優しさの弾丸 3
自宅であるマンションに入る。そう大きくはないが5階建ての高さを持っているマンションだ。エレベーターで4階に上がり、一番奥の角のドアの前に立った昴はカギを開けてドアを開いた。目で先に入れと告げるが、やはりというか心美は動かなかった。仕方なく先に入り、電気を点けて奥に進む。心美は玄関先に立ったままだった。荷物を置いて玄関に戻り、そのまま心美の手を引いて中に入れた。リビングに荷物を置くとゆっくりと部屋の中を見渡すようにしている心美をよそに蒸し風呂状態の部屋をどうにかしようとクーラーの電源を入れた。今までは節約してきたが、莫大なお金が転がり込んできたために遠慮は無い。温度も低くして風も強くした。
「さて、と・・・」
「どうしますか?」
頭を掻いていた動きを止め、心美を見やった。とりあえずこの家の説明をしようと1つ1つの部屋を案内して回る。
「ここが俺の部屋で、んで、ここがまぁ、空き部屋だ。今日からしばらくはここで寝てね」
「一緒に寝ないのですか?」
「一緒にって・・・・・まぁ、今はね」
あたりまえのようにそう言う心美に対して疑問が浮かぶ。
「あのさ、向こうでは誰かと一緒に寝てたの?」
まさかとは思うが一応聞いてみた。
「いえ、1人です」
「そう」
その返事に心底ホッとして笑みを浮かべた。
「修太郎さんは何度か一緒に寝ようと誘ってきましたが、おばあさまが絶対にダメだとおっしゃったので。それに無理強いされたら大声を出せとも言われました」
「あいつ・・・どんだけ信用ないんだよ」
がっくりと首を垂れてそう言った。その意味が分からない心美は小首を傾げるが、そんな心美を見てある疑問にぶち当たった。
「で、俺とならいいわけ?」
「はい。おばあさまも瑞樹さんも、あなたとは必ず一緒に寝ろとおっしゃいました」
「・・・あの外道共めが」
疲れたように呟き、リビングに戻るとソファに身を埋めるように座った。そのまま心美にも隣に座るように促す。心美はスカートが皺にならないように気を配りながら丁寧な感じで腰を下ろした。実に上品で可憐だ。
「とりあえず、この家では一緒は無理だ」
「新居ではいい、ということですか?」
言い方が裏目に出たとしか言いようが無い。苦い顔をした昴はため息をつくしかなかった。
「あー、まぁ。新居次第ってことで」
「お布団を並べて寝ます」
「・・・・そうだな」
もう何も言う気になれなかった。これもまた老人2人の入れ知恵だと思う。新居の間取りも大体想像が付くがすぐにそれを頭から消した。
「風呂、沸かすか・・・・」
「教えてください」
何故か積極的になった心美に首を傾げる。だが自己解決してそのまま風呂場へと向かった。家事は自分の担当だということだろう。そうして給湯器の扱いをレクチャーする。何度も頷く心美を見て、それからお湯張りを指示すればボタン1つでそれを実行した。
「先に言っておくけど、一緒には入らないから」
「・・・お背中ぐらいはお流しします」
「自分でできる。風呂は1人でのんびり入りたい性分なんで」
「わかりました」
入れ知恵は入浴も一緒にも含まれていたのは確かだ。もう何度目かわからないため息をつくと昴はリビングへと向かった。心美はそのままリビングのすぐ横にあるキッチンへと向かう。道具の在り処などをチェックし、それから昴に冷蔵庫を開ける許可を求めた。好き勝手に見ればいいと言えば、心美は食材の確認や包丁や調味料、鍋の位置を確認していく。
「今日からはここをお預かりします」
「よろしく」
それぐらいは自由にさせてやろうと思う。ただ、他の趣味もなく、何をさせればいいのかも皆目見当もつかない。とにかく今は探り探り行くしかないと、ソファにもたれながら天井を見上げる昴だった。
*
入浴を終えた昴は心美に入るよう言ってから空き部屋へと向かった。ここは両親が寝室に使っていた部屋であり、もう10ヶ月もの間使用していない部屋だった。家具は処分し、本当の空き部屋になっていた。かといって感慨深いものもなく、昴はそこに布団を敷いた。
「8畳に布団1つじゃ寂しいもんだな」
ぽつんと置かれた布団を見て、それから腕組みをした。しばらく何かを考え込むと、自分の部屋から布団を運んで隣に敷く。もちろん、布団半分の隙間を開けて。
「何にも知らないってのも、アレだしな」
旅の疲れはあったが、いろいろ確認したいこともある。ここは本音でぶつかりあいたいところだが、相手が相手だけにそれは不可能だ。ならば引き出せる情報は全て引き出す必要がある。昴は鼻でため息をつくとリビングへと戻った。そのまま冷蔵庫に向かい、コップを2つ取って氷をいれ、グレープジュースを注ぐ。そのままリビングに戻ると預かった書類をテーブルの上に置いて1つ1つを確認していった。早苗がくれた土地や建物などはおそらく十数億円分はある。さらに書類に挟まる形で存在している通帳の中にもまた数億のお金があった。もうため息も出ず、今度は瑞樹がくれた書類へと目をやった。その時、何かがやってきて赤いキャリーバッグを開いている。顔を引きつらせてそっちを見れば、全裸の心美がバッグから下着と浴衣を取り出しているではないか。もはや目を逸らすことも忘れて凝視してしまう。濡れた髪が色気を増し、大きな胸にも目が行った。心美はそんな視線に気づくとなんの感情もなくその場で取り出した下着を履いた。あまりに気まずく、ゆっくりとテーブルの上に置いたコップへと視線を移す昴だがその裸体は目に焼きついて離れない。
