居た。
静かに、目を閉じて。
背筋を伸ばして正座する姿は……美しい、と思った。
「待たせたな」
声をかけると、ミキ丸は静かに目を開いた。
どこか楽しげな、透明感のある微笑を浮かべて、少女は頷いた。
「うん。待ってました。できれば刹那くんと二人きりで会いたかったんですけど……まあ、遠州さんが居るのは仕方ないことと思いましょう――だから、遠州さん。そんな所に居ないで、こちらに来てもいいんですよ?」
ミキ丸は、階段下で待機している久遠に声をかけた。
直線距離にして20メートル少々。万一の時には逃げられる、そんな位置から、久遠は言葉を返す。
「断る。話はここで聞かせてもらう」
「つれないですね……まあいいでしょう。わたしがお話ししたいのは、あくまで刹那くんなんですから」
よっ、と、弾みをつけて。
ミキ丸は跳びあがるようにして立ち上がった。
歩を、進める。
ランタンで囲まれた結界に入る。
道場で相対するように。ミキ丸と視線を交わして――言い放つ。
「聞かせてもらうぞ、ミキ丸」
「いいですよ、刹那くん。なんでも聞いてください」
ミキ丸が笑顔で返す。
泣きたいほどに、いつも通りの顔だ。
このまま踏み込まなければ、彼女はずっとこの顔で居てくれるんじゃないかと、あり得ない想像をしてしまうくらいに。
だが、聞く、と決めた。
「なら聞こう、ミキ丸。久遠を殺したのは……お前か?」
「ミキ丸はやめて下さいって。せっかちですねえ刹那くん。物事には段取りってものがあるんですよ?」
そう、抗議してから、ミキ丸は笑う。
ぞっとするほど感情のない、造りものの笑顔で。
「ええ、そうです。わたしが遠州さんを殺しました」
決定的な言葉を、口にした。
備えは、していた。
ミキ丸が“黄泉返り”だと知ったときから、覚悟は決めていた。
だけどあらためて事実を突きつけられると、やはり震えを押さえられない。
だが、久遠が居る。
だから、意地を張れる。
湧きだす勇気が、身を支えてくれる。
「いったい、なぜだ」
「……そうですね……すこし、昔話をしましょうか」
言って、ミキ丸は天を仰ぐ。
思い出すように。
思い返すように。
ただ頭上を覆う橋桁の闇に、視線を送り続けて。
「わたしは昔、刹那くんにあこがれていました」
ミキ丸は静かに、語り始めた。
「――大きくて、強くて、ヒーロー気取りで。そんな刹那くんを、小学生のころからすごいと思ってました。刹那くんにあこがれて、刹那くんの側に居たくて、だから同じ道場に入って、あなたの背中を追いかけていました……たぶん、好きだったんでしょうね」
他人事のように、突き放すように。
ミキ丸は自分の過去を、淡々と語る。
「でも、刹那くんの身長がどんどん伸びて、どんどん強くなっていって。わたしの身長は、早いうちから止まっちゃって……あの頃は、刹那くんに置いて行かれるんじゃないかって、見捨てられるんじゃないかって、ずっと怖かったんですよ」
心に、鈍い痛みを感じた。
ミキ丸の、そんな焦りをわかろうともせず、俺はミキ丸の面倒を見てやってるつもりでいた。
「でも、そんな時。中学一年生の正月に……事故が起きました」
「事故?」
問い返したが、わかってる。
時期と言葉を考えれば、それこそがミキ丸を“黄泉返り”にした出来事だと。
俺の問いにうなずいてから、ミキ丸は言葉を続けた。
「ええ。なんの変哲もない、ただの轢き逃げ。場所はね、ちょうどこのあたりなんですよ。はね飛ばされて、草藪の中に落ちて……誰にも見られることなく、死にかけていました。そんな時、偶然見てしまったんですよ。初詣帰りか、遠州さんといっしょに歩く刹那くんの姿を。わたしに気づかず、わたしを置き去りにしていく二人の姿を」
絶句した。
気づかなかった。思いもしなかった。
ミキ丸がピンチの時に、俺は彼女を助けるどころか、見捨てていたなんて。
「――行かないで、と思った。奪われたくない、と思った。死にたくない、と思った。声が出なかったから、心の中で泣いた。叫んだ。悲鳴を上げた。なのに助けは来なくて……気がつくと、わたしは黄泉返っていたんです。体は生き返って、でも、心は死んだままで。ただひとつ、刹那くんに対する執着は残っていた」
