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ユリシーズの契約

作者: 白春

ハッピーエンドを迎える前の人々。



「ティルマ、また考え事?」



 気遣うような優しい声音に、はっとして瞼を開ける。何某かを考えているうちに夢の狭間を揺蕩っていたようだった。


 少し心配そうに眦を下げたルアニアの顔をぼうっと見つめてから、ちらり部屋を見回してみる。チロチロと燃えている暖炉の灰を見るに、うたた寝してからあまり時間は経っていないようだった。


「いえ、ちょっとうたた寝してしまったみたい」


 ごめんなさいね、と謝りながら、先ほどまで何をしていたかを手繰り寄せようとした。たしか、二人で紅茶を飲みながら冬が明け春になったらどこに出かけようか、と話していたところ、ルアニアに誰かから呼び出しがかかったのだ。そして連絡を取るために部屋を出ていく彼の背中を見つめながら、春先に思いをはせ、そして眠ってしまったらしい。


「もう大丈夫なの?」

 

 部屋を出て行った際の彼の様子からすると、何か厄介な問題が生じていそうだったのに、あっという間に片付いたのだろうか。



「ああ、たいしたことじゃないさ。父からの連絡だった」


 たいしたことじゃないと言うルアニアの顔はわずかに歪んでいて、それが嘘だと言うことをはっきりと伝えていた。彼は嘘が下手なのだ。1度気を許し懐に入れた相手には、甘えてしまうのだと彼は言っていた。

 そんなことで貴族社会でやっていけるのかしら、と彼に尋ねると、早々気を許すことは無いから大丈夫だと笑われてしまったのだっけ。


「そう、なら良いの」


 そんな彼が言わないということは、それが私にとって良くないことだからなのだろう。

 ルアニアが言わないなら、聞かない。そう自分の中で決めたのが随分昔のように感じる。





 あれはいつのことだったか。

 今日みたいに暖炉の前で二人でおしゃべりをしていた時の事だったような気がする。

 ルアニアが言ったのだ。

『嘘をつくことと、はじめから何も言わないこと。どっちが酷いのかな?』と。どっちがより相手を裏切ることになるのかな?と。

 どうしてその会話になったのかは思い出せないけれど、彼の思い詰めた顔は覚えている。

 泣き出しそうなのに、自分ではそうと気づかぬほど他のことに気を取られ追いつめられていた、あの顔を。

『僕は言わないことの方が酷いと思うんだ。嘘すら言わないんだ。誤魔化しすらしようとしない。それなら僕は嘘をつかれた方が良い。嘘でつなぎとめようとするくらいには、自分のことを大切に思ってくれているって分かる方が救われると思わない?』


 私はとても驚いたのだ。ルアニアが、嘘つきが嫌いだと日ごろから言う彼が、そんな質問をするとも、嘘を肯定するとも思わなかったから。

 彼の意見を肯定すれば良いのか、もっと明るい返答をすれば良いのか。見当もつかなくて、私の舌は張り付いてしまったように動かず、テーブルの上で握りしめられている彼の両手を包み込むことしかできなかった。


 しばらくそうしていると、ルアニアはふっと力を抜いてソファの背もたれに体を沈ませ、疲れたように笑った。

『嘘つきは嫌いなんだ。でも、あの人が嘘つきだったどんなに良かっただろう。嘘つきですらなかった。嘘をつく必要性すら感じてもらえなかった僕は、いったい何なんだい…?』

 ルアニアの言う『あの人』が誰のことを指すのかはすぐに分かった。彼がその人に認められたくて、自分のことを見てほしくて努力していたことも知っていた。

 私はあなたのことがとっても大切よ、と言うのは簡単だ。でも、その言葉がどれほど彼を慰めることができるのだろう。彼が認めてほしいのは私ではなくて、大切にしてほしいのは私ではない。耳触りの良い慰めの言葉は、逆に彼の傷を刺激して、あの人からは認めてもらえないことを突き付けてしまうのではないだろうか。


『言わないことも優しさだと思うわ』

『なぜ?』

『だってルアニアは嘘が嫌いでしょう?だから傷つけたくなくて嘘をつくことをしなかった、そうは思えない?』

『…どうかな。…。どうかな…』


 あの時、どう彼に寄り添えば良かったのかは今も分からない。確かなことは、彼がそれまで以上に嘘に敏感になったこと。彼が嘘を吐く時、それが誰かを守ろうとするものであるということ。