「洗濯物はどうしましょうか?」
「あ、ああ、あ、明日でい、いい、いいんでない?」
「どうかしましたか?」
そのあまりのドモリ様に心美が疑問を持ったようだ。タオルで髪を拭いているが上半身は裸のままで、下半身は下着1枚の姿だ。
「え?あ、いや?胸、おっきいんだね」
思わず口を突いて出た自分の言葉に幻滅し、死にたくなる。
「そうですね、そうかもしれません」
自分の胸を持ちあげるようにした心美をつい見てしまい、慌てて反対方向を向いたがその光景はしっかりと脳が記憶して消えないようにロックまで掛けていた。
「ふ、服着なって・・・ジュースも用意したし」
「ありがとうございます」
心美はそう言うと浴衣を羽織る。無意識的に横目で見ていた昴はブラはつけないんだとか思う自分を殴りたくなるが、心を落ち着かせるためにジュースを飲んだ。心美は当たり前のように昴の隣に座る。湯上りのいい香りに理性が吹き飛びそうになるが、早苗と瑞樹の悪戯な笑顔が頭に浮かんだためにその理性はギリギリのところで自分の中に踏みとどまった。それでも自然と胸元に目が行く。
『心が迷いに出たときは、目を閉じて呼吸しろ。呼吸はすべての源だ』
曾祖父であり師匠であった男の言葉を思い出して目を閉じ、数回深呼吸をしてみせる。心美は無関心ながらじっとその様子を見つめていた。深呼吸を終えた昴の心に動揺は無い。ただ、脳に焼きついた心美の裸体だけは消しようがなかったが、それでも心は平静を取り戻していた。
「布団、並べて敷いた・・・話しながら寝ようと思って」
「わかりました」
頷いてそう言うとジュースを飲んでいいかを聞く。これからは許可を得ないで勝手に飲めばいいと告げ、昴もジュースを飲んだ。
「学校とか、どうするの?」
中学までは出ているのを知っている。だが高校までは知らない。今年16歳になった美少女の進路など知る由もないからだ。
「中学校は卒業しました。高校は通っていません。お屋敷に仕えていましたから」
「仕えてって・・・どうするかなぁ・・・・編入とかできんのかなぁ」
その辺りのことはよくわからない。腕組みをするがいい案も浮かばなかった。
「私はここの留守を預かります。昴さんは学校に通い、いつも通りの生活をしてください」
「それもばあちゃんの指示?」
「はい」
やはりこの子に自分の意思などない。
「よくこんなので修太郎に襲われなかったもんだ」
ぼそりと呟くが、それは早苗や瑞樹の力がいかに強いかを物語っていると感じる。つまり、心美に手を出したことがバレれば早苗の怒りを買う。そうなればいかに本家の人間でもただではすまなかったのだろう。その絶対的存在の大きさを思い知る。しかしながらその存在もここにはない。つまり、自分が理性を失おうとも誰も何も言わない。それに、今の心美は自分の許婚なのだ、何をしようが自由だ。そう、自由なのである。
「いろいろ、決め事をしようと思う」
「決め事?」
「そう・・・ま、それは明日かな」
「はい」
決め事、それは心美を都会の生活に適応させるためのもの。そして、自分に対する枷である。勝手に許婚にされたとはいえ、昴は心美を嫁にする気などない。だからといって本家に帰せば間違いなく修太郎の玩具にされてしまうだろう。ならば、自分のすべきことはただ1つ。心美の心を修復し、自分を持たせ、感情を蘇らせること。嫌なことを嫌と言い、喜びや悲しみを分かち合うこと。一緒に暮らして自立させるため動く、そう決めた。
「さて、疲れたし、寝るかな」
「はい」
「洗面所は、こっちね」
心美を伴って洗面所に向かい、新しい歯ブラシを用意した。先に心美に歯磨きをさせ、それから昴がそれをする。トイレに行き、空き部屋に向かえば、何故か布団の隙間を無くしている心美がいた。
「おいおいおい・・・なんで?」
「離れているのは変ですので」
「バランス的にってこと?」
「はい」
「本気?」
返事はない。もうため息もなく昴は布団に寝転がった。寝室は布団を敷いたときにクーラーを稼動させておいたために涼しい空間になっていた。とりあえず電気を消す。真っ暗だが、横に人の気配は感じられた。
「こうしたいって希望はある?」
「特にありません」
「あっそ」
もう会話は終わった。これではいけないとあれこれ質問を投げるものの、どれも素っ気ないものだった。好きな物も好きな食べ物もわからない。仕方なく、昴は都会でしてはいけない最低限のことを話し始めた。