長い語りを終えて、ミキ丸は息をついた。
だが、これからだ。
ミキ丸が“黄泉返り”になった経緯はわかった。
だけど、肝心の問いに、彼女はまだ答えていない。
「お前が黄泉返りだってのはわかった。俺に執着してるのもわかった。だが、なんでいまさらなんだ? 俺とは疎遠になった久遠を、いまさらなぜ殺した?」
「……理性では、わかってるんですよ。遠州さんは大丈夫だって……でも、わたしが最後に見た光景の影響なんですかね? わたしの心の中では、いつだって遠州さんは、わたしから刹那くんを奪っていく――敵なんですよ」
吐き出すミキ丸を見て、思い出す。
“人狼”賀古みらいが抱く感情の歪みを。
ステージの上で輝きたい。“咲きたい”という感情は、死を経て“裂きたい”という狂気に歪んだ。
久遠のやつも、生の実感を求めながら――むしろ死に惹かれていた。
感情は歪む。
いびつに歪んで“黄泉返り”を狂わせる。
だから、ミキ丸も――三木真里絵も、歪んだのだろうか。
「ずっと我慢はしてたんですよ? 意味のない行為だってわかっていたから。それに、いままでずっと、刹那くんはわたしを見てくれてましたから。その実感があったから、我慢できた。できていた」
でも、と、ミキ丸は想いを吐きだす。
泣き笑いのような表情で。声を波打たせながら。
「刹那くん、格闘やめようとしてたでしょう? わたしから逃げようとしたでしょう? そんなとき、久遠さんが――にらむから。敵意を向けてにらむから。我慢できなかったんです」
それは、たぶん運命のあの日。
喫茶店のオープンテラスで、ミキ丸とお茶を飲んでいた時のこと。
たまたま通りがかった久遠に声をかけた時、あいつは俺のことを汚物を見るような目で見ていた。
たぶんそれは、ミキ丸に対するもので。
おそらくそれは、ほんのちっぽけな敵意で。
そんなものが致命的になるほど、そんなもので衝動を抑えきれなくなるほど、ミキ丸はあの時、不安定だったのだ。
「ミキ丸……おまえ……そこまで、まともじゃなくなってたのか」
「三木真里絵はとっくの昔に終わってるんですよ。いま残ってるのはその残照。心ない化物ですよ。遠州さん――遠州久遠と同じでね」
ミキ丸はうそぶく。
その表情は、ぞっとするほど――虚ろだった。
「――わたしの方からも尋ねましょうか。刹那くん。わたしが遠州さんを殺した人殺しだって知って、どうするつもりです?」
ミキ丸の問いは、刃の鋭さを持っている。
そうだ。人狼――賀古みらいの時とは違う。
ミキ丸は久遠しか殺しておらず、当の久遠は……形は変われど生きている。
殺人など立証できない。傷害事件としてすら、立件できないだろう。司法の手で裁くことなど出来ない。なら、どうすべきか。
「わかんねえよ……」
俺は感情を吐露する。
難しいことはわからない。
どうすべきなのかもわからない。
「だがな、俺は知ってるんだ。お前のせいで一人の女の子が死んだことを」
遠州久遠は死んだ。
俺のことをヒーローだと信じて、あこがれて、小説にまでしてくれた少女は、もう居ない。ミキ丸が殺した。
「お前が殺した。よりによってお前がだ。俺にはそれが――許せない」
信頼していた。
あこがれていた。
本物のヒーローだと思ってた。
そんなミキ丸が、久遠を殺した。そのことが、俺には絶対に許せない。
「――んっ」
俺の言葉に、ミキ丸は胸を押さえて、苦しげに息を吐いた。
「くっふふ……拒絶されるだろうとは思ってましたが、思ったよりキツいですね。唯一執着してる人間につき放されるのは……」
でも、いいんです。と、ミキ丸は言った。
「――もう、いいんです。まともな生活はあきらめました。わたしのことが大嫌いな刹那くんは、逃げられないように手足を折って――大事に仕舞っちゃいましょう!」
泣き笑いの表情を浮かべて、ミキ丸は宣言する。
ランタンの光に照らされたその体は、歪んだ喜びに震えていた。