 ぱちぱちと薪が爆ぜる音が部屋に響いていた。

 何かを堪えるように、ルアニアは瞼を閉じて天井を仰いだ。

 葛藤しているのだ。私を傷つける事実を告げるか、嘘を嘘のまま終えるのか。

 彼が隠そうとしていることに予想はついていた。ルアニアも私が分かっていることを分かっている。

 それでも。それを口にしてしまえば、その現実が眼前に現れてしまうような気がして。

 できるだけ遠くに隠しておきたいのだ。一生仕舞っておきたいのだ。暗い箱の中から出てきてしまわないように。

 一度出てきてしまえば最後、このささやかな幸せが、暴力的とも言えるほど激しい幸せに飲み込まれ、二度と戻らないことを知っていたから。




「春になったら、何処に行きましょうか?私、ウィンズドットの有名な湖に行きたいのだけれど、どうかしら?」


 ルアニアを見つめてにっこりと笑う。さっきまでのお話の続きをしましょう、と意味をこめて。そして、私は聞かない、という意味も込めて。


「そうだね、じゃあウィンズドットの湖に行ってから、ルーケンドの市場を見るのはどうかな?あそこは多くの輸入品が集まっていると有名でね…」



 彼が努めて楽しそうに話すのを見つめながら、私は終わりの音を聞いていた。


 終わりを告げる音はどうしてこんな幸福な響きをしているのだろう、と春の予定を頭の片隅に押しのけて、そんなどうしようもないことを考えていた。








 私たちは、出会ったときからお互いの運命を知っていた。

 『私たちは運命の相手ではない』と知っていたのだ。なぜかは分からないけれど知っていたし、確信していた。その運命が覆ることは無いと。

 それでも仲良くなった。同じ年頃の貴族の子供が集められたお茶会で、物静かな彼の隣は居心地が良かったし、彼の方もそう思っていてくれたようだった。

 そしてそのお茶会の目的がそうであったように、私たちは婚約したのだ。

 私たちが結婚する日など訪れることがないと知りながら。

 

 ルアニアと居るのはとても楽しかった。そうして日々を積み重ねていく度に、私たちの運命を呪った。


 ルアニアは、ある日本当の愛を知るのだ。そして私のもとから離れていく。

 私もまた、本当の愛を知るのだ。そうして彼から離れていく。

 幸せに別れる。そしてもっと幸せになる。


 それが私たちの運命だ。始まる前から終わっている関係だったのだ。



 今も、十分すぎるほど幸せなのに。これ以上なんて欲しくもないのに。あなたが本当に好きなのに。愛なんて知らなくてもいいのに。

 運命は絶対だ。私たちはそれを確信している。

 何故って、知っているからだ。それがまごうことなき事実だと、神が与えられた定めだと知っているからだ。



 春の予定なんて実現しないのだ。そうする前に終わりが来る。

 どうして?今もこんなにあなたが好きなのに。あなたと一緒に湖の周りを散策して、市場であなたにぴったりの贈り物を見つけたい。夏には我が家の避暑地で今までのように一緒に過ごしたいのに。もうそんな未来がくることはない。

 もしかしたら、先日彼から送られた春色のワンピースを着ることすらないのかもしれない。そう思うと、如何に時期外れとは言っても、今日そのワンピースを着てくれば良かった。どうせ暖かい室内にいるだけなのだから。





 ああ、ユリシーズ。

 あなたはセイレーンの歌声にあらがえないと知っていたから自分の身体をマストに縛り付け、難破から逃れたのよね。未来の自分が立ち向かえないことを知っていたから、現在の自分を戒めてその未来に打ち勝った。


 それなら私は、私たちはどうすれば良い。

 あらがえぬ未来を知っているのはユリシーズと同じだ。でもどうやって心を縛り付ければいいのだろう。

 移ろいゆく形のない不確かなこの心を、どうやって繋ぎ止めることが出来るのだろう。

 どんな契約を結べば、あなたを好きな私で居られるのだろう。


 ルアニアを好きだと思う、何よりも大切だと思うこの想いを手放したくなんてないのに。

 こんなにも好きなのに、薄情にもこの心はあっさりと次を見つけてしまうのだ。

 運命の出会いなんて欲しくない。運命なんてなくていい。そう心から思えるのに。




 ルアニアが好きだ。

 今、この瞬間だけはそれが事実だ。春になったら忘れ去られてしまう事実だ。

 ままならない自分の心が恨めしい。


 終わりがあると知っていた。好きになっても何の意味もないと知っていた。それでも好きにならずにはいられなかった。ここにきっと、理性をこえた確かな気持ちがあるのはずなのに。





 好きとルアニアに伝えたことはない。

 ルアニアが言うこともない。


 運命を前にしてちっぽけな出会いの中に芽生えた想いなんて、口にしたって悲しくなるだけだ。ただこの想いを抱えたまま、あなたの隣に居るので精一杯だった。それだけで私たちにはすべて伝わっていたし、それだけで良かった。






 もうすぐルアニアの心を攫ってしまう見ず知らずの女の子に思いを馳せる。どんな子なんだろう。


 優しすぎて冷たい彼の心に寄り添える人なんだろう。

 彼の叫びを、もっとちゃんとうまく慰めることができる人なんだろう。私よりも、もっとずっと、上手に。

 私では入り込めなかった奥深くまで行ける人なんだろう。




 もうすぐ私の心を連れて行ってしまう男の子を想像してみる。


 私のつたない声が心に届く人なんだろう。

 引っ込み思案な私の隣に寄り添ってくれる人なんだろう。




 そして私たちは幸せになる。別々の人と、別々のハッピーエンドを迎えるのだ。






 ハッピーエンドは嬉しい。誰だって幸せになりたい。


 でも今だけは待ってほしい。


 もう少しだけ。

 この冬の間だけ。



 私は何も聞かないし、彼も何も言わない。

 遠ざけて、遠ざけて、少しだけハッピーエンドを遅らせるのだ。

 それくらい許してほしい。




 あなたの隣でお茶を飲む、この小さな幸福が手放しがたくて、ハッピーエンドを遅らせようと思う。




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