「田舎と違ってさ、都会ってのは怖い」
「そうなのですか?」
「鍵は必ずすること。あと、カメラのインターホンがあるけど、わけのわからない相手だと返事はしないこと。新聞の勧誘は無視」
「はい」
「あと、知らない人に声をかけられても無視。あまり親切にしないこと」
「何故ですか?」
「その親切にたかってくる輩も多いんだよ・・・都会の人間関係ってのは希薄なんだ」
「わかりました」
本当に理解したのかは疑問だが、夏休みの間に仕込むしかないと思う。
「あと、買い物の場所や振込みなんかも教えるから」
「お財布は私が預かってもよろしいのですか?」
「そうだね、生活費はそうしてもらうかなぁ・・・パソコン、使える?」
「できません」
「だよなぁ・・・金も腐るほどあるし、パソコンと携帯は買うか」
「必要な物なのですね?」
「うん。明日は不動産に行って、それから買い物だなぁ」
「わかりました」
心美は頭がいい、それは理解している。一度言えばちゃんと記憶し、行動できる人間だった。だからこそロボットのようだと言われていたのだが。田舎とは違った都会の暮らしを心配するが、できるだけフォローしようと思う。幸い部活もしていないし、毎日早めに帰ればいいと思う。友達付き合いも大切だが、今は心美の生活が慣れる方が重要だ。
「1ついいですか?」
その珍しい言葉にそっちへと顔を向ける。薄闇に慣れてきたこともあって心美の顔がはっきりと認識できていた。じっと自分を見つめているが、そこに感情はない。
「なに?」
おそらくこうでも言わないと発言しないだろう。こういうところも直していかないとと思う。
「私を抱く気はないのですね?」
「・・・・君が18歳になったら考えるよ」
「わかりました」
許婚の定理からすればそういう関係はあって然りなのだろう。だが、昴にそこまでの決意は無い。結婚する気がない相手を許婚としては抱けないからだ。かといって抱かないという言葉は許婚としての心美の立場を破壊することになる。それは避けたかった。今の心美はそこに重さをおいているからだ。そう、今の言葉は逃げだ。そして自分に対する足かせでもあった。
「んじゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
昴は目を閉じる前に心美を見やった。心美は天井へと顔を向け、目を閉じている。昴はそんな心美に背を向けると少し丸まるようにして眠りについた。いろいろありすぎて疲れたせいか、すぐに寝息を立て始める。そんな昴へと顔を向けた心美は無表情のままでしばらくそうした後、再び天井の方を向いてから目を閉じるのだった。
*
「おはようございます」
その言葉に意識が急速に覚醒していく。女性の声に反応する昴だが、枕の上にあるはずの目覚まし時計へと手を伸ばすが、そこには何も無かった。
「母さん・・・今、何時?」
「今は8時です」
その言葉に一気に目が覚めて瞼を開いた。飛び込んできたのは膝立ちになった心美の姿だった。がばっと身を起こし、きょろきょろとしてから昨夜のことを思い出す。
「ああ、おはよう」
「朝食の準備が出来ています」
「ありがとう」
その言葉に一瞬だけ心美の表情が変化したが、昴は気づかず大あくびをしていた。心美はすぐにキッチンへと向かい、昴はのっそり起き上がると布団を畳む。気を遣ったのか、心美の布団もまたそのままだった。タオルケットだけは丁寧に畳まれていたが。昴はキッチンへ向かうと目を丸くした。テーブルの上にはパンや野菜炒め、目玉焼きが並んでいた。アイスコーヒーも用意されている。
「す、すごいね」
「ありあわせです。今日、お買い物をして食材を買わないといけません」
「だな」
田舎に帰るために食材はストックしていなかった。いつもはパンとコーヒーだけの朝食だったが、今日は豪華すぎて驚くばかりだ。何より、既にキッチンを使いこなせていることにも驚いた。
「美味しそうだ」
「もう召し上がりますか?」
「うん」
昴が座るのを見て、それから心美も座った。
「起きてすぐ食べられるか心配でした」
「ああ、問題ないから」
「わかりました」
感情のこもらぬ声でそう言い、心美はじっと昴を見ている。要するに先に食べない限り心美は手を付けないのだろう。
「いただきます」
「いただきます」
手を合わせ、パンをかじった。それを見た心美は箸を持って野菜炒めを口に運ぶ。昴もまた箸を取ってそれから野菜炒めを食べた。美味しい。自分では作れない味であり、母親のそれともまた違う。だが美味しかった。
「すごく美味しいよ」
「ありがとうございます」
ニコリともせずそう言い、心美はコーヒーを飲んだ。
「お箸も買わないと、な」
