11 命の危機に見舞われる
「久遠、退がれっ!」
久遠を後ろにやりながら、構えをとる。
賀古みらいは――殺人鬼“人狼”は、かくん、と首をかしげる。まるで遠州久遠のように。
「あれ? 美少女ちゃんを庇うのはいいんだけど、その構えはなに? もしかして戦うつもり? このお姉さんとまともに戦りあえると思ってるの?」
「わかんねえよそんなこと! だけどこいつは戦えねえんだよ!」
それ以前の問題だ。
俺は久遠のヒーローだ。
俺はヒーローで居ていいんだと、久遠は言ってくれた。
そんな久遠が、万一俺より先に傷ついちまったら。久遠を守れなかったら。俺は俺で居られなくなってしまう。
「男の子だねー! いぇいいぇい! そういうの好きだよっ!」
賀古みらいは笑った。
笑いながら、身を屈め……地を蹴った。
――速い!?
その動きは肉食獣のそれ。
獣が鍵爪を振るう。乱雑だが――速い。
紙一重。鍵爪を躱す。
轟、という音を伴って、鍵爪が吹き抜けていく。
その威力に振りまわされて、“人狼”の体が一瞬、宙を泳いだ。
とっさに左のミドルを叩き込む。
プロフィールだと40kg弱の賀古みらいの体は、弾かれるように数メートルほど吹っ飛んだ。
「――ははっ!」
人狼は楽しげに笑いながら、空中で体勢を立て直して着地する。
「やるね少年。総合格闘技を5年も続けてるだけのことはあるじゃない!」
「調べてやがったか……お前こそ、なんだこの威力は」
寒気がした。
鍵爪がかすった服の袖は、ずたぼろになっている。
引きちぎられた感覚すらない。それほどの速度と膂力で、あの爪は振るわれた。
「んー、そうだねー。人間には無理な力だねー……でも、少年は知ってるでしょ? お姉さんが人間じゃないと。“黄泉返り”だと」
賀古みらいは両の鍵爪を打ち鳴らす。
トンネル内に、鋼鉄のように澄んだ打音が響く。
「……思うにね、“黄泉返り”はまっとうな蘇生じゃないんだ」
鍵爪でリズムをとりながら、賀古みらいは語る。
「死の直前に抱いた強い想いが、妄執が、妄念が、魂すら失った屍を、元の形に留め続けている。元の形に生かし続けてる。だから……歪む。想いの歪みが、肉体に反映される。だから――」
語りながら、石のテーブルに近寄り……鍵爪を、振り下ろした。
かん、と、鑿を打ちつけるような音がして、彼女の指先は、テーブルに埋まった。
そのまま、指に力を込めて、引く。
ぎぎぎ、と悲鳴のような異音とともに、石のテーブルに深い、深い爪痕が刻まれていく。
「――この爪は、人を引き裂く形を。百花繚乱に“咲かせる”形をしているのさぁ!」
笑いながら、“人狼”は爪を振るう。
瞬間。テーブルの破片が、石の砕片が襲いかかって来た。
「――くっ!」
とっさに払いのける。
直後“人狼”の姿が消えた。
いや――すでに敵は懐の内。
「はい30点!」
お返しとばかり、“人狼”が蹴りを放つ。
ガード――無駄だ。
とっさにバックステップ。
身をひねり、砲弾のような蹴りを肩で受ける!
直後――視界がブレた。
「――刹那!」
久遠の声が聞こえた。
声が近い。なんだこれは。
久遠が駆けよって……違う。
――俺が、久遠の居た場所まで吹っ飛ばされた……のか。
ふらつきながら、立ち上がる。
かろうじて身構えるが、追撃は来ない。
賀古みらいは、にやにやと笑いを浮かべながら、蹴りを放ったその位置に立っていた。
「いぇいいぇい! やるねすごいね少年! ぼんやりと石ころなんかに気をとられてるものだから、ガードごとぶち破ってやるつもりだったけど、奇麗に捌いちゃうなんて!」
「うるせえ……なんだこれは。お前の蹴りは砲弾かよ。受けた肩が動かねえ。おまけに肩で受けたってのに脳まで揺らしやがって……」
かすんだ思考で言葉を返す。
相手が会話につきあってくれるなら、御の字だ。
「まあまあそこはスペック差だね! でもなかなかいいよ少年。お姉さん、君の経歴だけ見てすっかり舐めてたよ!」
言われて、心の中で舌打ちする。
俺の格闘経歴なんて、自慢できるものはなにひとつない。
「――中一の時から格闘技を始めて、道場でめきめき頭角を現したのも最初だけ。故障を繰り返して公式大会にも出られず、ずっと燻りっぱなしのぱっとしない格闘少年! しかしどうしてなかなかやるじゃない! お姉さんうれしいよ! いぇいいぇい!」
暴力的な圧力が放たれる。
殺意。
いや、心がない“黄泉返り”が放つ、それに似たナニカだ。
4人も殺した。4人も咲かせた殺人鬼のプレッシャーは、試合で味わったそれとは比べ物にならない。
だが、救いがあるとすれば。
“人狼”の攻撃を脳裏に描きながら、心を奮い立たせる。
――ミキ丸の方が速い。ミキ丸の方が上手い。
この速度には慣れている。
だから、かろうじて対応できる。
だが、それだけじゃ状況は好転しない。
ここは“人狼”が狩り場として用意した場所だ。助けが来る可能性は限りなく低い。
ましてや外は雨だ。
多少の物音は、雨音に紛れてしまうだろう。
――“人狼”から逃げることは出来るか?