心美が遣っている割り箸を見てそう言う。食器も揃える必要があると感じ、とりあえずは生活用品を先に買おうと決めた。そうして食事を終えるとてきぱきと洗い物をし、洗濯を干しに行く。どうやら起きてすぐに洗濯機を回していたようだ。聞けば7時に起きて準備をしたと言う。それでも今日は寝坊しましたと言ったが、そんなことはない。ここは本家とは違うのだから。心美が洗濯を干し終えた後、2人は出かける用意をした。昴はTシャツにジーパン姿だが、心美は薄い青色のワンピースである。麦わら帽子を被り、財布などを入れた小さなバッグを肩から掛けていた。昴はリュックに書類を入れて玄関を出る。じっと待っている心美を見れば、思わず見とれてしまうほどの可愛さを持っていた。
「まず不動産に行って新居を見よう。それから生活用品を買って、時間があれば携帯とパソコンかな」
鍵を閉めながらそう言うと心美は頷いていた。新居という言葉からまるで新婚さんのような感覚になるが仕方がない。とにかく駅前の坂本不動産を目指した。今日も暑く、蝉がけたたましい。都会にあってこうまで繁殖するその生命力の凄さを見せ付けられている気がしていた。
「こっちは暑いだろ?」
「そうですね」
事務的な返事しか返ってこないが、それでもいい。
「風もないしな・・・あっちは田舎だけど、川もあるし、風景で涼める」
「そうですかね」
「そうだよ」
にっこり微笑むが反応はなかった。そうしていると目的地に到着する。忙しそうにパソコンに向かう従業員を扉越しに見つつ、その扉を引く。それらが一斉に自分たちを見るが、奥から坂本が来たために他の人間は対応せずに自分の作業を続けていた。
「あ、早速来たな」
「やっぱ連絡済み、か」
「開店と同時に電話があった。今日、そっちに新婚が行くってな」
新婚と言われて背後に立つ心美を見るが、心美はぐるっと店内を見渡している状態だった。従業員の何人かがそんな心美に見とれている。
「こりゃ別嬪さんだ」
心美を見て照れた顔をした坂本は40代半ばで小太りな男だった。昴の父親の友人であり、同級生だった人物である。それもあって城乃内本家とも親交があり、この辺で所有している土地や建物は全てここで管理されていた。
「まずは見に行くだろ?」
「そうだね、お願いします」
そう言った昴の後ろで丁寧に頭を下げる心美。
「立派な嫁さん貰ったなぁ」
「・・・かなぁ」
めんどくさいのでそのまま流したが、男性従業員からは嫉妬の目で見られている。
「羨ましいよ、おい」
坂本はそう言うと心美に微笑みかけたが、心美は愛想もなくただ坂本を見つめるだけだった。
*
そのマンションは知っていた。巨大で変形のコの字形をした16階建てのマンションである。学校から帰る時にいつも見えていたマンションがまさか城乃内家の所有物だったとは意外で、もっと小さな物件だと思っていた昴は目を点にしつつ前を歩く坂本に付いて行った。その後ろからとことこと心美も付いて来る。大きなエントランスを通り、エレベーターへと乗り込んだ3人のうち昴だけが既に疲れた顔を見せていた。
「16階の広い部屋がお前さんたちの新居だ。昨日までに家具も荷物も揃ってる」
「家具?」
「先月だったけかなぁ、本家の大ババ様から連絡あったんだよ」
「・・・そ、そう」
もうそんな前からこの計画は実行されていたのかと心美を見るが、じっと前を見つめたままだ。もう諦めるしかないかと腹を括り、昴は気持ちを引き締めた。そうしてエレベーターの扉が開く。一番手前のドアの前で立ち止まった坂本が鍵を回し、2人に入るよう促した。自分が入らないと心美が入らないために昴が先に玄関へと入る。大理石ではないものの、広く、そしてフローリングも綺麗な廊下が続いていた。
「スリッパはないが、ま、そこは買ってくれ」
言いながら坂本が先導し、リビングへと向かう。そこは20畳ぐらいの広さを持ち、テレビに電話、それに棚などモデルルームのように家具が一式揃っていた。もう声も出ない昴に対し、心美はぐるっと見渡しながら窓の前に立った。眺めは抜群で、今自分たちが住んでいるマンションも見下ろすことが出来た。
「こっちがキッチンだ」
ほぼリビングと一体となったキッチンも広く、食器棚も設置されている。心美は台所に入ると棚を確認するが、一通りの食器や調理器具まで揃っているようだった。
「使い勝手はいいはずだ」
その言葉に頷く心美に満足そうな笑みを見せた坂本は次にトイレと風呂場を見せる。トイレにはウォッシュレットも完備され、風呂場は広くテレビまで付いている。至れり尽くせりの状態に呆然とする昴をよそに、心美は坂本に風呂場の使い方などを丁寧に聞いていた。そうして廊下に対して対面にある2つの部屋を見せる。まず1つは完全に空き部屋だ。もう1つは心美の荷物を入れた段ボール箱が積まれている状態であった。昴は結局こっちへ送っていたのかとうなだれた。せっかく書いたメモも早苗の前では効果がなかったらしい。
「こっちが俺、んでここが心美の部屋なわけね」
「ま、好きにすりゃぁいいよ」
そう言い、和室も見せた。それから最後の洋室を回る。10畳ほどの広さの空き部屋だ。
「こんなに部屋があっても使い道ないけどなぁ・・・」
「ここが寝室になりますか?」
その言葉に昴は頭を掻き、坂本は驚いた顔をすぐにニヤついたものに変化させた。それを横目で見つつ、そうだなとだけ返事をする昴のわき腹を肘で突っつく坂本。
「お互いの部屋で寝ないんだ?」
「・・・・かねぇ」
「羨ましいな、おい!」
バンと背中を叩く坂本を睨む気力もない。ソファのあるリビングに戻り、いろいろな書類を見せられ、説明を受けた。未成年ということでオーナーである早苗に全てを任せることで一致したが、そこで思わぬ事実を知らされることになる。
「あと、来月からお前さんが実質ここのオーナーな。それと他の3つの物件も」
「はぁ?なんで?」
「書類、行ってないか?」
「・・・昨日貰ったけど・・・・マジかよ」
「まぁ全部こっちで引き受けるけど、住人的に問題あればお前さんに連絡が行くから、判断してくれ」
もう言葉もなく頷く昴はたった1日で劇的に変化した環境にただただ翻弄されるばかりだった。
*
「坂本龍馬さん・・・・・ですか?」
「そう」
坂本の名刺を見た心美がそう呟き、坂本は胸を張った。とりあえず坂本の事務所に戻り、いろいろな手続きを取っている最中だ。歴史上の英雄に位置する坂本龍馬と同姓同名だが、龍馬本人がこのおっさんを見たら嫌な顔をするだろうと思う昴はいろいろな書類に判子を押していった。
「心美ちゃんか・・・何か困ったことがあればすぐに言ってくれ。大ババ様からくれぐれもと言われてるし」
「よろしくお願いします」
座ったままで丁寧に頭を下げる心美に笑顔で礼を返す。清楚な大和撫子な心美は坂本だけでなく事務所にいる全ての男性従業員の心を掴んでいた。
「このおっさんはエロいから気をつけろ」
「おいおい・・・」
「エロい?」
「いやいや、そんなことないから」
「わかりました」
無表情っぷりがどことなく怖い。勘違いをしたままなのかと思う坂本だったが、昴の差し出した書類を受け取ると全てをチェックしてそばにいた男性に手渡す。
「あとはこっちで処理しとく。で、引越しは?」
「来週の金曜日にして。あっちの荷物もあるし、あっちは月末まで使えるよね?」
「そうだな。月末で売りに出すように処置するよ・・・実際売るのは10月ぐらいになるかな」
「電気やガスはこっちでするし」
「ん、わかった」
両親を亡くした後でいろいろ世話を焼いてくれた恩もあるが、それ以上に坂本は親身になってくれている。父親の親友だった、というだけでなく坂本自身が昴を気に入っているからだ。
「心美ちゃん、昴をよろしく頼む。こいつはいい奴だし、優しい。けど、どこか寂しがりやだからさ」
「んなことねーし」
「わかりました」
心美は無表情でそう言ったが、坂本にはそれが微笑に見えた。確かに表情もなく声も抑揚がない。それでも、今自分が言った言葉に嘘はないという目をしていたからだ。商売柄、人の本心を見抜く能力はあると思っている。だからこそ、昴を任せられると踏んだのだ。
「じゃ、よろしく頼むね、おじさん」
「任せろ」
坂本はそう言い、事務所の外まで見送ってくれた。昴が頭を下げ、心美もまた丁寧に頭を下げてから麦わら帽子をかぶる。そのまま駅前にあるショッピングセンターに向かう2人の背中を見やる坂本は口元に自然と笑みを浮かべていた。
「お似合いだよ」
嬉しそうにそう言い、暑さから逃げるようにそそくさと事務所の中に戻るのだった。
*
この近辺に店は豊富に揃っている。駅前にあるショッピングセンター、商店街、それにスーパーやコンビニ。本屋も2軒あり、ショッピングセンターの中にもそれがあった。カラオケやゲームセンターもあって買い物には困らない状態になっていた。まず安い品物が多いスーパーを見せ、それから商店街を回ってショッピングセンターに向かう。心美は品物と値段を見つつ昴の説明に対して丁寧に頷いていた。
「食材は最後にして、携帯とか・・・服も買うか」
「服はありますが?」
「寝巻きが浴衣ってのもあれだからパジャマとか。あと、ま、服は買おう」
「わかりました」
昴の意見には絶対服従なのか、心美は否定的な意見を絶対にしない。これも直していかないとと思う昴だったが、どうやって直せばいいのかもわからない。とりあえず今は様子を見ることにして服飾のコーナーへと向かった。心美に聞いても反応が悪いので女性の店員に見繕ってもらう。3着ほどセットで選び、試着させることにした。どれも今風で、どこまで心美が着こなすかがわからないが印象が変わるのは間違いないと思う。
「可愛いというか、綺麗な彼女さんですね」
「え?ああ、そうですね」
「清楚で・・・上品ですし、お嬢様、とか?」
「そうです」
嘘だが、立ち振る舞いはお嬢様に近い。実際は上品なメイドといったところだが。
「田舎の、名家のね」
「へぇ、凄いですね」
「ですね」
「着ました」