否。
――“人狼”と戦って勝てるか?
否。
――戦って、久遠が逃げるだけの時間を稼ぎだせるか?
否。
自分への問いに、ことごとく否が返ってくる。
――だが、あきらめない。
勝ち筋を探る。
逃げ筋を想像する。
時間を稼ぐ術を模索する。
どんなか細い糸でもたどって、手繰り寄せてやる。
「――刹那」
と、声。
背後の久遠が、耳元にささやきかけてきた。
「ボクも、いっしょに戦おう」
「無理だ。ありがたいが邪魔だ」
即座に首を横に振った。
久遠を守りたいから、だけじゃない。
おなじ“黄泉返り”とはいえ、歩く様さえぎこちない久遠が、あのスピードに対応するのは不可能だ。
「その通りだ。ボクにはあいつのような速度なんてない。恐ろしい鍵爪もない。だが、信じてくれ。ボクが居るこの場所で、賀古みらいの動きを一瞬だけ、止めてくれれば……なんとか出来る」
久遠は断言した。
迷いが生じた。
そんなことが可能なのか。
可能だとして、久遠を前に出していいのか。
そんな俺の耳元で、遠州久遠はささやく。
「頼む。刹那なら、きっと出来る」
迷いのないその声に、決意した。
久遠の作戦に乗ってやると。
ヒーローとして、久遠とともに物語を描ききってやると。
「わかった。やろう」
言って、三歩、前に出る。
殺人鬼“人狼”をにらみながら、静かに構えをとる。
「おっ! 覚悟を決めたね! いいねいいねその目! 君が咲いた姿は……きっと美しい! あの旅客機で狂い咲きに咲いた肉片のように!」
「その光景に……魅入られたってのか」
「だって美しかったんだ! 奇麗だったんだ! わたしがいままで見てきたなによりも! わたしが恋焦がれていた、戻りたかった、ステージの上から見た、きらきらの輝かしい光よりも! ああ、咲かせたい! 咲かせたい! 咲かせたい――君たちを!」
ああ。
どうしようもないほどに、思い知った。
俺が好きだったアイドルの賀古みらいは、取り返しがつかないほど――終わってしまっていると。
「――来いよ“人狼”!」
「――行くよ少年!」
両手を腰だめに構え、人狼が突進してくる。
想像しろ。想定しろ。
あの体勢から放たれる攻撃を。
久遠が信じてくれてるんだ。
ヒーローになれなかった俺でも、一瞬だけは……ただこの一瞬だけは、真に迫ってやる!
「おおおおっ!」
右の鍵爪が振るわれる、その瞬間。
膝を折りたたむようにして前に出る。
体当たりで射抜くは右腕を回転させる、その中心軸。
“人狼”の動きが止まる。
この一瞬だけは、左右の攻撃を封じられた。
「いぇいいぇい! やってくれるね! でも少年! お姉さんの胸に飛び込んできちゃって大丈夫なのかな? こうして――抱きしめてほしいのかな?」
避ける間もなく、抱きしめられる。
万力のごとき力で、体が締め上げられる。
だが。
「想定――内だ」
辛うじて声を絞り出し、抱きついた“人狼”ごと後ろを向く。
ちょうど久遠の正面に、“人狼”の体が差しだされた。
久遠は、その白い手を、“人狼”の、賀古みらいの細い首に添えた。
「あ、が……」
“人狼”がうめき声をあげる。
その体重を、抱き締められているはずの俺は、一切感じない。
つり上げているのだ。
久遠が、賀古みらいの体を。その細腕で。
久遠も“黄泉返り”だ。
賀古みらいほどでなくとも、その体は変質している。
思えば、俺の10kgの鉄アレイを、久遠はこともなげに振りまわしていた。
腕力なら、修練も技術も必要ない。
ただ絞める。それだけなら、格闘技Lv0の久遠でもできる。
そんな状況に持っていければ、俺たちは数の利をいかんなく発揮できる。
久遠は、“人狼”の首を、ぎりぎりと絞めあげる。
うっ血でどす黒い顔になりながらも、“人狼”は俺を絞め潰そうとする力を、けっして緩めない。
体が悲鳴を上げている。
だが、絶対に音は上げない。
俺が耐えているかぎり、“人狼”は俺を無視できない。久遠に専念できない。
「我慢、比べだ……」
「ぎ、ぎ……!」
凄まじい形相で、人狼が睨む。
背に、鍵爪が喰いこんでいく。
腕に込められた力が、一層強くなる。
痛みに、脳が痺れる。
意識が遠のいていく。
視界が急速に黒く染まっていく。
“死”を、間近に感じた……その時。
「――なにをやってるんですか」
怒りのこもった声が、聞こえてきた。
つぎの瞬間、体がズレた。
“人狼”、俺、そして久遠。三人分の体がズレるほどの衝撃。
それを一身に受けた人狼の二の腕は、奇怪な形に折れ曲がっている。
声の主は、確認するまでもない。
「刹那くんになにをやってるんですか――潰しますよ?」
三木真里絵。
正真正銘、本物のヒーローが……そこに居た。