会話が終わったちょうどのタイミングで心美の声がした。店員がドアを開けると、そこにいるのは可愛い感じになった心美だった。今風な服だがしっかりと着こなしている。思わず見とれた昴だが、じっと自分を見ている視線に我に返ると一回転するように告げた。心美はゆっくりとその場で回り、似合っていることを証明する。満足そうに頷いた昴は残りも試着させ、そしてその全て買うことに決めた。
「3つも・・・いりませんが」
「お金は腐るほどあるんだし、いいの」
「そうですか」
困った感じがしているものの、困った顔でも口調でもない。それに苦笑しつつ支払いを終えた昴は心美を連れて靴を買いに行く。ここでもスニーカー、パンプス、ハイヒールを買う。その後は心美に聞いて下着も買えば、もう昼を回っていることに気づいた。既に昴の両手は心美の荷物で溢れている。それでもそのまま混雑したフードコートに向かい、どうにか席を確保した。心美はぐるっと店を見渡すとうどんを食べたいと言い、昴が買いに行こうとした。そんな昴を心美が制する。
「私が行きます」
「いいよ・・・こういう場所に慣れてないだろ?」
笑ってそう言い、昴はここにいるように告げてさっさと行ってしまった。心美にすれば表情には出さなかったが内心で動揺してしまう。本家にいた日々で、こんなことなど滅多にない。いつも自分が動き、男性陣は皆どんと構えていたからだ。それなのに昴は違う。自ら動き、自分に意見を求めてくる。1つ1つにお礼を言い、自分に物まで与えてくれるのだ。
「おばあさまに似ている」
ポツリとそう呟き、心美はじっと昴を見つめていた。やがて小さな機械を手に昴が戻り、システムを説明する。こんな場所に来たことがない心美はいくつか質問をしつつも頷いていた。やがて機械が出来上がったことを知らせ、昴が店まで取りに行く。それから一緒に食べ、食器を返却するのも昴だった。
「ありがとうございます」
丁寧に頭を下げる心美に苦笑し、少し考えた後で言葉を発した。
「そんなクソ丁寧にお礼を言わなくていいよ。ありがとさんってな具合でいい」
「でも・・・」
「いいの!」
笑いながらそう言い、無理矢理納得させた。心美は初めて困った顔を見せ、それからわかりましたと口にした。
「そしたら、携帯買うか」
「はい」
笑顔はない。それでもいいと思う昴は荷物を持とうとする心美を制しながら1階にある携帯ショップへと向かうのだった。
*
最新のスマホを購入し、ついでにと家電を見て回った。ノートパソコンも購入し、荷物がいっぱいになったので一旦家に帰って荷物を置いてから食材を買いに出かけた。もう夕方だというのに暑さは和らぐことを知らない。心美は時々ハンカチで額の汗を拭いつつ歩いている。化粧っけもないことが気になったが、16歳でそれもどうかと思い何も言わずにいる。見た目は随分と大人びて見えるため、年下ということを忘れがちになってしまっていた。その立ち振る舞いもまたその要因の1つになっている。実に落ち着いたその雰囲気は同級生を見渡してもいないと思う。常に一歩下がり、自分の意見は言わない。指示に従い、ただ尽くす。男としては最高なのだろうが、それは違うと思う。間違いではないのだろうが、それでは人とは思えないからだ。早苗の言葉は絶対だ。だが、拒否しなかったのはあの場にいれば心美は一生人形のままだと思ったからだ。自分を賭けの対象にされても疑問にすら思わず、当然のことのように受け止めていたことがその最たる例だった。だから同居を受け入れたのだ。彼女を人間らしくしたいというその想い。修太郎の元には置いておけないという危機感。そして早苗の意思、それらから心美を引き取る決意を固めたのだから。嫁にする気はない。自分を取り戻した心美の好きにさせたいというのが昴の意思だった。昴はなるべく日陰を選んで歩く。斜め後ろから付いてくる心美もまた日陰になるように。
「食材って、どこで買うかな」
「一番野菜が安いのはスーパーでした。お魚は商店街の魚屋さんですね」
「全部覚えてるわけ?」
「はい」
「凄いね、大したもんだよ」
心底驚いた顔をする昴を不思議そうに見ながら、心美はその疑問を昴にぶつける。
「何故、褒めるのですか?」
昴は足を止める。そうして今度は昴が不思議そうな顔をしてみせた。
「何でって・・・凄いと思ったし、実際に凄いから。俺なんか何回か回ってやっとだぜ?でもめんどくさくなって適当に買うしさ」
「そうなのですか?」
「一発で覚えられるって才能だと思うよ。俺にはできない、だから凄いと思う」
にこやかに笑ってそう言う昴を見て動揺しつつも顔には出ない。心美は押し黙ったままじっと昴を見つめていた。こんな些細なことで褒めてくれたのは早苗だけだった。瑞樹も褒めてくれはしたが、男性から褒められたことは初めてのことだ。
「んじゃ、まずはスーパーに行こう」
「はい」
昴は笑みを浮かべていた。斜め後ろにいる心美からは見えなかったが、その雰囲気からその優しい空気は読み取れる。だからといって何も感じはしなかったが。
*
とりあえず今日の買い物は終わった昴だが、一応、最後に心美に確認を取る。食材は両手に昴が持っており、心美に荷物を持たせなかった。これもまた心美は不思議がったが、昴はあえて無視をしていたのだった。
「他に買うもの、ある?」
そう言われた心美は少し考えるようにしてから言葉を発した。
「生理用品が必要です」
「・・・・・そう」
「もうすぐなので」
「・・・・それは言わなくていい情報だけどね」
「では周期は伝えておくべき情報ですか?」
平然とそう言う心美に絶句し、がっくりと頭を垂れた。こうまでボーダーラインがないことが異常に思えたことはない。
「いや、いい・・・・」
そこで何気ない疑問が浮かんだために、どうせならばとそれを口にした。
「修太郎は周期を知ってるの?」
「はい。聞かれたので答えました」
やはりあいつのせいかと思い、どうせなら腕の一本でも折っておくべきだったと今更ながらに後悔をする。
「ド変態めが」
吐き捨てるようにそう言うと、そこのベンチで待っているから買っておいでと告げた。心美はまたも丁寧に頭を下げてからショッピングセンターの方に向かって行った。ベンチに座り、大きく息を吐く。今の会話でドッと疲れが出た感じだ。
「どういう教育してきたんだよ・・・」
田舎の人間だから、ではない。早苗は常識人だが、心美が変わっているせいか。それとも、修太郎のせいか。あれだけ見事に仕込んでいるにも関わらずそういった面に関してボロボロの心美が不憫になる。昴は気を引き締めて心美と暮らそうと決意をした。せめて人間らしくなって欲しい、そう願って。
*
心美の提案によって食材を3日分買い終え、家に戻れば5時を回っていた。とりあえず本日のノルマは達成したが、明日からは引越しの準備をしなくてはならない。心美はさっそく夕食の準備に取り掛かり、昴は風呂を洗いに行く。自分がすると言った心美を制しての行動だ。とにかく心美には同居をするに当たってのルールを設定する必要があると思う。家事は分担となるが、学校に行っている間に全てされるのがオチだろう。風呂を洗い終えてリビングに行けば、テーブルの上にアイスコーヒーが用意されていた。何も言わなくてもこうしてもらえるのは非常にありがたいと思う。夕食を手伝おうにもあまりの手際の良さに邪魔にしかならないのは必至だ。仕方がないので引越しの準備をすると告げ、坂本が準備してくれた段ボール箱に漫画や雑誌、CDやDVDを詰め込んでいった。これからは我慢もなくなんでも買えると思うとわくわくするが、それもどうかと腕組みをした。億万長者になったとはいえ、それに甘えるのもどうかと思う。自分のお金ではないからだ。親の遺産だけで当面の生活は困らない。とすれば、小遣い制にするのが一番だろう。生活費や遊ぶためのお金、学費に諸費、心美と相談して細かく分ける必要があると思う。お金はあれどそれにおぼれたくは無いし、それを傘に着たくない。そう、修太郎のように。そうして1時間ほど荷造りをしていた昴は開いているドアをノックする音にそっちを見やった。ドアの脇に心美が立っているのが見える。
「お食事の用意が出来ました」
まるで旅館の仲居さんのような言葉にむずがゆくなってしまう。
「わかった。わかったけど、これからはもっと砕けた言い方でお願いしたいね」
昴が部屋を出るまで全く動かない心美は立ち上がる昴をじっと見つめていた。言っている意味がわからない、そんな目をしている。
「ご飯できたよ~、みたいなさ。言ってみ?」
「ご飯できたよー」
「・・・・昔のSFかなんかの機械語みてーだな」
実に機械的な言葉と声に苦笑してしまった。
「ま、でもこれからはそれで」
「はい」
「風呂沸いたよ、とか、そういうのもね」
「・・・努力します」
「努力はいらない、自然にね」
心美の肩をぽんと叩き、微笑んで部屋を後にした。強く叩かれていないのに肩が熱く感じるのは何故か。その答えを出せる心美ではなく、すぐに昴に付いて行った。キッチンのテーブルに並んだその食事に昴は思わず声を上げた。焼き魚にサラダ、それに味噌汁。ザ・日本の食卓というべきものが並んでいたからだ。さっき買った黒豆などもある。
「嫌いなものでもありましたか?」
「俺、好き嫌いないからさ・・・アレルギーもないし」
「そうですか」
「すごく美味しそう」
嬉しそうにそう言いながら席に着いた昴にご飯をよそって茶碗を置く。お茶を煎れ、それから席についた。
「いただきます」
「どうぞ、召し上がってください」
「そういうのも無しね。いただきます、でいいから」
「・・・いただきます」
2人は会話もなく夕食を進める。そうして食事を終えたところで昴はルールのことを口に出した。
「あのさ、同居に当たってのルールってかさ、決め事、しようよ」
「決め事、ですか?」
「そう」
そう言い、昴は提案を投げた。まず家事は心美がメインになるが、手伝いはする。また、手伝うことがあれば言うこと。お金の管理は自分がする。けれど生活費は心美が管理する。自分たちの部屋は掃除以外の干渉しない等、いろいろな提案をしていった。心美は口を挟まず、ただ黙って頷くだけだった。
「他に都会での注意事項もある。まぁ、夏休みの間にできるだけ教えていくからさ」
「わかりました」
「新学期が不安にならないようにしないと、な」
学校が始まれば生活の全てを心美が請け負うに等しくなる。だからこそ、都会で暮らす最低限の知識だけは授けておきたいのだ。心美は美人だ、それだけで危険も多いのだから。
「ま、とにかく引越しだけどな」
「そうですね」
食器を片付ける心美に習って自分もそうする昴だが、先に風呂を勧められてそれに従った。こういった家事は心美の範疇だ。なるべく奪う真似はしたくない。いずれは分担にすればいいと風呂場に向かい、まずはそこで心美のバスタオルを準備した。また昨夜のようなことにならないよう、後でさっき買ったパジャマを準備させることも覚えておく。ゆったりと湯船に浸かり、疲れを癒す。体を洗い、頭を流す。ただの買い物だったはずなのにこの疲れ方は異常だと思う。とにかく今は慣れるしかない、そう思った矢先だった。
「昴さん、お背中・・・」
「結構です」
「はい」
先手を打ったとはいえ、ますます疲れる。さすがに一緒に風呂に入れば理性が保てるとは思っていなかった。昨日の裸体を見ただけでも結構危なかったほどだ。
「手を出したら、負けだ」
勝ち負けではない。だが、嫁にする気もない女と関係は持ちたくなかった。いや、普通ならばそれでいいのかもしれない。けれど心美は早苗の指示による許婚なのだ。手を出せばすなわちそれは嫁になるということだ。嫁にはしたい、けど、今の人形のような心美を嫁にはしたくない。きっと抱いても反応もなく、それこそ人形を抱いている気にしかならないだろう。修太郎はそれでいいのだろうが、自分は違うのだから。
「俺にとってマイナス面しか見えない、この同居・・・」
そうは言ってもプラス面もある。料理は上手でてきぱきとなんでもしてくれる。だが、それにしても割に合わないと思う。
「とにかく、やるしかないか」
それは決意をこめた言葉とは思えぬ暗い声だった。
*
心美が風呂を上がり、リビングでくつろいでいた昴はそのパジャマ姿に釘付けになっていた。赤い色をしたパジャマだが、よく似合っていると思う。ますます理性の危機を感じつつ、隣に座る心美から流れてくるなんともいえないいい香りがそれを増長させていった。
「今日は別個に寝ない?」
「何故ですか?」
まさか襲ってしまいそうだからとは言えず沈黙する。
「理由は・・・ないけど」
「では昨日のように」
きっぱりそう言い、心美はテレビを見やった。ため息をついた昴はこれも早苗の入れ知恵と諦め、自分の理性に全てを賭けた。やがていい時間となって歯磨きとトイレを終えて寝室に向かう。既に布団が用意されていることに呆然としつつ、昴は重い足取りで布団の上に座った。
「そういや携帯もパソコンも開けてないな」
「そうですね」
「明日はまずそれやって、それから荷造りだ」
「わかりました」
「んで、息抜きに散歩でもしよう」
「はい」
昴は心美に笑みを見せ、それから寝転がる。心美もそれに習うかのようにして寝転んでみせた。電気を消せば音もない。あるのはクーラーが稼動する静かな音だけだった。
「服、ありがとうございました」
唐突にそう言われた昴は心美のいる方を見るが、暗くて何も見えない。苦笑をしてから頭の後ろに手をやって天井を見上げる。
「2人の金で買ったんだし、礼はいらない」
「そう、ですか」
「礼を言うなら、俺の方だし」
心美の頭が動く音がした。自分の方を見たのだとわかるが、昴は天井を見上げたままだった。
「美味いご飯や、布団のこと。あと、一緒にいて振り返る男たちの顔を見れたこと」
2人で買い物をしている間、何人もの男が心美を見て呆け、自分を睨んできた。中にはカップルもいて2人から睨まれもしたほどだ。そんな優越感を得るなど考えもしなかった。
「今日、ありがとうね」
「・・・・」
心美は何も言わず、昴は目を閉じた。何故自分にお礼を言うのか不思議でならない。当たり前のことをして御礼を言われるなど、ありえないからだ。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
心美は徐々に慣れてきた目で昴の横顔を見つめていた。何故この人はこうなのだろうと思う。自分のすることにいちいち礼を言い、自分を気にかける言葉を投げてくる。そんな必要はないと思う。そう思うのに何故かそれを心地よく感じている自分もいる。それは一瞬のことですぐに消えてなくなるのだが。
「変な、人」
心美は眠りについている昴を気遣って小さくそう呟いてから天井を見上げ、そして目を閉じた。
『ありがとう』
その言葉を思い出し、自覚のないまま小さな微笑を浮かべていた。それも一瞬で消え、心美はすっと眠りについた。いつになく心地のいい寝入りだったが、当然本人にその自覚はないのだった。